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zoom RSS サブシステンスと障害学(再び)

<<   作成日時 : 2006/01/31 07:26   >>

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以前、CBR(地域に根ざしたリハビリテーション)研究会のMLで「サブシステンスと障害学」の連関について書き散らかしたものが、その会員用のHPに保管してあったので、そこからコピーして、以下に貼り付けておきます。4年位前のやりとりです。

====

、「持続可能な開発からサブシステンスへ」ということとCBRのつながりですが、

うーん、・・・・

無理につなげると、・・。


第三世界における障害者のプロジェクトは成長や開発というパラダイムではないところに位置づけられなければならないと思っています。

従来の開発パラダイムと持続可能な開発は違うという意見もあるかもしれませんが、現状では持続可能な開発というのは社会を持続可能にするというより開発を持続可能にすることになっているような気がしています。

GNPで測られる経済成長やものの豊かさを過度に追わない価値観への転換が障害者が生きやすい社会につながると思うのです。

第三世界は開発されなければならないというパラダイムを克服して、サブシステンスという言葉が示すような価値観のもとで、コミュニティをベースにした障害者のプロジェクトがあればいいと思うし、当事者が希望すれば、そこにリハビリというようなものも含まれていいんじゃないかと考えています。

===


===以下、障害学MLに投稿したものに加筆訂正===

一昨年の暮れ、別の方面で「サブシステンス」という言葉に出会いました。それについて環境・平和研究会という平和学関係の人たちの中で少し勉強しています。

いろいろな人がこの言葉をいろんな風に使っているのですが、とりあえず、サブシステンス=「自然生態系のなかで人間社会を維持し、再生産していく仕組み」という風に考えています。

さて、GDPの成長を第一義的な価値にしたり、第三世界はキャッチアップしなければならないという価値観では地球は続いていかないということは明白になりかけているのに地球の大部分の政治を動かす価値観はなかなか変わりません。

いろんなものや人が開発されなければならないというパラダイムはまだまだ幅をきかせています。

ところで、障害学が追求する価値観はそういう既成の価値観からの訣別を宣言しているという風に最近、考えはじめています。


そこで、サブシステンス志向というのが出てくるのです。地球は開発・発展・成長パラダイムからの離脱を求められている。そこで違う価値軸としてのサブシステンス志向なのですが、障害学をそういう観点で位置づけると、無理がなくなるように思うのです。

genuine benefit (あきらかに得なこと)というときの価値観の見直しです。(有名な倫理学者のピーター・シンガーは障害がないことはgenuine benefitsだと言っている。)


効率や経済成長を追い求める社会の価値観の中に障害者施策を位置づけるとどうしても、きしむものがあるような気がしています。

価値軸をサブシステンス志向(サブシステンス=「自然生態系のなかで人間社会を維持し再生産していく仕組み」)という風にずらすと、すっきりしてくるのではないかと思うのです。


物の豊かさや効率ばかりを追い求める社会からの転換が求められているときに、障害学が主張する価値観は、障害者だけの利害を超えて有用である(なんか自分の言い方がねじれてる。有用を求めないための有用!)のではないでしょうか?

こういう主張って、誰かがもうしてるのだろうとは思います。もしかしたら、「障害学への招待」の中にもあったかしら。どこかに先行研究のようなものがあったら、誰か教えてください。

で、共感してくれる人がいたら、どんどん使ってもらえたらうれしいです、オープンソースです。


==障害学MLに書いたものからの引用ここまで==

辞書によるサブシステンスの用法と私たちが使うサブシステンスの用法にはずれがあります。

以下は紹介した「環境を平和学する」からの引用です。

===以下、引用===
3. サブシステンスにもとづく平和

 もともと人類学などで自給自足経済を意味したサブシステンス概念に、本書では次のような新しい意味あいを込めて用いてきている。
 ポランニの影響を受けたウォーラーステインの世界システム論には、中心部が主として第三世界サブシステンス領域を収奪することにより近代世界システムが成立してきたという理解がある。同じくポランニを源泉とするイヴァン・イリッチおよび玉野井芳郎らによって、市場経済を相対化しサブシステンスを志向する論も説かれてきた。マリア・ミースらによって、フェミニズムとエコロジーの視角からの「サブシステンス生産」を基盤にする新しい社会の展望もなされている。
 サブシステンスの基本には、第2章で見たように物質代謝(メタボル)としての人間の生存や自然と人間との循環関係があるだけでなく、人間の生殖(リプロダクション)も当然ながら含まれる。
 第1章では、「進化の過程を通じ、人類は自然の循環のなかで永く維持存続が可能な社会をつくり、生存し続けてきた」ことから、「自然生態系のなかで人間社会を維持し、再生産していく仕組みがサブシステンス」と説明していた。
 人間の本来性、すなわち潜在的実現可能性というものは、放置されて自然に発現するわけではない。80歳まで生きるはずの新生児が生まれても、放っておかれたらじきに死んでしまう。親・親族・友人・近所の人たち、医療労働者・教育労働者・その他、周囲のあらゆる人びとが介在し、育み見守っていくことを通じて発育が次第に達成される。本来性を実現させる人びとの営為の総体とその社会的仕組みとが自然条件とともに存在し機能することで、本来性は現実のものとなる。そのシステムこそがサブシステンスなのだ。

===引用ここまで===

つまり、やみくもな経済成長を求めるありかたから、明確に訣別し、サブシステンスを求める価値観への転換が問われているということを明確に自覚しなければならない時代に突入しているように思うのです。


まだまだ、説明したりないとは思うのですが、とりあえずこのくらいにしておきます。


=======
> サブシステンスという言葉の意味はなかなか難しいですね。

確かに一筋縄ではいかないですね。しかし、21世紀を展望するときに、大きな価値観の転換が必要になっていることは明白だと思うのです。そこで、とりあえずの作業仮説として、開発・成長志向の現代から脱却する価値観を示すものとしてサブシステンスという言葉を置いてみたら何か、そこで見えてくるものがあるんじゃないか、というのが、ぼくが環境平和研究会という研究会に参加してサブシステンスについて考えはじめて感じていることです。

> サブシステンスとは,「生きていくために必要最小限の糧を得る方法と考え方
> 。・・・・欲望にかられて野生生物を乱獲するのではなく,野生生物それ自体の
> 生存 が維持され,繁殖が繰り返される条件 に合った数を、それに適した方法
> でしか捕らない・・・・・。」アラスカの原住民の間では,今も受け継がれて
> いる考え方である。 文明が高度化した現代にいまさらこのような考え方を
> 持ち込むのは無理 だと思うが,経済が沈滞し行き詰まってしまった現在,
> そこに何かヒントがあるような気もする。

> 上の主張は理解はできますが、実際にはどのように行動するのか?

実際にサブシステンス志向と言ったときに、都市生活者としてのわたしたちに何ができるかというのは大きな問題です。エコ・フェミニストのマリア・ミースや彼女を日本に紹介した古田睦美さんはサブシステンス・パースペクティブということで、いくつかの具体的な提案をしています。
古田さんは<「主婦」の向こうに> (市民セクター政策機構発行) というタイトルの講演録の中で以下のように言っています。
==
日本で三人の本が(マリア・ミース、ベールホフ、トムゼンのこと。本のタイトルは「世界システムと女性」つるた注)紹介され、サブシステンスを基盤とする社会を展望すると言われたとき、多くの人々から「それなら江戸時代に戻るのか」とか「あなたは電気を使わないのか」という反論があり、極端な反近代思想だとか、小さな共同体主義というふうに取られたようです。そうではなくて、ミースたちの言っているサブシステンスというのは、ひとつのパースペクティブ、見方、方向性であると、私は言い表しています。どこにいても誰でも一歩サブシステンスの方向に向かって踏み出すことはできます。たとえば、労働条件がきつくて、コンビニで環境ホルモンの入ったお茶とお弁当を買わざるを得ないという状況になっている人は、一歩でも進み、労働時間を短縮する運動をやっていき、お茶を入れて飲む時間を獲得していくということができればいいのです。それがサブシステンスのパースペクティブだと私は思っています。お金があって時間がない人は食材を選んで買うことができます。お金がなくて時間があれば、農地を耕すこともできます。(古田さんは上田市在住・つるた注)いろいろな選択肢があって、どこでもいつでも一歩進むことはできるのです。44p
==

また、ミースたちが書いた、その名もサブシステンス・パースペクティヴという本もあります。(来年には日本語になる予定)この中には東京におけるサブシステンスという例も紹介されています。
The Subsistence Perspective :
Beyond the Globalized Economy
Maria Mies 他(著),
(1999/12) Zed Books Ltd.


> おそらくインターネットの利用もサブシステンス的な生き方ではないと思います。
> 生活に必要な最低限のものではないからです。

確かに難しい問題です。インターネットという技術・設備は世界の公共財になりえるでしょうか?どこまでいっても半分以上の人がアクセスできない不公平な財だとしたら、もしかしたら、考えなおすことも必要かも知れません。


> > そこで違う価値軸としてのサブシステンス志向なのですが、
> > 障害学をそういう観点で位置づけると、無理がなくなるように思うのです。
> >
> どのように位置づけるのか、わかりやすい説明はありませんか。

開発/発展・成長・進歩・効率 というのは、現代の支配的な価値としてつながりのある一連だと思います。

その価値軸の中で、障害を位置づけるとそれは矯正すべき価値にしかならないような気がしています。そういう位置づけが、そのまま医療・福祉モデルでの障害の捕らえ方につながっていくのだと思うのです。

そうではない文脈、つまり社会モデルで、あるいは障害をひとつの文化というふうに現代社会の中で位置づけようとするのが障害学の試みだと考えます。

このようなことが障害学だとすると、成長・価値・効率 という価値軸とは違う価値軸が要請されているのかもしれないと考えます。

そうした価値軸を模索するとき、サブシステンス志向という考え方は有効性を発揮するのではないかと思ったのです。

なかなか、わかりやすい説明ができなくて、ごめんなさい。

こういう観点での先行研究はあるんじゃないかと思うのですが、寡聞にして知りません。


とにかく、「障害」というのを必ず矯正しなければならないような価値としてではなく、肯定する場合もあるというふうに位置づける「障害学」という学問が障害者の世界を超えて、存続する価値があるとすれば、新自由主義的な経済のグローバル化にともなって、成長とか効率とかいう価値に一元化されつつある現代社会をとらえかえす、ひとつのモデルになりうるということにあるのではないかと考えています。

その価値観はサブシステンス志向という価値観と親密だと思うし、仮にサブシステンス志向の価値体系というようなものが想定できるとすれば、その価値体系の中に障害学を位置づけうるだろうし、逆にサブシステンス志向の価値の中に障害学のかかげる価値観も埋め込んでいかなければならないと思っているわけです。


ぼくの中ではサブシステンスというのが、まだ、完全な仮説だということがよくわかりました。こういう機会を作ってくれた佐久間誠司さん(CBR研究会の管理人でぼくの書いたことに応答してくれた人)に感謝しています。



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