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<<   作成日時 : 2006/09/20 05:21   >>

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この3連休、ラルシュ http://www.larche.org/
のスタッフのためのリトリート(黙想会)にボランティアとして参加。

ラルシュとは何かということについての簡単な説明は以下
http://homepage3.nifty.com/larchejapan/whatislarche.htm

いま、リトリートというのをWebで調べたら、いろんなリトリートがある。このリトリートの案内のチラシにはこんな風に書かれている。

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■身体の休息。いのちの深呼吸。沈黙。そんな3日間のリトリートです。
■ゆったりとしたプログラムの内に、休息と深呼吸のときを大切にします。
■今年はラルシュの心を生きようとするアシスタントの方々を中心としたリトリートです。プログラムの運営、進行などはボランティアのスタッフたちが担当します。
■沈黙については、はじめのオリエンテーションで説明します。また、沈黙や黙想がなじめない人には、黙想のヒントになるワークショップを用意します。
===

何も強制されないので、ただゆっくりしていてもいい。
基本的にはキリスト教の人の流儀(カトリック、プロテスタント両方の人がひとつになるための工夫がされている)で行われるので、特定の宗教を信仰していない人間には違和感が少なくないかもしれないが、ぼくはラルシュとのつきあいが長いので慣れている、でもときどき違和感は残る。

このラルシュとの出会いの中で、言葉本来の意味でのラディカルな、根っこに通じるようなことの大切さを受け取ったと思う。抑圧したりされたりというようなことを否定したいという心の動きの根っこにあるものを大切することの重要性はここで学んだ。社会運動はともすれば怒りだけが前に出てしまう。もちろん、怒りが否定されてはならないが、なぜ怒りが呼び出されるのか、何が許せないのか、それを許せないのはどうしてなのかという根っこのところまでたどっていくことが大切だと、ラルシュで気づかせてもらった。
その根っこの部分を大切にしながら、それでも社会運動に関わり続けたい。祈りとレジスタンスが切り離されてはならないと思う。こんな風に考えるきっかけは花崎さんの「生きる場の哲学」だったかもしれない。

この3日間、参加者は基本的に沈黙。ぼくのボランティアとしての仕事はHoさんの介助。Hoさんはダウン症であまりしゃべらない。3日間、毎日彼といっしょに過ごし、多くの時間を散歩していた。


以下、二日目の午前中のHaさんのお話しを紹介。10ヶ月で障害が発見された娘さんを受け入れることができるようになるまで7年余りかかったという。
===
この(7年余の)間、誕生日が来る度に周りの人たちは「誕生日おめでとう」と声をかけてくれたり、プレゼントを贈ってくれたりして祝ってくれました。しかし、私は少しもおめでたくありませんでした。
 誕生日を祝うということは、この世に生を受けて、今、この世にあるということを喜ぶということであり、そこには「生まれてきてよかったね!」という意味が込められています。しかし、私にはY子に対して「あなたは生まれてこなかった方が良かったのに」という思いが強く、おめでとうと言ってくれる人に対して、心の中では「Y子を見て本当にそう思っているの?」「何がおめでたいの?」という思いを抱いておりました。
(略)
・・・。更に昼と夜が逆転し、私と妻が交代で朝まで起きている生活が続きました、誤って寝こんでしまうとオシッコを布団に漏らされたり、ウンチで部屋中よごされ、朝まで掃除させられることになったりしました。こういう生活の中では、Y子は私を苦しめる以外の何ものでもなく、憎しみさえ覚えました。ただ、そのような状況にあっても妻は私の思いとは違い、ただY子が可愛いという思いに支えられ、・・・・献身的努力をしておりました。・・・・。親から愛されないということは、障害児にとっては障害というハンディキャップの上に、更に重荷を負わされていることになるのですが、今、おもえば、父親に受け入れられなかったその頃のY子にとっては、この母親の愛情は命の綱だったと思います。
 ところが、そんな私にも転機が訪れました。私は連れて歩くのが恥ずかしいと思いながらも、盲学校幼稚部から(恥ずかしいと思わなくなってから高等部までの間も)、毎朝スクールバス乗り場までY子を連れていっておりました。・・・横浜駅のメインストリートを通ってバス停まで行くのですが、小学部2年生のとき、そのメインストリートで大声で泣き、ひっくり返って暴れたのです。周りに人垣が出来、その恥ずかしさから早く逃げ出したくて、思わずY子をぶって無理矢理その場からひきずり出したのです。同じようなことが何回かありましたが、その度に同じことをしてしまったのです。そんなことがあった夜は、隣で口に指をくわえて無邪気に眠るY子を見ていると心が苦しくなるのです。そういう心のうずきの中で、ある時、気づいたのです・・、私が恥ずかしいというのは私の問題であって、・・・・・・・Y子にとっては、何の関係もないことではないか。・・・・・。恥ずかしいという私の思いは、私自身の中で解決すべきところをY子に転嫁していた自分の心の醜さにきづいたのです。
 この経験から、自分の立場、思い、見栄というものにこだわるとそのしわ寄せは必ず弱い人の所へいくということを学び、・・・・。その間、7年という歳月を要しましたが、この出来事によって、見栄、世間体という仮面を無意識のうちに被っている自分に気づくと共に、それをはずすことができるようになりました。

 こうして私は変えられ・・・・、それによって見え方が変ってきます。

 ・・・・・Y子を横浜駅のスクールバス乗り場まで送って行っておりました。・・・・。多少、時間の余裕を持って家をでるのですが、最後はいらいらしながら手を引っ張り、引きずるようにしてバスに間に合わせるという日々でした。バスまで送った後、私は腹立たしさといらいらした気持ちで満員の通勤電車に乗り込んだのです。・・・・或る時から一念発起して、より早く家を出ることにしたのです。より早く家をでるということも苦しかったのですが、「ゆっくり歩くこと」、「待つこと」も私にとって苦痛でした。
 こうしたことは、たまに散歩に出るときには出来ますが、毎日の生活の中でそれをするというのは、「より速く」「より高く」「より強く」という価値観の世界の中で永年生きてきた私にとっては、これまた耐えることであり、別のいらいらの原因になってきました。でも、それを我慢しながら永く続けているうちに、・・・、苦痛が薄らいで来たのです。それと共に、「耐えること」から「共にいること」という感覚に変わっていきました。
 Y子は突然立ち止まって動かなくなったりします。そんな時、手を引っ張って動かそうとするのではなく、一緒に立ち止まって耳を澄ましてみるのです。そうすると、今まで耳には届いていても聞こえていなかった鳥の声、犬の声、電車の音が聞こえてきたのです。また、路地に咲くタンポポの花が見えてきたり、春になると沈丁花の香りに気付きます。こうしたものを切り捨てた世界、つまり白黒の世界で生きている自分が「Y子と共に居る」ことによって、知らず知らずのうちにカラーの世界に入っていたのでした。その変化と共に、朝の時間が「苦痛の時間」から親子が触れ合う「かけがえのない時間」となっていったのです。
===
Haさんのお話しには母親の思いも含まれていて、この部分の主語はHaさんのお連れ合い。
===
 Y子を育てていて、つらいなぁと思う時、面倒だなぁと思う時、あぁ誰かに変わってもらいたいとよく思いました。でも、グループホームのような所に入れることは出来ないなぁと思っていました。自分が辛いから押し付けるということなら、・・・。自分が嫌と思うことは押し付けられる人も嫌だと思います。でもY子に価値があると思えた時、私にY子が必要だと思えた時、このY子と暮らす幸せを他の人に分けてあげられるのだと思えた時、手放すことも考え始めました。・・・・。

====

お話しの紹介ここまで。


こんな話を聞く少しの時間と大部分の沈黙の時間がこのリトリート。

無理やりに作らないとこういう時間は作れない。ぼくは数年ぶりにリトリートに参加して、なかなかできないのだけれど、やはりこういう時間は必要かもしれないと思った。

もちろん、ここから帰るとすぐに日常の喧騒が待っていて、その喧騒もそんなにいやじゃなかったりする部分もある。

だからこそ、ゆったりした時間の流れに、ときどき振り子を戻すことが必要なだろうなぁ。





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祈り・スピリチュアリティ・信仰
9月20日にアップロードした「リトリートに参加 」 http://tu-ta.at.webry.info/200609/article_10.html の中で以下のように書いた。 == このラルシュとの出会いの中で、言葉本来の意味でのラディカルな、根っこに通じるようなことの大切さを受け取ったと思う。抑圧したりされたりというようなことを否定したいという心の動きの根っこにあるものを大切することの重要性はここで学んだ。社会運動はともすれば怒りだけが前に出てしまう。もちろん、怒りが否定され... ...続きを見る
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