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zoom RSS 『ケアされるとはどんな経験か』読書メモ

<<   作成日時 : 2007/05/07 07:27   >>

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季刊atに連載中の「ケアの社会学」(上野千鶴子)、いままでもパラパラ見てきたのだが、太田さんの対抗暴力論を読みたくて遅れて購入した6号に掲載されている第5章の『ケアされるとはどんな経験か』は、いままで読んだ中で、ぼくにはいちばん面白かった。
 そしてメモしようという気にさせられた。サティシュを追いかけてきた安曇野に向かうバスの中で書き始め、宿でも書き、帰ってからも書いている。

とりわけ興味深かった「4 要介護者は、当事者か」という節からメモに入る。

この冒頭近くで上野さんは『当事者主権』から当事者の定義を長めに引用している。ここでもメモしておこう。
===
 「当事者とはだれか?当事者主権とは何か?
 ニーズを持ったとき、人はだれでも当事者になる。ニーズを満たすのがサービスなら、当事者とはサービスのエンドユーザーのことである。だから、ニーズに応じて、人はだれでも当事者になる可能性を持っている。
 当事者とは『問題を抱えた人びと』と同義ではない。問題を生み出す社会に適応してしまっては、ニーズは発生しない。ニーズ(必要)とは、欠乏や不足という意味から来ている。私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる。ニーズはあるのではなく、つくられる。ニーズをつくるというのは、もうひとつの社会を構想することである。」

==
 この引用のあとで、上野さんは(当事者をニーズの主体と定義し、権利の主人公と呼ぶとした上で、)「そうなれば、たんに『当事者である』というだけではじゅうぶんでなく、『当事者になる』という契機がなければならない」とも書く。問題を抱える契機ではなく、当事者になる契機が問われるわけだ。

 続けて上野さんは「問題」も「ニーズ」も社会的に構築されるとしたうえで、
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本人が「ニーズ」を自覚し、それを他者に対して要求する権利があると考えるときに初めて、「要介護者」は、「ニーズの主人公」、「権利の主体」として「当事者になる」
==
と書く。
また、当事者になることの重要性についてはこんな記述もある。

===
高齢で生活的自立に困難が伴う場合、介護保険の要介護認定を受けて利用者になるより、障害者手帳を申請して支援費制度の適用対象となるほうがはるかに制度の使い勝手はよく、…。このような二重基準を放置しているのは、もっぱら高齢者の側に、ニーズの当事者としての権利主張を行う運動体を欠いているためである。…つまり要介護者はいるが、かれらは「ニーズ」の「当事者」にはまだなっていないのである。
===
ニーズは社会的なものであり、ニーズの水準は歴史的に変動する。わたしは中西との共著で「ニーズの当事者になるとは、新しい社会を構想することである」と書いたが、「いま、ここにないもの」を、「満たされる権利のある要求」として自覚できることそれ自体が、「当事者になる」という経験であり、高齢者には、その経験がまだ不足しているというべきであろう。
==

 この上野さんの「当事者定義」から落とされてしまう当事者がいるのではないか。たとえば、この規定ではTLSのALS患者や重度の知的障害者は当事者でありえない。彼や彼女が当事者でないとするなら、それは何なのか。
 「存在」すること自体の大切さを提起する立場との齟齬がそこに生じる。これに連関することを上野さんはこの号の最後のほうで書いている。
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 『当事者主権』を刊行した後に、しばしば受けた問いは、「あなた方はよい、知的障害者や精神障害者はどうなるのか」「認知症の高齢者はどうすればよいのか」という問いであった。
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 このように問いをたてた上で、べてるの家の例を出し、「精神障害者の当事者発言」が「登場するようになった」、そして、「さらに重要なことは、医療の専門家たちがそれに学ぶ姿勢を見せるようになったことである。」と書く。
 まず、「精神障害者の当事者発言の登場」については、『当事者主権』よりも前に少なくない文章が発表されていることを、上野さんが知らないはずはないと思うのだが、どうしてこのような書き方になるのだろう。介護ではないが、精神医療の受け手が経験を言語化している例は枚挙に暇がないはずだ。確かにマスコミなどにかなり大きくにとりあげられるようになったことについてべテルの家の功績は大きいだろうが、それに先行する精神障害者の当事者の運動、当事者発言が存在したことはもっと丹念に記録される必要があると思う。そこへの違和感はちゃんと書いておきたい。
 そして、上野さんは「医療の専門家たちがそれに学ぶ姿勢を見せるようになった」と書くのだが、医療の専門家の中で、具体的にどのような変化が生じているのか。感覚として、そういう医療専門家の数が増えることはあっても減ることはないだろうと思うものの、変化と呼びうる変化がどのように起きているのか、ぼくは知らない。
 このべテルの例と医療専門家の変化の話を上野さんは、「知的障害や精神障害はどうなる」という疑義への反論としているが、反論としては非常に弱い(とりわけ上野さんの反論としては)。
 確かに上野さんの定義で「当事者になる」ことが必要で、少しの情報やサポート、あるいは運動体さえあれば「当事者になる」ことができる人は非常に広範に存在し、それは重要な課題だと思う。この課題を上野さんは高齢者の問題として、ここで提起している。また高齢者だけでなく、「知的障害者」や「精神障害者」の中でも潜在的な「当事者」が「当事者」になっていくための手立てはもっともっと考えられなければならないと思うし、そのことの重要性はいくら強調しても強調し足りないくらいだ。

 そのことはとても重要なのだが、それでも抜け落ちる人はいる。上野さんの定義では当事者になれない当事者がいる。そういう彼女や彼の存在のかけがえのなさをカバーするような当事者についての言説が欲しいとぼくは思う。そして、そういう言葉をつむぎだしていく作業にぼくもかかわりたい。

話はこの文章に戻る。

介護保険制度が当事者のニーズではなく、介護者(主要には家族)のニーズから生まれたという問題。上野さんはひとつの例として以下を示す。
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北陸のある自治体の首長が、「調査をしてみたらうちの自治体では、ホームヘルプサービスよりデイサービスのほうがニーズが高いんですよ」と発言する現場に居合わせえたことがあるが、この「ニーズ」は、いったい誰の「ニーズ」なのだろうか。
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現在、問題にされているのが主要に家族のニーズではないかという提起はそうだと思う。介護したいと思う、あるいはせざるをえない家族の思いが無視されていいというわけではないが、当事者の思いより以上に介護する側の要求がアンケートなどに出てくるという現実はあるだろう。

 また障害者当事者のニーズと家族ニーズの違いという例で言えば、いまだに大人になった障害者を抱え込む親が多いという現実がある。もちろん制度が不充分だという現実はある。しかし、制度が完全になるのを待っているだけでは何もかわらない。自分のこどもが親元から離れことを恐れているのではないかと思える親がぼくのまわりにも複数存在する。もしかしたら、これは障害者手帳の有無にかかわらない部分もあったりするのではないかと思えるような現実もある。
===

金満里の介護論の紹介
上野さんが紹介する以下は鋭い。
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 「介護者の手の力の入れ方、ひき受けるコツと気持ちのなさ、といったものの説明不可能な苛立ち。そういったものがありながらも、怒ることさえできない半ば諦めに似た笑い。(中略)私達障害者にとって、健常者は介護できるというその身体で又は態度で、意識するしないに関わらず、いつでも私を殺すことのできる立場に立っている……」
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 「肉親以外の介護を毎日違う人から受けることから見えてきたもの」を、「介護とは――私は私の身体が自分の意思で動かすことは出来ないので、他人の身体を使って、自分の身体を管理しているということ」とまとめたうえで、金はそれを「私の介護論」と呼ぶ。「重度障害者にとっての介護とは、自分の命に関わる、介護する相手の身体自体である」。
「自らの身体を命がけで、介護という他者に預けることで、他者としての身体を必死にとらえようとする」

==
このように書く金満里さんを受けて上野さんは以下のようにまとめる。
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 このように介護は身体と身体との交渉の過程として経験される。それ以前に、まず自己と(他者としての)身体との交渉の過程としても、経験される。
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そして、この章の最終節「被介護者の倫理」でこの節の表題について「暫定的に」以下のように述べる。
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介護(する/される)という経験は、複数の当事者を含む社会的・言語的・感情的・身体的な相互行為であり、したがって交渉の過程である。
 相互行為の当事者としての被介護者は、みずからのニーズを認識し、表現し、介護者に伝える権利と義務がある。そして介護者の介護が自分の意思に反する場合には、それに従わない義務と権利がある。
 相互行為のもう一方の当事者である介護者は、被介護者のニーズに耳を傾け、それを尊重し、選択肢を示したうえで、相手の意思決定の遂行を援助する義務と権利がある。またその意思決定が自分の価値や倫理に反する場合には、それに従わない自由がある。
 介護者が被介護者の人格と尊厳を尊重するように、被介護者も介護者の人格と尊厳を尊重しなければならない。両者の対等な「交渉」は、その後に始まる。

===
この書いた後で、これまで語られてきた介護者の倫理だけでなく、被介護者の倫理が語られることの必要を説き、しかしこのような命題を重ねても現実はかわらないとし、と「当事者になる」ことを主張する。
 しかし、こんな風に「被介護者の倫理」ついて「暫定的に」述べるが、金満里さんが「いつでも殺すことのできる立場」という介護者と、その介護を受ける被介護者が対等に交渉できるために何が必要なのかと考えたとき、「当事者になること」というのが前提にあったとしても、それだけでは不十分だろう。これらについて、これ以降、あるいはこれ以前の章で展開されているかどうか、ぼくは知らない。



とりあえずの長い長いメモここまで






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