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zoom RSS 小倉さんの「歴史的主体について?WSFをめぐる争点の整理」について(3)

<<   作成日時 : 2007/06/03 07:31   >>

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また、長い間隔が空いてしまったが、これもやめたわけじゃない(笑)。

(1)を書いたのが4月12日で (2)が5月11日.。んで、これが(3)になる。前に何を書いたのかさえ、覚えていない。ま、そんなことは少なくない。思い出すために書いているメモでもある、と開き直る。

さて、続き。
今回は
歴史的主体について―WSFをめぐる争点の整理(3)
からの抜書き(っていうかペースト)とそれへのコメントメモ。


==以下、抜書き+コメント==

歴史的主体について?WSFをめぐる争点の整理(3)

▼WSF=空間論がまねいた帰結としてのバマコ・アピール

WSFは、運動においても、また思想・理論においても、WSFに参加する様々な人々の交流と討議を通じて、オルタナティブとよびうる世界への収斂が、下から自然発生的に形成されるであろうという確信を抱いて「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンを掲げてきた。…(中略)…。しかし、討議を一定の方向で収斂させる力は働かず、討議の場は一向に確たる民衆の大きな統一された運動へと結実しなかった。こうしたなかで、いつまでたってもばらばらなままであることに苛立ちを覚えて、トップダウンによるより具体的な政治的方針を出すことに賭けようとする傾向が登場することは決して意外なことではない。この意味で、バマコ・アピールはWSFの「空間」論がもたらした予想できる帰結のひとつであったともいえるのだ

===


バマコ・アピールに関するこの理解はとてもわかりやすいのですが、アピールを出した人たちは、本当にこのような理解なのかなぁとも思える。アミンとかダイ・ジンファさんとか、ここに名前を出した人の中で、たぶんPP研で連絡をとれる人は少なくないようにも思うのだけれども、直接、小倉さんの分析を読んでもらって、意見を求めてみるのは面白そうだと思う。


===
バマコ・アピールの前衛主義もWSF=空間論に立つ理解も、じつは共通した主体認識に基づいている。両者の違いは、この主体を目的意識的に組織する運動を構築するか、この主体のあるがままに任せて成行きを主体の側に委ねるかというWSFの「運動」方針の違いであって、主体それじたいの想定には大きな違いはない。そして両者ともに、個人のアイデンティティの問題を回避できていないことが決定的な限界をなす。
==
支配の側であってもこれに抵抗する側であっても、いずれの場合であっても、「個人」が何らかの集団に帰属するものとして主体の問題が立てられるという枠組は共通している。
===
主体としての個人、個人の集合としての集団的な主体という前提を疑うということである。支配的なシステムは個人主義的なアイデンティティ・ポリティクスを究極にまで押し進め、個人を個人として、その固有性のままに資本主義の秩序の中でそのアイデンティティの実現(とみなされるある種のフィクション)を保証しようとする。個人の固有性の保証を通じて、対抗的な集団性を解体し、個人を資本主義のシステムのなかに統合する。


個人に還元されたアイデンティティをもっともよく実現できるのは、たとえいま実現されていないとしても、ほかならぬこの資本主義のシステムをおいて他にはなく、資本主義の理想モデルはこの個人としてのアイデンティティの実現が可能であるということを示しているということを繰り返し主張する。これが、資本主義的な競争原理に個人を駆り立てる手法なのである。

 こうした個人主義的なアイデンティティに基づく競争は、一方でばらばらな個人への不安をかきたてながら、個人を国民や消費者といった資本主義をささえる集団性へと統合する。しかし、個人があらかじめ存在するのではなく、ジェンダー、 民族、国民性、社会的な諸属性の結節点として個人が構成されるのである。個人を個人ならしめている「わたし」という実感や経験がわたしという個人を構築すると同時に、このような個人は構造的な支えをその背後に有しており、その構造は必ずしも個人の理解や実感を伴うとはかぎらない。
==
資本主義における主体が、資本による経済的な剰余の取得と蓄積を可能にすることをつうじて、この歴史的な社会を担う担い手であるとすれば、これは構造的な存在であって、生物学的な実存とは直接の関わりをもなたい。

===


 この小倉さんの主体に関する問題提起を読んでいて、じゃあ、個人をどう位置づけるのかという疑問を消すことができない。「ジェンダー、 民族、国民性、社会的な諸属性の結節点として個人が構成される」というのは、そのとおりなのだが、結節点としての個人は存在し、彼女や彼が動かなければ、運動は成立しない。彼女や彼を、違う世界をめざす社会運動にひきよせるのは何なのか。いまの世界に対する怒りや違和感を解消する方法は、高度に発達した資本主義社会の中には、数多く準備されている。

 それをオザケンは「セラピー的な社会」というふうに表現している。また、「現実的な対案」を用意して、G8サミットに参加する首脳にお願いするというような、とても改良主義的なグループに参加することで、その違和感や怒りをやわらげるという方法もある。その怒りをそのまま暴力的な直接行動で表現する勢力もある。そんな中で、どのように怒りや違和感を根本的な社会変革のための社会運動への参加と結びつけることができるのか。ある意味、それは結節点としての個人の選択の余地はあるのではないか。確かに、無限に自由な選択肢があるわけではない。

 例えば、イラクの地方で原理主義から距離を置き、非暴力での社会変革をめざすグループと出会うのは難しそうな気がする。(これは、あくまで想像の域を出ないんだけれども、リバーベンドの日記では、彼女のような声が声としてなかなか出せないことが表現されているとも言える。

 話を戻そう、社会変革の主体を個人に置かないとしたら、なんらかのコミュニティが社会変革の主体になったりするのだろうか。小倉さんがいう「対抗的な集団性」によって、主体を提起するということは、具体的にはどういうことなのか、もう少し聞いてみたいと思う。
 


これに関連することが
John Holloway
CHANGE THE WORLD WITHOUT TAKING POWER
The Meaning of Revolution Today

にもでてくる。

ホロウェイは自分はWeで記述するとこだわる。
社会理論に関するまじめな本は三人称で始まるのが普通だが、という。そして、Iも使わないという。Iを使う時点で個人主義(Individualism)が前提になっているというのだ。
 だけど、Weと言えない場面は多い。また、こっちのWeとあっちのWeで引き裂かれることもあるかもしれない。Iは小倉さんがいうようにいろいろなアイデンティティの結節点なのだから。

小倉さんの文章をちゃんと読めてるかどうか、わからないが、なかなか刺激的ではあったので、この疑問は直接ぶつけてみようかなぁと思う。



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