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zoom RSS 『フェミニズムはイリイチと和解しうるか』読書メモ

<<   作成日時 : 2007/09/16 15:56   >>

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またまた、古い読書メモからの転載

===

先住民族女性の複合的差別分析の「用具」を求めて
〜フェミニズムはイリイチと和解しうるか〜
(連載第1回)
中野憲志
compa IMADR−MJPプロジェクト機関誌
 primavera de 2001(2001年春季号 3月発行) 所収


<<著者は最初に「僕が考えたいのはフェミニズムにとっての「イリイチ問題の周辺」」であると書く。そのテーマを設定した理由がIMADRグァテマラ・プロジェクトとの関係で記述される。>>

==以下、抜書き+アルファ==<<>>内はつるた

 イリイチ受容と拒絶のポリティクスは、日本に1980年代の前半期に連続的に輸入された『ジェンダー』と『シャドウ・ワーク』に示されたイリイチのジェンダー論(と彼のフェミニズムに対する考え方)を中心に展開されてきたものである。問題は、実がそれが今でも生々しく尾を引いていることにある。そのことが、イリイチを「どう扱うか?」をさらに厄介なものにさせているのである。・・・。・・・だから、イリイチの名を出す以上、周り道を辿るように思えたとしても、「いったい何が問題なのか?」から論を起こさざるを得ないと思えた。
 ・・・、少しでも「イリイチ問題の周辺」が浮き彫りになれば・・・。そして、その周辺が実はグァテマラ・プロジェクトの「中心」に関係する、いやもしかしたら実はなにも解決されていない「21世紀問題」の核心中の核心に位置する<大問題>かもしれないんだということを。・・・。  16p

<<この後、フェミニズムを勉強している女子大生の文章を引用し、フェミニズムのイリイチ拒絶が継承されているのを見る。彼女の「市場優位のイデオロギーに女性は果敢に挑戦すべき」という主張に、イリイチは主体を「女性」に限定せずに「人間」に置いた、とし、「この違いと、この違いを生み出す歴史認識や現実認識、そして未来をめぐる考え方の違いに話が厄介になる原因があるようだ。」と書く。そして、彼女のイリイチは近代以前の男女の状況を賛美したという言説に対して、以下のように書く。>>
・・・、そのように読めるとしたら、それはイリイチが近代の「男女の状況」をどのように捉えていたからなのだろう?彼が問うたのは<「女性の力が正しく作用」するジェンダー関係とはいかなるものであるべきか?>ということだったようにも思えるがどうだろう。

<<フェミニズム以外からのイリイチ批判にも言及する>>

マルクス(宇野)経済学者のイリイチ批判の理論的根拠を「グローバリゼーションとジェンダー」を特集する『アソシエ』(2001御茶ノ水書房)で伊藤誠氏が簡潔に述べている・・・。引用してみよう。
 ・・・。近代産業社会の形成にとって、資本・賃労働関係より、家庭内のシャドウ・ワークへ女性を閉じこめる発想への転換のほうが基本的なものと見るのは観念的で転倒した歴史観ではないか、さらにその観点では技術的基礎の変化をともなう資本主義の各発展段階をつうじ、ウェイトを異にしながら、女性労働が家事労働とともに賃労働にも動員され利用される側面が軽視されることにならないかと論評したことがある。(「資本主義市場経済はジェンダーニュートラルか」)  17p

<<イリイチの>>このようなジェンダー論は、「政治や労働の場だけではなく、家族や性愛など個人的領域・私的領域にも及ぶ」、「装置としての性支配」という観点から全ゆる問題を立て、その廃絶を主張するラディカルフェミニズム(日本では江原由美子氏ほか)や、家父長制と資本制による性支配と階級支配の二元的支配からの女性の解放を唱えるマルクス主義フェミニズム(日本では199X年までの上野千鶴子氏ほか)には到底受容できる考え方ではない。・・・。
 ・・・<性的役割分業>を否定する点では、ラディカルフェミニズムとマルクスフェミニズムは共通しており、ジェンダー化された労働に基づく男性(性)と女性(性)の「生き生きとした共生」を――必ずしも未来においても拒絶するものではなかったにしても――「今、ここで」求めたり志向するのはナンセンスの極地ということになる。さらに男性性と女性性の「相補性」(complimentality)を解くイリイチの主張は、一歩間違えば、現実社会に横行する性差別を容認・無視したり、後景化させる言説に正当性を与える理論的権威として利用される危険をはらんでいる、という批判も成り立つだろう。17p
<<現に長谷川三千子とかに使われている。>>
 「ジェンダーとは何か?」、また「いったい、何からの<解放>か?」をめぐるフェミニズム内部の論争は絶えないけれども、しかしイリイチのジェンダー論は、ある原理的なところでフェミニズムが拠って立つ思想そのものに挑戦していると言えなくもない。 18p

”ポスト”と冠したところで<問題>は何も解けないといううところにこそ、現実的解決策を考えようとすればする程、絶望的になってしまわざるをえないような、<僕らの資本主義>が再生産し続ける問題群の錯綜性と深刻さがある、ということだと思うのだ。

・・・イリイチの全仕事を理解するときに、おそらく最も重要なことは、それが「人類の三分の二が現代の産業社会を経験することを避けることが、いまでも可能であるということを明らかにしたい」(『コンヴィヴィアリティ』のための道具』1972年)という課題意識に貫かれたものだった点をまず押さえることにある、と僕は思うのだ。・・・。
 ・・・。・・・。
(以下、自立・自存をサブシステンスと読みかえること・この()内はつるた)
・・・。経済成長、生産力拡大、そして開発と関連付けられて語られる平和を「パックス・エコノミカ」と定義した上でこれへの挑戦と「民衆の平和」への転換は、「このパックスという名の近代的で西欧的な形態によって耐えきれないほどに苦しめられている人々から、すなわち人間生活の自立・自存の基盤の新たなタイプの増大にたいしてわずかに望みを託している人々から、やっと始まる」とイリイチは、「平和とは人間の生き方」の末尾で述べているが、ここでの「人々」=「市場経済の発展・開発モデルにより「耐えきれないほど苦しめられている」人々が、いったい誰を指すのかは明白だろうから。
 イリイチの「苦悩」の底には、<第三世界>の「近代化」をいかにして阻みうるか、という<問い>が流れているのである。それは欧・米・日などの「先進」資本主義社会に生きる者にとっては、「脱−産業社会」への模索が国・地方・個人レベルでいかに可能かという問いになるが、むしろイリイチ自身にとってその問いは、「人類の三分の二」=「第三世界」と「第一世界の中の第三世界」がいかに先進諸国が歩んだ轍(わだち)を踏まずに「自立・自存的」社会経済関係を模索しうるか、という問いに先行されたものとして立てられていた――別言すれば、第三世界の自立・自存のためにこそ、第一世界の脱−近代(産業)化が不可欠だということ――のであって、市場と貨幣経済によって分節される第一世界と第三世界の関係性を捨象して「脱−産業社会」が訴えられたのではない、ということなのである。・・・。    18p
 ・・・、過去においても今日においても、イリイチを批判する人々の論点は、彼のシャドウ・ワーク論やジェンダー論からこの核心的な課題意識をはずし、そこを正面切って論じることをせずに、各論的に「不十分」なところを取り出して「批判」する、という構制を取っている場合が多いように思えるからなのだ。この点にこだわることは、・・・いわゆる「エコロジー運動」や、日本のフェミニズム内部では青木やよひ氏等が唱導した「エコフェミニズム」などが、イリイチ的課題意識をどの程度まで理解し、分有していたかを検証し直す作業の重要な手がかりを与えてくれることにもなる、と僕は考えている。
 今、1980年代のマルクス主義フェミニズムやラディカルフェミニズムのイリイチ批判に関して言えば、そこに欠落していたものこそ、こうした課題設定を分有するという観点だったと思えてならない。しかし、実は、これは単なる偶然ではないのである。江原氏や、イリイチとエコフェミニズムを「徹底批判」していた当時の上野氏などのマルクス主義フェミニズム理論には、<第三世界論>が見事なまでにスッポリと抜け落ちていたからである。・・・・。
 結論的に言えば、イリイチ的課題意識を受容する理論的素地(認識枠)をフェミニズムが持っていなかった、つまりイリイチを捉えきれていなかった、ということだと僕は思う。フェミニズムが<第三世界>を捉えきれていないことの行き詰まりと反省から1990年代には新たな試行の数々が生まれてきたのであるが、フェミニズム内部の諸論争を検証しなおすことは、日本(先進資本主義)のフェミニズムが、理論あるいは思想的に<影>の部分として見過ごしてきた諸問題に、もう一度光をあてていく作業に連なることにもなる、と思うのである。(注5)

<<ぼくはフェミニズムだけが問題なのではないと思う。多くの社会運動理論がイリイチ的な課題意識など共有できてはいなかった。フェミニズムはその問題をわかりやすい形で明示しえたということだけでも、他の社会運動より・・・と言えるのではないか。>>

==転載(天災)ここまで==

 ミースの来日を機に作られたPP研のサブシステンス研究会の中に80年代のエコフェミ論争をちゃんと見なおそうと言いだした人がいて、そんな話をしているところで、IMADR主催の太田昌国さんの講演会で、とーっても偶然に、この機関誌を「発見」しバックナンバーを遡って、この文章にであったのでした。前にもどこかで、書いたけれども、ジェンダーという言葉をイリッチが使い始めた頃(たった二十数年前話だ)、ジェンダーという言葉を文法用語以外の用法で使う人はとても少なかったようなのだけども、その時、イリッチはそれを否定的なものとしてはいない。
 ぼくはイリッチやここに引用した文章の著者の中野さんのようにコンヴィヴィアルな生とジェンダーを切り離すことが出来ないという結論には立てないけれども、それでも中野さんのこのフェミニズムへの問いはちゃんと考えるべき点をたくさん含んでいると思う。
 




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