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<<   作成日時 : 2008/03/13 05:05   >>

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先日の「おひとりさまの老後」読書メモ で少しだけ紹介した
内田樹の研究室の「一人では生きられないので死んで貰います」
にでている自立の話、面白いので(でも同意できない部分も小さくないのだが)、ここにもちゃんとメモしておこう。


以下、ぼくが面白いと思った部分

=====
私が選んだ聖句は『創世記』2−18。
「その後、神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのはよくない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」
人間は一人では生きられないように設計されている。
「一人では生きられない」から共生するというのが人間のデフォルトである。
そして、「一人では生きられない度」の高さがその人間の成熟度と相関していると私は考えている。
赤ちゃんは一人では生きられないが、母親がひとりいれば、「赤ちゃん的必要」の過半は満たされる。
子どもが成長すると、「友だち」が必要になる。「先生」も必要になる。「好きな異性」も必要である。
青年になると、「天敵」とか「ライバル」とかひとひねり効いた「友だち」が必要になるし、渡世上の「親分」とか「上司」とか「師匠」とか「兄貴」とかも出てくるし、教化的にはぜひ「反面教師」も欲しいし、「天津敏あるいは金子信男」的な「悪役」もいるとスパイシーだし、異性も「恋人」のほかに「遊び友だち」「情人」「ワンナイト・スタンド」など、各種取り揃えておけるものなら揃えておきたい。
ビジネスをするなら「ビジネス・パートナー」や「クライアント」が要るし、ピンの芸だって「観客」や「ファン」や「愛読者」が要る。
というふうに、成長につれて、人間の「ひとりでは生きられない」度は高まるのである。
平たく言えば、その人が愉快に生きてゆくためにどれくらい多くの他者の存在を必要としているかが、その人の社会的成熟度の数値的な指標になるということである。
「自立」というのは、この「支え手である他者たち」の数があまりに多いので、入力の変化が当人のアクティヴィティにごく微細な影響しか与えないようなありようのことである。
赤ちゃんが自立していないと言われるのは、母親がひとりいなくなるだけでたちまちその生存が危うくなるからである。
「オレは自立しているぜ」などといくら力んで宣言してもダメである。
自立というのはマインドセットの問題ではなく、現にどのように他者とわかちがたく共生しているかの問題だからである。


ここの部分に深くうなずく。ここの部分の中でも、とりわけ
「自立」というのは、この「支え手である他者たち」の数があまりに多いので、入力の変化が当人のアクティヴィティにごく微細な影響しか与えないようなありようのことである。
という部分。


ここの部分を受けて、ぼくはコメントを書いた。
唐突なようですが、

第3世界(2はなくなりましたが)への協力とか「開発」という問題の文脈で、以前、中村尚司さんが、まったく同じことを言っていました。
「自立とは、いかにたくさんの依存先を持つかということだ」と、わかったようなわからないような話だったのですが、この内田センセイの説明ですっきりしました。



この中村尚司さんの話がどうしてユニークなのかという説明が必要な人もいるかもしれない。
例えば、「開発」業界(ODAでもNGOでも)では、こんな風に言われる。

「途上国(もうこれが開発主義用語なんだが)の農村の自立のための援助は、援助が必要でなくなるためのものだ」

こういう言い方が一般的な業界で、中村さんは「自立とは、いかにたくさんの依存先を持つかということだ」という風に言っていた。(いまでも言ってるかどうかは知らない)。なんとなくそうかなぁと思いつつも腑に落ちない話だった。まあ、中村さんが得意の言い方ではある(ような気もする)。それは変化球的ではあるけれども、実はものごとの本質を見えやすくするストレートな言い方で、そんな風に投込まれることの波紋がより考えを深くしてくれるような言い方でもある。

そのことを内田さんがすごくわかりやすく表現してくれたが、この赤ちゃんの例えなんだけれども、わかりやすさ故の落とし穴にも気をつける必要はあるだろう。

 とはいうものの、この
「自立」というのは、この「支え手である他者たち」の数があまりに多いので、入力の変化が当人のアクティヴィティにごく微細な影響しか与えないようなありようのことである。
というのは色々なところで応用のできる表現だ。
「専業主婦」という存在が、多くの場合、不安定なのもこれで説明できるし、パラサイトせざるを得ない若者の問題も、こう見ることで見えやすくなる。

介助が必要な障害者や老人の生活も、家族や特定の施設という限定されたリソースしか持たなければ、とても限定されたものになる。家族と暮らしたい人は暮らせばいいのだ、そのリソースだけに頼るのでなければ。あるいは依存できる家族が何十人もいて、特定の誰かともめても他の家族となんとかやっていけるという状況が作れたら(まあ、ありえない話だけど)、依存先が家族だけでも、なんとかなる。

What’s ALS for me ? の川口さんが「はい、もうここまでにしておきます」
で紹介してくれているALSの人のための介助モデルもこのことととても親和性があるように思う。

また、
アルコールや薬物やギャンブルや買い物、あるいは恋愛というさまざまな対象への「依存症」が危険なのも、もう生活がそれだけになってしまうということでもある。(それが分散してればいいっていう問題なのかという反論もあるだろうけど。)

依存症の人の依存を深めてしまう共依存の人の問題もそこから見えてくるものがある。それは、その対象者だけに振り回されない生活をどう作るかということでもある。振り回されないための物質的な条件作り(経済的な自立とか離れることとか)と、それを可能にするメンタリティを形成するためにピア・ミーティングとか12ステップの手法があるのだろう。


そして、この依存先の多様性というのを人間だけに限らないという風に考えを広げていくこともできるかもしれない。サティシュ・クマールさんがいうように、わたしたちはまず自然に依存して生きている、というか、生かされている。

そこまで広げてしまうと拡散しすぎて、見えなくなってしまいそうなので、とりあえず今日はこのあたりにしておこう。


蛇足だけど、内田さんがここに引用した部分に続けて書いていることはよくわからない。
自立の最低限の要件は「異性のパートナー」「党派的同志あるいは〈兄弟盃〉をかわしたパートナー」そして「顧客または弟子または支援者」の三つのカテゴリーの他者に支えられていることである。
また、この話から始まる任侠映画の話はぼくにとってはどうでもいい。(この手の話でまず引き合いに出される「総長賭博」。この映画の話を先日、某反天連Aさんに聞いて、初めて知ったのだけど、話に聞くだけだと、「なんだかなぁ」という印象は拭えない。見たら違うのか。)

そう、仁侠映画の話じゃなくて、この内田さんの自立の最低条件の話だ。
どうしてパートナーは異性でなきゃダメなのか。依存する先が多くなければならないのであれば、パートナーと名づけられるような、とても親密な他者の存在は得てして桎梏になってしまうのではないか。「生きていくうえで親密な他者の存在が必要だ」というのは自立とか依存とかのロジックとは、また違うロジックなのではないだろうか。


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