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zoom RSS 〈帝国〉読書ノートその10 ピープルじゃダメ?

<<   作成日時 : 2008/04/13 04:36   >>

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(ちょっと修正して再掲)
先週の火曜日は読書会で発表する番だったんだが、風邪ひいちゃって、急遽代わってもらった。

〈帝国〉読書ノートその10 ピープルじゃダメ?


先週の火曜日は読書会で発表する番だったんだが、風邪ひいちゃって、急遽代わってもらった。

===
ふとしたきっかけで下北沢の古書カフェ「気流舎」での〈帝国〉読書会に参加している。以前、読み始めて、わけわかんなくてうんざりして投げ出した〈帝国〉。
この本自体がうんざりするような本だということは変わらないが、この古書カフェに来る比較的若い人たちと読むのはそれなりに愉しい。

んで、
ネグリ・ハートが〈帝国〉でピープルじゃダメだと言っているっていうのを、ぼくは今まで知らなかった。
『ピープル主義者』の先輩をたくさん抱えているPP研のぼくとしては、とても気になるところ。本当にピープルじゃダメなのか。「2−2 国民国家の主権」その中の「国民とその人民」という節に問題の箇所はでてくる。

とりあえず、結論を書く前にネグリ・ハートが〈帝国〉で書いていることを紹介。そのなかにぼくが考えたことも填め込んである。

以下は報告のためのレジュメから抜粋、再構成。

===
2−2 国民国家の主権

この章を読むための問題意識。

例えば、日本国憲法の三大なんとかのひとつの「国民主権」っていったいなんだろう。
この、あたかも空気や水のように当然と考えてきた概念に光を当てることがこの章のポイント(だと思う)。

ぼくたちは誰もが世界の主人公だけれども、国家の主人公なんかになる必要はないんじゃないか?それはステップとして必要なことなのか。



国民とその人民
The Nation's People


「国民は、主権の問題に対するブルジョア的なヘゲモニー的解決を要約する概念になってしまっていた。」

そして、「国民」という概念のいんちきさ加減がバレたとき、今度は「人民」つまりピープルがでてきたとネグリはいうわけだ。(140‐141p)
ここでネグリ・ハートは主権の概念と同一性の概念を不可分のものとして扱っているように思えるが、マルチチュードと同様にピープルも多様でありつつ、しかし世界の主人公だということができないのか。

そんなことを考えていくと、ここらで最初に持ち出した主権(ソヴァニティ)っていったい何だよ?っていう問いが再び持ち上がってくる。
ウェブサイトの説明
1 政治の超基礎講座 「主権」っていったいなに?
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20040418/index.htm
2 ウィキペディア 「主権」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9

興味のある人は自分で読んでみてください。おぼろげに何とかわかったような気にさせてくれる。


「俺たちひとりひとりが世界の主人公だ」ということと「主権者だ」ということは違うことなのか。

ピープルとマルチチュードがどう違うのか!

原注によると、
==
マルチチュードとピープルの区別の優れた分析としては Paolo Virno,"Virtuosity and Revolution: The Polotical Theory of Exodus." in Paolo Virno and Michael Haardt, eds., Radical Thought in Italy
(Minneapolis:Univercity of Minnesota Press, 1996), pp.189-210を見よ
==
となっている。英語の本を取り寄せて読む気力は(いまのところ)ないので、誰か読んで教えてくれたらうれしい。


本書での説明は以下のとおり
==
マルチチュードとは多数多様性のことであり、諸々の特異性(シンギュラリティ)からなる平面、諸関係からなる集合体のことである。マルチチュードは、均質なものでもなければ自分自身と同一のものでもなく、自己の外部にあるそれらの特異性や諸関係を別個のものとして区別せず、それらと内包的な関係性を保つ。これとは対象的に、人民(ピープル)は、自己の外部に留まりつづけるものとの差異を提示し、またそれを排除しながら、内面的な同一性と均一性をめざそうとする。マルチチュードがいつまでも閉ざされることのない構成的な関係であるのに対して、人民は主権のために整えられたすでに構成済みの統合体なのである。人民は単一の意思と行動をもたらすが、これらは、マルチチュードがもたらす諸種の意思と行動とは無関係なものであり、また往々にしてそれらと衝突するものである。あらゆる国民はマルチチュードを人民へと仕立てあげなければならないのだ。142p
The multitude is a multiplicity, a plane of singularities, an open set of relations, which is not homogeneous or identical with itself and bears an indistinct, inclusive relation to those outside of it. The people, in contrast, tends toward identity and homogeneity internally while posing its difference from and excluding what remains outside of it. Whereas the multitude is an inconclusive constituent relation, the people is a constituted synthesis that is prepared for sovereignty. The people provides a single will and action that is independent of and often in conflict with the various wills and actions of the multitude. Every nation must make the multitude into a people.

==

はずかしながら、ネグリ・ハートがこんなにもピープルを否定的にとらえているというのを今まで知らなかった。数年前、ピープルかマルチチュードかプレカリアートかとかいうPP研主催の集会に参加した上にその報告書も一応読んだはずだったんだけど。もう一度読み返してみよう。(その季刊ピープルズ・プラン35号を読み返してみたけれども、あんまりこのことは書かれていない。崎山さん、このことをちゃんと教えてくれてもよかったのに。そう、あのとき、あえて、ピープルとマルチチュードを対立させて際だたせたほうが面白かったんじゃないだろうか。)

「人民は主権のために整えられたすでに構成済みの統合体なのである」という。この節でネグリとハートはネーションとピープルの関係をいろいろ説明しているのだが、どうもよくわからない。確かに花崎さんはピープルとしてのアイデンティティ(同一性)の存在を前提としている(と思う)。そこにいろいろな意味付与をしている。ネグリ・ハートはここで、同一性とかいうからナショナルの同一性と同じで、それじゃダメなんだという風に書いている(ようにも読める)が、そこにはどうしても大きな違いがあるようにぼくには思える。そもそも国民国家のなかでピープルが同一性をもった存在だなんてことが、いままであったのかとも思う。そう、ここらがこの節のひとつのポイントなのだろう。国民国家におけるピープルという同一性は存在しうるかどうか。それが存在しないと問題を立てることは、ネグリ・ハートへの批判であるとともに花崎さんへの批判にもなるのだろう。

ぼくがピープルという風に問題を立てるのは、それが「何か特権的な存在ではない」という否定的な規定として、だ。ナニサマでもない、エリートでもヒーローでも、市民ですらないピープルが社会を変えるということではないかと考えている。ぼくにとって、それは「〜ではない」という規定で、ピープルとは**だと規定しているからではない。


繰り返しになるが、この節に書いてある国民とピープルはセットだというその根拠がわからない。同様にこの節の結語には以下のように書かれているが、その根拠もぼくにはわからない。
===
簡潔にいえば、国民的同一性の構築は、正統化の絶えざる強化と、神聖不可侵にして制御不可能な統一性が持つ法権利と力とを保証するものなのだ。これこそが主権の概念における決定的な転換である。主権の近代的概念は、国民と人民の両概念を合体することによって、紛争と危機の調停から、国民-主体とその想像の共同体とが一体となった経験へと、その中心をシフトさせたのだ。145p
In short, the construction of national identity guarantees a continually reinforced legitimation, and the right and power of a sacrosanct and irrepressible unity. This is a decisive shift in the concept of sovereignty. Married to the concepts of nation and people, the modern concept of sovereignty shifts its epicenter from the mediation of conflicts and crisis to the unitary experience of a nation-subject and its imagined community.
===

どうもネグリ・ハートはここで、この二つを合体させないで、ピープルだけを救う方法なんてないと書いている(ようだ)。しかし、国民=ピープルだという前提こそが壊されなければならないのではないかと思う。




ちなみに
そもそもピープル(ネス)とは何かについては、花崎さんの見解を以前に少し紹介している。
http://tu-ta.at.webry.info/200511/article_11.htmlそこからちょっと紹介
===
ピープルネスとは何か
『ピープルネス』という概念が設定されるのは、じゃなかしゃば(もうひとつの世界)を実現するという問題領域において

主要には、それを実現する主体は誰か、その主体はどうように形成されるのか、という領域に密接な概念だが、単に『じゃなかしゃば』実現のの主体形成のためというより、『じゃなかしゃば』構想そのものにかかわる概念

「ピープル」とはひとびと一般を指すのではない。「市民」という身分を批判し、解体する視点からとらえた、21世紀の世界社会の成員性を名づけるカテゴリーとして・・・定義している。

「ピープルネス」とは、世界社会を構成する普遍的身分としての「ピープルとピープルの関係」をあらわす。その中身は、自由、平等、共生と理念化することができるが、それらは固定化された教理ではなく、つねに対象化されつくさない、非対称的な質を持つ人間の生命活動そのものの『個人/個人を超えるもの』88p

ここからは
『アイデンティティと共生の哲学』(平凡社ライブラリ)から

「水俣宣言」は、そのしめくくりでこうのべていた。越境する政治行動、支援・連帯行動をつうじて「人びとは、自分たち自身の21世紀を力をあわせてつくりだす「ピープル」となるのである。」343p
ピープルであることとピープルになることとは前者が存在についての記述、後者が価値についての記述とわけることができる。345p
ピープルはジェンダーを自分の身体と切り離さずに考える。(7章「女と男」)
自らの男性性を自覚的に引き受ける。292p 295p
ピープルは地域でこそ生きていける。305p
花崎ピープルは権威からも自由  307p
 
===


ちなみにピープルというのを規範のようにしてしまう花崎さんへの批判と反批判がさっき紹介した季刊ピープルズ・プラン35号にも出ている。


ここまで、無理してつきあってくれた人、ありがとう。自分で読み直すと、すごく読みにくい。〈帝国〉の該当部分を読んだことが前提で書かいてあるので・・・。その上、かなり独断的にぼくの理解の幅の中に収めるように無理無理要約してるところは多い。



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