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zoom RSS 〈帝国〉読書ノートその11 4-15報告レジュメ 2-2国民国家の主権

<<   作成日時 : 2008/04/16 05:40   >>

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昨日の読書会での報告レジュメっていうよりメモ
報告がないとわかんないところも多いと思うけどとりあえず記録として

====


〈帝国〉読書会のために
2008-4-15
2−2 国民国家の主権

この章を読むための問題意識。

例えば、日本国憲法の三大なんとかのひとつの「国民主権」っていったいなんだろう。
この、あたかも空気や水のように当然と考えてきた概念に光を当てることがこの章のポイント(だと思う)。

俺たちは世界の主人公だけれども、国家の主人公なんかになる必要はないんじゃないか?
それはステップとして必要なことなのか。

臣民(領民)から国民への移行
臣民(領民)と国民はどこが同じでどこが違う?
んで、人民主権と国民主権の違いは?

そもそも主権(サヴァニティ)って何なの?
ウェブサイトの説明
1 政治の超基礎講座 「主権」っていったいなに?
【主権は最高の政治権力】
他の社会と違い、強制力をともなう権力を発動する、それが国家
主権って、いったいなんなのでしょう。
 その前に、権力について、考えてみなければなりません。主権というのは、先に言っちゃうと、最高の権力のことだから。
(中略)
話し合いで応援合戦のやり方が決まったとき、クラスのメンバーはみんな強制的にそのやり方をやらなければならないわけです。また、多数決でやり方を決めた場合、そのやり方に不服な人にも従ってもらわなければならないでしょう。そのときはたらく強制力、これが権力なのですね。
 この権力というものも、そこかしこで、それこそみなさんの職場などでも上司によってよくも悪くも(?)発揮されているわけですが、そんなさまざまな権力のうち最高のものが国家権力なわけです。国家というのは、その国家の領域「すべての」人びとや団体に権力つまり強制力を発動できる唯一の存在なわけです。
(中略)
で、この国家権力は、国内の最高権力であり、具体的には統治権なわけで、人びとは究極的にはかならず従わなくてはならない。と同時に、よその国家の権力に干渉されることも許されない。
 このように、最高性と独立性を兼ね備えている国家権力のことを、われわれは主権、とよんでいるわけです。
中世ヨーロッパでは、「国家」といっても、その中には各地にやれ公爵領だの伯爵領だの騎士の領地だの、へたをすればよその国の国王の私有地など、てんでばらばらで、国王の権力は非常に限られていました。国家の領域内すべてを貫く国家権力などは、存在しないに等しかったのですね。
 しかも、中世は今のローマ法王、当時は教皇といっていましたが、教皇や、ドイツなんかでは神聖ローマ皇帝とかいう人びとの国家を越えた権力が強く、国王の頭越しに権力が働く、ということもあったのですね。
 さて、そんな中世ヨーロッパ最大のできごとが教皇が主導した「十字軍戦争(キリスト教徒によるイスラム教徒からの聖地奪回運動)」です。けっきょくこれが挫折し、教皇権威も落ち、それを後ろ楯にした神聖ローマ皇帝の権威も落ちて、相対的に国王の力が強まってきました。
 しかも、十字軍にかり出された伯爵だの騎士だのいった連中は疲弊し、没落してしまって、ますます国王の権力が強化される。そういったなかで、国王は国家という領域の中では最高の権力、つまり主権を持っているんだよ、という考えが、生まれてきたのですね。
 こうして主権は次第に絶対視され、そのうち市民革命によって主権を持つ者が国王から人民に移っていく中でも、国家の持つ主権は侵すことができないものとして国際法的に認識されるようになりました。
 さらに、そこから主権は平等であるという原則も確立します。国土・人口などに関係なく、すべての国家の主権は平等である。とてつもない領土を持つロシアの主権と、ディズニーランドほどの大きさしかないバチカン市国の主権は、ともに最高の権力であるため、平等です。これは、国家はみな平等であるという原理に結びつくわけです。
●国際連合憲章 第2条1項
この機構(筆者注、国連のこと)は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている。
 もっとも、主権の絶対性は、20世紀になってすこしづつ修正されはじめます。主権国家といえども、条約など国際法には従わなくてはなりません。国連などの国際組織が、各国の主権を制限するような場面も、しばしばみられるようになっています。
 EU加盟の12ヵ国は、単一通貨ユーロを導入することによって、主権のうち、「通貨を国内で独占的に発行する」権利を放棄したわけです。日本が1911年になってようやく手にした「関税自主権」つまり輸入品に関税を自由にかけられるという重要な主権の一部も、いまや国家間の話し合いによってじょじょに失われつつあります。
 しかし、それぞれの国家に、それぞれ違う歴史・文化・宗教などを持つ国民というものがある限り、ある国の主権が一方的に蹂躙(じゅうりん)されることは今後も許されないことでしょう。
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20040418/index.htm

2 ウィキペディア 主権
概念の内容については、きわめて不明確であり、論者によってさまざまな意味が盛りこまれるため、統一的な定義を下すことは困難である。しかし、一般的には、国家の最高独立性を表す概念と理解、もともと東西ドイツ分割時代に、互いの主権SouveränitätまたはSouveränitätsrechteが、真の国家主権ではないというニュアンスでHoheitないしHoheitsrechteの訳語が用いられたのであるから、やはり"高権"と訳すのが正確な翻訳だろう。
日常的な意味は「至上であること」「最高であること」であり、これを軸に法的な概念を理解すると分かりやすい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9


で、ここでネグリ・ハートが考えろって言ってるのは
「国民とは何か? それはどのようにして作られるのか?」
「人民とは何か? それはどのようにして作られるのか?」

〈帝国〉の主権とマルチチュード

国民国家の主権がしだいに衰退し、主権が新たな形態をとるようになった、そのグローバルな主権形態こそが、ネグリ、ハートが〈帝国〉と呼ぶもの。

読んでて混乱するのは

The Nation という言葉
英辞郎ではココ
http://eow.alc.co.jp/The%20Nation%20/UTF-8/?ref=sa

ここを読んでもらえたらわかるんだけれども、The Nation は国家にも国民にもなる。これは英語のダメさ加減なのだろう。他の言葉ではどうなんだろう。このダメな英語で書かれたものをたぶん訳者たちは読んだのだと思うが、それを丁寧に国家にしたり、国民としたりしてくれている。でも当然にそれは両方をさしている場合が多いのではないか、そのあたりは悩ましいところなんだろうと思う。
例えば、The Nation's People という節のタイトルは「国民とその人民」。
苦労して、多分訳者の中でいろいろ議論してつけた訳語じゃないかと思う。でも、ちょっと違うんじゃないかとっていう感じは残る。ただ、この訳語で意味が浮き出てくるという感じもあるので、けっこういい訳語なのかもしれないとも思う。
そして、ネーション・サヴァニティというのは本当に国民主権なのかという疑問も残る。


ちなみに
「国民とは何か? それはどのようにして作られるのか?」
「人民とは何か? それはどのようにして作られるのか?」
what is a nation and how is it made, but also, what is a people and how is it made?

ついでにこのすぐ後を引用するとこうなってる。
Although "the people" is posed as the originary basis of the nation, the modern conception of the people is in fact a product of the nation-state, and survives only within its specific ideological context.

こんな文章もある。
The concepts of nation, people, and race are never very far apart.

んで、敬愛する博徒、森巣さんはこんな風に言っている。
==
森巣 ・・・民族などという概念は、構造主義以降の学者たちが鮮やかに解体したように、成立しようがない。・・「民族」はまさに、西欧近代が生んだ植民地主義・帝国主義の理論であり、概念なんです。・・・人間社会を食い尽くすタチの悪い病です。・・。

姜 ・・博さんは、民族概念そのものを抹殺すべきだ、と。
森巣 ・・・民族は一般概念としては成立しえないのだが、例外もまた存在する・・・。それは、非対称的権力の構図の中で、民族というスティグマを付けられ、西欧近代の「進歩」の時間軸から取り残された者とされ、一方的に抑圧され収奪された(そして現在もされつづけている)少数民たち、および「在日××民族」という名で排除され差別されつづけてきた人々は、当然のように民族概念を正のベクトルを持つ力として立ち上げうるし、また、立ち上げるべきだと・・・。 すなわち、日本と呼ばれる領域内に「日本民族」は存在しえないけれど、「アイヌ民族」、「沖縄民族」、「在日××民族」は成立しうるし、また、現に成立しています。

ナショナリズムの克服
姜尚中・森巣博 集英社新書 2002年
==


ピープル主義者への攻撃

ネグリがピープルは国民国家とセットだと批判するが、ピープルという問題の建て方を主張する立場もある。

花崎さんは『ピープルネス』という概念を提唱する。
==
ピープルであることとピープルになることとは前者が存在についての記述、後者が価値についての記述とわけることができる。345p
==
『ピープルネス』という概念が設定されるのはじゃなかしゃば(もうひとつの世界)を実現するという問題領域において。

主要には、それを実現する主体は誰か、その主体はどうように形成されるのか、という領域に密接な概念だが、単に『じゃなかしゃば』実現のの主体形成のためというより、『じゃなかしゃば』構想そのものにかかわる概念。

 「ピープル」とはひとびと一般を指すのではない。「市民」という身分を批判し、解体する視点からとらえた、21世紀の世界社会の成員性を名づけるカテゴリーとして・・・定義している。
「ピープルネス」とは、世界社会を構成する普遍的身分としての「ピープルとピープルの関係」をあらわす。その中身は、自由、平等、共生と理念化することができるが、それらは固定化された教理ではなく、つねに対象化されつくさない、非対称的な質を持つ人間の生命活動そのものの『個人/個人を超えるもの』88p

「水俣宣言」は、そのしめくくりでこうのべていた。越境する政治行動、支援・連帯行動をつうじて「人びとは、自分たち自身の21世紀を力をあわせてつくりだす「ピープル」となるのである。」343p
ピープルであることとピープルになることとは前者が存在についての記述、後者が価値についての記述とわけることができる。345p
ピープルはジェンダーを自分の身体と切り離さずに考える。(7章「女と男」)
自らの男性性を自覚的に引き受ける。292p 295p
ピープルは地域でこそ生きていける。305p
花崎ピープルは権威からも自由  307p
==
こうした加害可能性と自己矛盾をかくさないこと、おたがいにナニサマでもない者であることの自覚、そこがピープルの連帯の出発点でなければならない。
ピープルになるとは、おたがいにナニサマでもない者としての関係に思いをひろげ、関係をピープル化することである。ナニサマでもない者が、そのままで生きやすい関係をつくることである。(353p
==
ピープルではあるが、ピープルになれていない一人として。


さて、ここまでが長い前置き

以下、多少本文にそって。

2−2 国民国家の主権
近代が抱える危機に対応する権力の装置
それが近代主権国家へとつながる。
(2−1に詳しくでている)

2−2ではネーションに焦点をあわせる。

「ザ ネーション」の創生
(本ではネーションに国民という訳語が宛てられていることが多いがこの節のタイトルを含めて、以下の引用ではところどころ勝手に「ネーション」にしている。)
絶対主義的かつ世襲的なモデルの変容。
「王の神聖な身体」から「ネーション(国民)という精神的同一性」へ
国民統合のために生み出された概念としてのネーション
==
ネーションという近代的概念が、君主制国家の世襲的身体を引き継いだのであり、またそれを新たなかたちで再発明したのである。132p
==

資本主義的生産過程と絶対主義的行政機関のぎこちない関係を「国民的同一性」によって安定させる
This uneasy structural relationship was stabilized by the national identity
==
つる注:王の神聖な身体の概念は日本ではまだ存続(天皇制)
このような移行のプロセスをネグリ・ハートは過去のものとして叙述するが、移行は完了しないのではないか。両者は両立して存続しているし、それらは存続したまま次の時代を迎えつつある。
==

臣民から市民へ
臣民からなる封建秩序⇒市民からなる規律的秩序
受動的役割から能動的役割へ
(幻想の共同体としての国民国家 アンダーソン)


世襲国家と国民国家
その近接性と差異
領土と全住民の統合という同一性
しかし、近代的主権の不安定さを乗り越える新たな手段をもつか否かという差異。
その手段としてのネーション。

主権の関係をモノへ
(聖から俗へ?精神から物質へ?)

注目すべき概念として、「近代性に孕まれた葛藤に満ちた諸起源」133p
(the conflictual origins of modernity)
この力が国家を拒否する可能性を有している。

<つ注:この諸起源って??>

主権概念の国民主権概念への変容への物質的基盤としての資本主義的蓄積

ローザによる「民族自決」要求批判
ローザの批判は単に近代性そのものへの批判ではなかった。
彼女が論じたのは、ネーションは独裁を意味し、そのためにそれは、民主主義的な組織をめざすいかなる企てとも根本的に両立不能だということ。

ローザは国民主権および民族学的神話学が、領土的主権の権力を復活させ、そしてまた活動的な共同体の動員を通じてその企てを近代化することによって、民主主義的な組織の基盤を実際的に強奪してしまうことになると認識していた。(総力戦?)133-134p
==
つ;はたして、人類は民族自決というステップを回避することが可能なのか。
また、先住民族の自決権、具体的にはチベットの自決要求にどのような対応が可能なのか。サバルタン・ナショナリズムの節参照。
==
レーニンによるローザの批判参照(注7と注26)


近代性の危機とはマルチチュードとそれを一者の支配へと縮減しようと欲する権力との共存にある。
ネーションという概念はこの危機を最終的に平定しない。


ネーションと近代性の危機
ここはよくわかんないので飛ばす。


国民とその人民
The Nation's People

「国民は、主権の問題に対するブルジョア的なヘゲモニー的解決を要約する概念になってしまっていた。」

そして、国民のいんちきさ加減がバレたとき、今度は「人民」つまりピープルがでてきたとネグリはいうわけだ。(140‐141p)
ここでネグリ・ハートは主権の概念と同一性の概念を不可分のものとして扱っているように思えるが、マルチチュードと同様にピープルも多様でありつつ、しかし世界の主人公だということができないのか。

そんなことを考えていくと、ここらで最初に持ち出した主権(サヴァニティ)っていったい何だよ?っていう問いが再び持ち上がってくる。

「俺たちひとりひとりが世界の主人公だ」ということと「主権者だ」ということは違うことなのか。

ピープルとマルチチュードがどう違うのか!

原注によると、
==
マルチチュードとピープルの区別の優れた分析としては Paolo Virno, "Virtuosity and Revolution: The Polotical Theory of Exodus." in Paolo Virno and Michael Haardt, eds., Radical Thought in Italy (Minneapolis:Univercity of Minnesota Press, 1996), pp.189-210を見よ
==
となっている。
本書での説明は以下のとおり
==
マルチチュードとは多数多様性のことであり、諸々の特異性(シンギュラリティ)からなる平面、諸関係からなる集合体のことである。マルチチュードは、均質なものでもなければ自分自身と同一のものでもなく、自己の外部にあるそれらの特異性や諸関係を別個のものとして区別せず、それらと内包的な関係性を保つ。これとは対象的に、人民(ピープル)は、自己の外部に留まりつづけるものとの差異を提示し、またそれを排除しながら、内面的な同一性と均一性をめざそうとする。マルチチュードがいつまでも閉ざされることのない構成的な関係であるのに対して、人民は主権のために整えられたすでに構成済みの統合体なのである。人民は単一の意思と行動をもたらすが、これらは、マルチチュードがもたらす諸種の意思と行動とは無関係なものであり、また往々にしてそれらと衝突するものである。あらゆる国民はマルチチュードを人民へと仕立てあげなければならないのだ。142p
The multitude is a multiplicity, a plane of singularities, an open set of relations, which is not homogeneous or identical with itself and bears an indistinct, inclusive relation to those outside of it. The people, in contrast, tends toward identity and homogeneity internally while posing its difference from and excluding what remains outside of it. Whereas the multitude
is an inconclusive constituent relation, the people is a constituted synthesis that is prepared for sovereignty. The people provides a single will and action that is independent of and often in conflict with the various wills and actions of the multitude. Every nation must make the multitude into a people.
==

はずかしながら、ネグリ・ハートがこんなにもピープルを否定的にとらえているというのを今まで知らなかった。数年前、ピープルかマルチチュードかプレカリアートかとかいうPP研主催の集会に参加した上にその報告書も一応読んだはずだったんだけど。もう一度読み返してみよう。(その季刊ピープルズ・プラン35号を読み返してみたけれども、あんまりこのことは書かれていない。崎山さん、このことをちゃんと教えてくれてもよかったのに。そう、あのとき、あえて、ピープルとマルチチュードを対立させて際だたせたほうが面白かったんじゃないだろうか。)

「人民は主権のために整えられたすでに構成済みの統合体なのである」という。この章でネグリとハートはネーションとピープルの関係をいろいろ説明しているのだが、どうもよくわからない。確かに花崎さんはピープルとしてのアイデンティティ(同一性)の存在を前提としている(と思う)。そこにいろいろな意味付与をしている。ネグリ・ハートはここで、同一性とかいうからナショナルの同一性と同じで、それじゃダメなんだという風に書いてる(ようにも読める)が、そこにはどうしても大きな違いがあるようにぼくには思える。そもそも国民国家のなかでピープルが同一性をもった存在だなんてことが、いままであったのかとも思う。そう、ここがポイントなのだろう。国民国家におけるピープルという同一性は存在しうるかどうか。それが存在しないと問題を立てることは、ネグリ・ハートへの批判であるとともに花崎さんへの批判にもあるのだろう。

繰り返しになるが、この節に書いてある国民とピープルはセットだというその根拠がわからない。同様にこの節の結語には以下のように書かれているが、その根拠もぼくにはわからない。
===
簡潔にいえば、国民的同一性の構築は、正統化の絶えざる強化と、神聖不可侵にして制御不可能な統一性が持つ法権利と力とを保証するものなのだ。これこそが主権の概念における決定的な転換である。主権の近代的概念は、国民と人民の両概念を合体することによって、紛争と危機の調停から、国民-主体とその想像の共同体とが一体となった経験へと、その中心をシフトさせたのだ。145p
In short, the construction of national identity guarantees a continually reinforced legitimation, and the right and power of a sacrosanct and irrepressible unity. This is a decisive shift in the concept of sovereignty. Married to the concepts of nation and people, the modern concept of sovereignty shifts its epicenter from the mediation of conflicts and crisis to the unitary experience of a nation-subject and its imagined community.
===

どうもネグリ・ハートはここで、この二つを合体させないで、ピープルだけを救う方法なんてないと書いている(ようだ)。しかし、国民=ピープルだという前提こそが壊されなければならないのではないか(と思う)。

ちなみにピープルというのを規範のようにしてしまう花崎さんへの批判と反批判がさっき紹介した季刊ピープルズ・プラン35号にも出ている。
さっき見つけたんだが、〈帝国〉が出た頃、PP研ではラウンドテーブルをやっていて、そこに酒井さんも来て、ピープルとマルチチュードという問題に言及している。こんなことを言っている。
==
・、日本国憲法の原文でピープルという言葉が日本ではすべて「国民」と訳されて、欧米の文脈であったピープルとネーションの摩擦が日本ではほとんど見えなくなっています。国民という形で人びとの主体がイメージされてしまっている。もちろん、ヨーロッパの歴史においても、ピープルとネーションというのは循環し合って、お互い補強しあっていたわけですが、ピープルというのは常に国民的なものに対して別種の主体、あるいはマルチチュードみたいな雑種的な主体を名ざす時に使われてきたという長い伝統があるわけです。日本の場合はこの言葉使いが翻訳の問題もあって封じ込められてきた。(中略)ピープルという言葉のラディカリズムを、もっと引き出してみる必要性があるのではないかと考えています。僕は武藤さんの本に、マルチチュードという立場からの違和感があるということはまったくない。むしろネグリ/ハートがいうマルチチュードが、武藤さんのピープルという概念に似ているし、非常に近いものだと思います。(季刊ピープルズ・プラン22号2003春)
==



サバルタン・ナショナリズム
サバルタンとは?
「サバルタン」とは,「下層民」とか「従属民」というほどの意味。
===
ここまでは欧州内部における国民(ネーション)の話だった。その外部に目を転じると、ネーションは違う役割。
==
あえて大胆な言い方をするなら、国民〔民族〕(ネーション)の概念は、支配者の手のなかにあるときは静止状態や秩序の回復を助長するものであるが、被従属者の手のなかにあるときは変化と革命のための武器となるように見えるのだ。
==
サバルタン・ナショナリズムの進歩的性質を定義する二つの基本的機能(二つとも両義的)
1 ネーションが進歩的なものに見えるのは、それが自分より強力な諸々のネーションと外部の経済的・政治的・イデオロギー的諸力とから身を守る防衛線として役立つ限りにおいて
従属的(サバルタン)ネーションズの自決権とは、現実的には支配的列強からの離脱権。支配された住民と文化を劣ったものとして描き出そうとする支配的言説を撃退するための武器として

2 ネーションは潜勢的な共同体が有する共通の特徴を呈示するものである限りにおいて進歩的に見える。
(インドネシア・中国・ブラジルにおける民族統一のプロセス参照。)

ネーションが想像の共同体であるというのは本当であるかもしれないが、問題はこの主張がひっくりかえされ、ネーションだけが共同体を想像するための唯一の方法になってしまっているということ。ここでもマルチチュードの多数多様性と特異性が、ピープルの同一性と均一性という拘束衣を着せられて否定されてしまった。

従属的(サバルタン)ネーションが発揮する統一の力は、進歩的であると同時に反動的な諸刃の刃。

このネーションの進歩的機能が存在するのは、想像されたネーションがまだ存在していない場合。
==

問題はサバルタンがネーションとかネーションステートというようなものを飛び越えて、自らの解放へとたどり着く道を、どう想定できるのかということになる。その一つのヒントは国家権力を求めずに国家に自らのオートノミーを要求しているように見えるサパティスタの闘いだろう。
では、独立を求めないダライ・ラマの主張はどうか?「王権神授説」を文字通り体現したかのようなダライ・ラマを頂点にいただくチベット亡命政権。その時代を超えたスタイルがどうしても気になる。確かに中国がこれまでチベットの人たちにやってきたことを認めるわけにはいかない。そこで求められているのはダライ・ラマによる絶対王政のような支配機構ではなく、そこで生活する人が、自由に語り、意思を体現できる社会だろう。その自治を求める単位はチベットネーションという風に考えるのが適当なのかどうか、
 

国民国家の全体主義

国民国家は「近代的主権国家に由来する歴史的・概念的な惨事」??を乗り越えるための新たな原動力をもたらさない。

「国民とその人民の支配下」という表現は「ネーションとその人民の」


欧州においてナショナリズムが社会主義と手を携えて進んでいったとき、何が現実に起きたのか。
社会民主主義(社民)は帝国主義を支持。
ボルシュビズムも神話学の領域に入り、共産主義インターナショナル組織はロシアの国民的利害のために働くようになる。
共産主義の脱領土的な運動は最終的には国民主権からなる再領土化の体制に変じてしまった。民族主義的社会主義が国家社会主義と類似するようになったのは、両者の中心部で国民主権という抽象機械が働いているから。

国民(ネーション)の概念と国民主義(ナショナリズム)の諸実践は、そもそもの初めから、再び公共的にすること=共和的なもの(「リ」‐「パブリック」)へと通じる道ではなく、「再び全体的にすること」、言いかえるなら、全体的な事柄、つまりは、社会生活の全体主義的なコード化へと通じる道の上に置かれているのだ。

====
確かに国民国家の問題は小さくない。しかし、問題は国民国家をどう超えるのかということだ。EUのような形を例えば東アジアに形成することをめざす動きは資本の側には確かに存在する。ネグリ・ハートがいうように帝国を突き抜けるとすれば、そのプロセスに荷担し、その向こうがわに行けるようにすることなのか。そうとは思えない。逆にコミュニティの力を取り戻すこと。リ‐パブリックとはそういうプロセスではないのか。民主主義が機能するサイズにまで社会をできるだけ小さくすること。サブシダイゼーション。それをローカリゼーションと呼んでもいいだろう。国民国家を超えるというのは、そういうことなのではないか。



おまけとして、帝国主義から〈帝国〉への移行について、前述のラウンドテーブルで酒井さんはこんな風に言っている。
==
帝国と帝国主義がお互いに連携しながら世界を無茶苦茶にして、その焼け野原を帝国のネットワークの中で、多国籍企業の地域、あるいは多国籍企業から見放された地域としてならしていく。(中略)もしかしたらそれは矛盾しないで噛み合いながらやっていく・・。
==

==報告メモ、ココまで==


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