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zoom RSS 〈帝国〉読書会 3−2、3−3

<<   作成日時 : 2008/07/17 18:28   >>

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レジュメの転載が続く。
これは火曜日の気流舎での〈帝国〉読書会のレジュメ

わからないところは読み飛ばして、なんとなくわかりそうな部分だけを抜書きしたり、コメントを書いたりしたもの。
とてもいいかげんなもので、人に見せたりするような代物じゃないと思うけど、とりあえず、自分のための記録として以下に

===
〈帝国〉読書会 3−2、3−3
2008-07-15

1ヶ月ぶりの読書会、もう忘れちゃってるので、とりあえず、目次を振り返る。
目次を見ながら思い出せるところは思い出してみよう。

第一部は「現在性の政治的構成」
現在性ってなんだよ、とは思うものの

第二部は「主権の移行」
ふむふむ

第三部は「生産の移行」

3−1は「帝国主義の諸限界」だった

世界を変えていくのは支配国のサイクルじゃなくて、闘争の主体なんだとネグリ/ハートはアジッたあとで、この章の結語に向かう。
で、この章の結語は
資本主義をどこで断絶させるのか、どこにその潜勢力と未来のための原動力が存在するのかをはっきり理解しなければならないのだ!!
という命令で終わっていた。「のだ」って言われたってねぇ、困る「のだ」った。

で、今回の3−2に入る
3−2 規律的統治性
また「性」、統治「性」とか言うなよ、って思う。
ちなみに英語だと
3.2 - DISCIPLINARY GOVERNABILITY

この「規律」という訳語にご用心、ぼくはこいつに混乱させられる。
ここでのディシプリンという言葉は本当に「規律」という意味で使われていると言えるのかどうか、ぼくはとっても疑問、確かに校長先生ではないだろうが、・・。あ、それはプリンシパル。アカデミズムの世界ではディシプリンは学問的な背景。ディシプリンは法学だとか社会学というような使われかた。ちなみにキリストの弟子はディサイプル。
規律的な秩序を規定するものであるとともに、何かよって立つべきものっていうか、そんな感じ。〈帝国〉では、ほとんどの場合、「規律」でいいとは思うものの、でもすっきりしない感じも残る。

20世紀の初旬、ソヴィエト革命を経た頃の選択肢は
世界共産主義革命か資本制帝国主義の〈帝国〉への変容か

その対応としてのナチズムやファシズム
そして、ただ米国においてのみ資本主義的改革が実行された→ニューディール

世界のためのニューディール

それは世界のためのものだった

DISCIPLINARY GOVERNABILITYの最高形態としてのニューディール

A disciplinary society is thus a factory- society

60年代までが資本主義のニューディール的改革の黄金時代。

んで、3つのD
新しいグローバルな光景のための3つの仕組み、ないしは装置
Decolonization, Decentering, and Discipline

最初のDはわかりやすいが、東西対立のためにいびつになった。

ふたつめのDは利潤のことではなく、生産の流れと現場の話。利潤はいつも中心に集まった。

そして、3つめのD
==
・・・、第三のプロセスは、生産と統治の規律的諸形態を世界全体に撒き散らした。
a third mechanism involved the spread of disciplinary forms of production and government across the world.

ポストコロニアルの国々では解放のための民衆の動員を生産のための動員に変容させることが、デシィプリンの確立のために必要だった。世界中の農民が農地から追い立てられた。(なんと、このプロセスはいまも続いている!)

この工場で働くことをモデルとするディシプリンに社会主義国家の指導者も「実質的に」同意した。レーニンはテーラー主義の信奉者だったし、毛沢東がめざした近代化のモデルもまた、このディシプリンと整合性のあるものだった。

これら3つのDというメカニズムがニューディールの〈帝国〉的権力を特徴づけるもの

ここまで読んで、初めて、この「規律」とかいうの、フーコーかなんかから持ってきてることに気づく。(たぶんね)

近代性の中へ、そして近代性の外へ
(ここでもまた「性」! 最後に「性」つけるのやだけど、確かに便利)

「マルチチュードによって決定された革命的なプロセスが近代化のイデオロギーを乗り越えて進み、そのプロセスの中で、主体性のけた外れの新たな生産をはっきり示した」って書いてあるのだが、何がはっきり示されたのか、もう一つ読み取れない。たしかに、ぼんやりと示されているようには思うんだけど。

ただ、これはわかりやすい。
==
中国とソビエトの革命は、発展に取って代わるもうひとつの答えとしてユートピア的なイメージをもたらしたが、やがてそうしたイメージもそれらの革命がもはや前進することができなくなったとき、というよりもむしろそれらが近代性を超えて進む方法を見つけるのに失敗したとき、消え去ってしまったのである。 325-326P
==

「合衆国/ソビエト連邦という、うわべの二極分解の背後に、単一の規律的モデル」326p
これを規律的モデルと言わずに、開発モデルといわれたら、とてもわかりやすいんだけど。

近代性の仕組みが、さまざまの新しい主体性(また性だ)を支配するだけの力量をもはや欠く・・。

近代的主権のパラダイムがその実効性を失ったのと同様に、帝国主義だけでなく、反帝国主義に関する古典的な諸理論も、説明力のいっさいを失った。つまり、反帝国主義の諸理論も近代「性」の仕組みの枠の中にあったということ。そして、実際の解放闘争の主体はその枠を超えていた。その主体的力が植民地主義を抜け出して近代性に達したとき、・・・取りかかるべき主要な仕事は近代性の中に入ることではなくて、その外に出ることだと気づいた。

と、ネグリ/ハートは書くのだが、具体的に誰がそのことに気づいていたのだろう。
新しいグローバルなパラダイムに向けて
新しい〈帝国〉的なパラダイムが人々を抑圧するが故に、「解放を求める新たな欲望を確実に吹き込まれることになるだろう」とネグリ/ハートは書く。それがマルチチュードを趨勢として打ち立てているというのだ。日本ではやっと見えるようになってきたマルチチュードと呼べるような人々の運動(それは以前から存在はしていたのだ)、まだ、萌芽的ではあるが、それを趨勢と呼べるようになるまでにどれくらいの時間がかかるだろう。

また、ネグリ/ハートはこの後で、労働の移動性(まただよ)の増大を評価する。ここで国境の管理がとても厳しくなっている現実には触れられない。グローバリゼーションの中で、モノやカネは本当に自由に動くようになっているが、ヒトに関しては、北の国境管理のハードルは高い。

実質的包摂と世界市場はパス

本源的蓄積
詳しいことはよくわかっていないので、ここも基本敵意はパスするが、その「蓄積」(カネなんかを溜め込むプロセス)は近代からポスト近代に移行しても継続している。

続いて、情報の蓄積を問題にする。それはこの章の結語でもある。一番最後に、こんなことが書かれている。
==
情報の蓄積が生産のより大規模な社会化を目指すことにつながり、それが空間と時間の縮減を伴い、資本に生産性の増大という利益を与える。そして、このプロセスが同時に、資本の時代を超えて、新たな社会的生産様式を指し示すものでもある。
==
この資本の時代を超える新たな社会的生産様式って、いったいどんなものだろう。
3−3 抵抗、危機、変革
まず、この章のタイトルは好き!そして、ヴェトナムに関する記述から、この章は始まる。
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ヴェトナム戦争は――ヴェトナム人による抵抗がそれまで世界中でたがいに分離され、遠くに隔たっていた一連の闘争全体のシンボリックな中心をなすものとして受けとめられた限りにおいて――、近代資本主義の歴史における真の転換点を表している。 338-339p
===
多種多様な闘争が共通の敵に対抗してひとつにまとまったのが、ヴェトナムの闘いだったとネグリ/ハートはいう。
そして、そのことで資本はそれ自身の構造を修正し、パラダイム・シフトを経験することになったのだと。

二つ、三つ、数多くのヴェトナムを
(これはゲバラの言葉)
60年代後半の資本主義の危機
==
資本主義の危機は、資本それ自体の動態の函数ではなくて、プロレタリアートが突きつける対立によって直接的に引き起こされる危機のことだ。339p
==
資本の社会化の増大はプロレタリアートの社会的統一をもたらした。(本当にそうだったのか、日本でも???そもそも資本の社会化の増大って何?)

60〜70年代の原材料などの急激なコストの増大は、国際プロレタリアートの賃上げを求める闘争の結果。(これも??)

==
第三世界主義的な視座(国際的な資本システムの矛盾は第一世界の資本と第三世界の労働のあいだにあるという考え方に規定されたもの)はすっかり役にたたないものになってしまった。

この視座は支配諸国においても従属諸国においても、さまざまな闘争が世界を横断しつつ、現実に収斂するということを理解しようとはしない。
343p
==

危機に対する資本主義の応答
60〜70年代の闘争を沈静化し、指令を再編成する任務のための資本の二つの道筋
1、 抑圧的な選択肢(限られた有効性しか持たない)
社会的プロセスを完全に逆転させ、労働市場を分断および分解しながら、生産のサイクル全体に対する統制力を再確立すること。それは究極的には、資本主義生産そのものの息の根を止めてしまうような自己破壊的な応答。
2、 そのためにこの第二の道筋が必要になる。そこに含まれているテクノロジー的変革は抑圧を目指すものではなくてプロレタリアートの組み立てそのものを変化させること。それによって生じた新たな実践と形態を統合し・支配し・利用することをめざす。パラダイム・シフト。これはプロレタリアートに強いられた対応なので、資本のプロセスを把握するために必要なのは、プロレタリアートの視点と資本主義的諸関係の中に徐々に追いやられていく残存する非資本主義的世界の視点(これを理解するのは大変そうで、次の節<資本のエコロジー>でその理解の前提が説明されることになる)

このパラダイム・シフトという視点からすると、合衆国のプロレタリアートこそが立ち現れる。合衆国のプロレタリアートは政党や組合によって代表される割合が低いから脆弱なのではなく、そのような代弁機関を持たないからこそ強力。労働者階級の力は代表制的な組織にあるのではなく、労働者たち自身が有する敵対性と自立性に存する。349p
資本のエコロジー
このパラダイム・シフトを理解するために、あとずさりして、国際プロレタリアートと非資本主義的環境によって資本に課された諸限界を検討しなければならない。
20世紀の初頭に息絶え絶えだった資本主義が20世紀末にはこんなに健康、それはなぜか、これを考える3つのアプローチ
1、(略)とにかくこれは間違い
2、 資源がまだ残ってるから。でも、もうすぐなくなる。
3、 資本の蓄積・拡大再生産は非資本主義的環境を蓄積するのでなく、みずからの資本主義的領域を蓄積。資本の拡大は外延的なものから内包的なものへ。
(よくわからん)

規律的体制に対する襲撃
この移行の土台に労働力の主体的変革
新しい世界の中で繁栄することの出来る資本の配置は、労働力の非物質的、協調的、コミュニケーション的、そして情報的な新しい組み立てに適合し、それを支配することの可能なものに限られる。(それがポスト近代だとしたら、資本=〈帝国〉に対する戦いはどういう形になるのか。

ソビエト的規律の断末魔
ソビエトが崩壊したのはポスト近代に対応できなかったから。官僚的独裁に対する抵抗こそが、危機を推し進めたものの正体

えっ「抵抗、危機、変革」って話はこれで終わりかよっていう感じで3-3は閉じる。結局、パラダイム・シフトがなんだか、よくわかんないし。

==転載ここまで==



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