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help リーダーに追加 RSS 「アートの零度」について

<<   作成日時 : 2008/08/12 08:18   >>

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丸木美術館学芸員日誌で報告されていた
http://diary.jp.aol.com/applet/454hpkhtj/20080801/archive
新聞記事「アートの零度」のコピーをもらって読んだ。
「共同通信・平本邦雄記者による、《原爆の図》の表現と評価の問題に関する記事」。

この「アートの零(ゼロ)度」というのは月1回の連載記事で、共同通信の配信でいくつかの地方紙に掲載されているらしい。もらったコピーは熊本日日新聞。小沢節子さんやヨシダ・ヨシエさん、そして学芸員の岡村さんという丸木ではおなじみの人のほかに、茨城大学教授の小泉晋弥さんのインタビューも紹介されていて、とても興味深い記事になっている。

この記事のリードには原爆の図に関して、「近年ようやく進んだ再検討で、内包する世界が見えてきた」とある。アートとして「原爆の図」がちゃんと語られるようになったのは近年になってのことなのだろうか。そんな話を聞いていたようにも思うが、いまでもアートシーンのことは詳しくないし、昔のアートシーンのことなどもっと知らないので、そういう紹介を見ると、そういうものなのか、と思う。ここでは小沢節子さんへのインタビューが引用され、そのことが以下のように書かれている。
===
・・・。きちんと見る人もないまま
「美術史から逸脱した傍流の作品と見なされた」。
===
この「」の中は小沢さんが言ったことで、「」の前は記者による補足なのだろう。
現在もなお、「美術史から逸脱した傍流の作品と見なされ」てる側面もあるようにも思う。その評価がこの間、どれくらい見直されつつあるといえるか、ぼくにはわからない。

確かに、アートシーンのメインストリームの人の多くは原爆の図やそれ以降の社会的な問題をテーマにした位里・俊の合作をきちんと見ていなかったかもしれない。現在の館長の針生一郎さんでさえ、原爆の図に対して、かなり厳しい評価をしていた時期がある。

しかし、この原爆の図が書かれてから、これを「きちんと見た人もないまま」というのは言いすぎだと思う。そもそも「きちんと見る」とはどういうことなのか?もちろん、ここで平本さんが書きたかったことは美術史という枠の中の話として理解できるつもりだし、こんなに大きく記事に取り上げてもらったことには感謝しつつも、でも、やはり、ひっかかってしまう。

平本さんは、美術史というか、美術正史からは近年まできちんと見られることはなかったと言うことが書きたかったのだろう。(しつこいけど、現在のことも過去のことも、ぼくにはよくわからない。)

でも、「きちんと見ていた人たちが大勢いる」ということはちゃんと言いたいと思う。見てくれた人の多くは市井の人々だ。原爆の図は市井の人々の視線の中で生き続けているはずだし、そういうものとして生かし続けることが求められているとぼくは思う。そして、原爆の図は、それをきちんと見た市井の人々に緊張を含む視線を投げ返す。

確かに美術館に来ても、きちんと見ることができない人も少なくないといえるかもしれない。「暗い」とか「気持ち悪い」とかいう表面的な評価、あるいはある種のステレオタイプな反戦のメッセージだけしか持ち帰れない人もいるだろう。ぼくだって、そこから無縁とは言えない。ちょっと前まではそんな見方をしていた一人だし、いまでもどこまで見ることができているか、あやしい。

ただ、美術館の役員になり、何度も足を運んで、何度も見ていくうちに、違うものが見えてくる(ような気がしている)。

ぼくが丸木美術館に足を運ぶのは、何かのイベントで、追いかけられるような感じの時が多く、ゆっくり絵に向かう時間を意識してつくらないと、下手をすると何も見ないで家に帰ることもある。だから、意識して絵の前になるべくゆっくり存在していようと思っている。

そんな中で原爆の図はいろいろな表情をぼくに見せる。

まぁ、だからといって、アートとしての評価なんかされなくてもいいということが書きたいわけではない。それはそれとして、やはり評価されるべき話だと思う。この記事は原爆の図が、そのアート・シーンの中で正当に評価されていないということを知らせてくれる大切な記事ではあるが、その受容のあり方について、さまざまな視点のおき方があり、アートシーンでの評価と市井の人々の評価の温度差についても留意したいということをぼくは強調したかったわけだ。

ただ、アートシーンでの評価と市井の人々の評価はそれぞれ独立しているわけではなく、両者は影響しあい、そして緊張関係を持ちながら、変化し続けているのだろう。


この記事では、原爆の図に関して、ぼくが敬愛して止まないヨシダ・ヨシエっていうよりも、ぼくが大好きなあのじいさん(ぼくに好かれてもぜんぜんうれしくないだろうけどね)のこんなインタビューが紹介されている。
===
「赤ちゃんも少女も、きれいに描いている。こんなかわいらしい子たちに傷をつけるわけにはいかない、と俊さんは言った。明らかに微温的なヒューマニズムがある。真実はもっと救いがない」
 その叙情性ゆえ作品が人々の心を動かしたのを、むろんヨシダは分かっている。「被爆者の心を抱きしめる温かさがなければ、この世は真っ暗。だがこれで原爆が描けたといえるか。僕はずっと納得できずにいた」
===
19で位里・俊と出会い。原爆の図を自ら担いで巡回展を回ったヨシダさんが、数年前から棺おけに片足いれてると自己主張していえるヨシダさんがこんな風に言うのだった。ここのところ少し元気そうで、先日は片足は入れたものの三本めの足がひっかかって入れないとかのシモネタを振りまくあのヨシダ・ヨシエがだ。(彼の本には書いてるかもしれないけれども、ちゃんと読んでなくて、ごめんなさい。)

その彼が「ずっと納得できずにいた」という。そう、「これで原爆が描けたといえるか」というラディカルな問いを反芻しながら、絵を見ていくこともまた、問われているのだろう。

ただ、これ以上に描かれたものをぼくは知らない。

そして、この記事はこんな風に閉じられる。
===
原爆という人道犯罪に、そして原爆の示す人間の原罪性に、画家はどう対峙しうるのか。「原爆を描こうと苦しんだ絵画的体験が凝縮」(ヨシダ)された「原爆の図」には、現代の表現者が向き合わざるを得ないはずの問いがある。
===

そして、ぼくは思う。問われているのは表現者だけではない。





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丸木美術館で・・・ひろしま忌
今日は何の日・・・8月6日ヒロシマに原爆がアメリカ軍により投下された日です。 「原爆の図」の大作を遺した丸木位里、俊夫妻の丸木美術館で毎年ひろしま忌が行われます。昨日は暑い中、おまいりに行ってきました。ほんとうはこのブログは昨日起こさなければと思いましたが暑さに負けて今日のエントリーになりました。 ...続きを見る
比企の丘から
2008/08/17 10:12

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