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PP研が開講したオルタキャンパスOPEN http://www.peoples-plan.org/jp/modules/news/ のオープニングイベントで川本隆史さんが配った2004年8月18日付けの中国新聞の記事(「記憶のケア」で認識共有)がとても興味深かった。これは広島市立大広島平和研究所主催のシンポジウムでの彼の報告「記憶のケアと記憶の共有―エノラ・ゲイ展示論争をめぐって」の紹介記事。 主旨はだいたい以下のとおり。 === 日米双方には、それぞれの「原爆神話」が存在する。 米国側の神話は原爆が「戦争終結を早め、多くの米将兵を救った」というもの。 日本側の神話は原爆を一種の「天災」のように受け止め、アジアへの侵略戦争の帰結でもあるという認識が欠けていること。 それぞれの神話を背景に、両国民は原爆投下について「記憶の共有」ができていない現状がある。 ただ、双方の原爆の記憶は一枚岩ではない、それぞれに多様な見方は存在している。 そこで川本さんが提唱するのが「記憶のケア」 記憶を「神話」へと硬直させる代わりに、「ケア(世話、手入れ)」が必要なものとしてとらえる発想。原爆の意味付けに関する日米双方の固定観念をほぐし、ゆがみを正し続ける「記憶のケア」を通じ、「記憶の共有」へ近づこうと、川本さんは呼びかける。 そのための3つの手法を例示 1、「名前と身体を持つ個人とそのつながりから出発すること」 大量虐殺によって歴史上の「数字」と化した犠牲者を、一人ひとりの名で呼び返す。名前をもった「個人の物語」は「原爆神話」に代表される「公式の物語」を揺さぶる力を持つ。 2、「記憶の弁証法」(米山リサ) 被爆者の中には、語りながら調べ、調べながら語ることにより、アジアの加害責任にも徐々に向き合うようになった人がいる。そうした過程に、他者との記憶の共有へ向かう可能性を見る。 3、「部分的に重なり合う合意」を探る方法(「オーバーラッピング・コンセンサス」ロールズ) 秋葉広島市長の99年のハーグ会議でのアピール「戦争や紛争時であっても子どもは殺すな。この原則には、核兵器を必要悪だと思う者さえ賛同せざるを得ない」を例に、対立・競合する複数の記憶から、価値について合意できる部分を探り当て、積み上げる発想。 この川本さんの主張を紹介した後、記事の執筆者の道面さん(福田首相の最後の記者会見で彼を切れさせた)は以下のような感想を加えている。 == 「ケア」という言い方には、記憶もまた「生き物」であるという示唆が含まれているように思える。被爆から59年、体験の「風化」が指摘される中、次世代が記憶をどう「生かし続けるか」。川本さんからの問い掛けに思えた。 ===ぼくのいいかげんな主旨まとめ、ここまで=== この手法の最初の二つは「原爆の図」を描いていく過程で丸木俊・位里が行ってきたことでもある。 ウェブで調べたら、同様のテーマのインタビューが中国新聞の労働組合のサイトにある。こちらも噛み砕かれていて、わかりやすい。 === 川本隆史・東京大大学院教授に聞く 「原爆神話」超える努力を 記憶にもケア必要 http://www.hiroshima-shinbun.com/no_pauses/kawamoto.html === また川本さんの編著 「ケアの社会倫理学」を紹介したサイトの著者紹介では以下のように記述されている。 === 著者情報 川本 隆史(カワモト タカシ) 1951年、広島市生まれ。1975年、東京大学文学部倫理学科卒。1980年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程を単位取得退学。1997年、東京大学より博士(文学)学位取得。跡見学園女子大学文学部、東北大学文学部を経て、2004年度より東京大学大学院教育学研究科の教員。専門は社会倫理学と応用倫理学。ロールズとギリガンから受けた衝撃をバネにして、正義とケアを兼ね備えた社会のあり方を構想する。また日米両国の原爆をめぐる「記憶」の歪み・偏りを正す作業を「記憶のケア」と名づけ、それを通じて「記憶の共有」にいたる理路を探っている === オルタキャンパスOPENのリーフレットやサイトには、この紹介に加えて http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open2008/index.php?content_id=4 「近著に『共生から』(双書・哲学塾、岩波書店、2008年)がある。」 となっていた。 そういえば、部屋に「ケアの社会倫理学」がずっと読まれずにころがっていたのを思い出して、とりだす。 この序文で川本さんは「正義の倫理」一辺倒の態度を見直して、「ケアの倫理」を導入することを提唱したギリガンについて以下のように引用を含めて紹介する。(もっと長い紹介の一部) === ギリガンはこの二つの倫理を性別に還元しようとしたのではない。両者を「統合」することで、女も男も人間としての成熟に到達できるとの展望を、次のように描いている。 女性たちとの面接において繰り返し出現する道徳上の要請とは、ケアせよとの命令、つまりこの世界に「実在しており、しかもそれと見て分かるような苦悩」をみつけてそれを緩和すべき責任である。それに対して男性たちにとっての道徳上の要請は、むしろ他人の権利を尊重し、それにより生命および自己達成の権利を干渉から守るべしとの命令であるように思われる。女性たちのケアへの固執は、自己防衛よりもまずもって自己批判に向かう態度を表している。これとは対照的に男性たちは、不干渉という見地に立って、他人に対する責務を当初は否定的に捉えるものなのだ。したがって、男女両性にとっての発達には、権利と責任の統合が必然的に伴うように思われる。そしてその統合は、道徳上まったく別種の見解〔=二つの倫理〕が相互補完的な関係にあるという発見を通じて実現される。(『もうひとつの声――男女の道徳観の違いと女性のアイデンティティ』川島書店 In a Different Voice : Psychological Theory and Women's Development) === この二つの倫理、花崎さんが「生きる場の哲学」で書いている「自由の拡大」と「類的共同性の回復」という二つの価値感にもつながるものだろう。 そしてこれらの倫理を男性と女性という風に主張することの問題については、この本のなかにあるのだろうと思う。 ともあれ、「記憶のケアと記憶の共有」っていうのは面白い話しだと思う。5月5日に丸木に来て、話ができないか誘ってみたくなってきたが、来年はすでに沖縄のゲストが確定している。その次はどうかなぁ。そういえば、加納実紀代さんもまだ呼んでなかった。こう考えると、来て話して欲しい人はでてくる。いつも思い浮かばないのに。 上記の記事が「面白いかも」って思ったら、この下にある「人気blogランキングへ」というのをクリックしてください。 人気blogランキングへ クリックしてくれた人数のランキングです。クリックするとランキングのサイトに飛び、うんざりするような排外主義ブログのタイトルの山を見ることになります。こんなランキングに登録するバカバカしさを感じないわけでもないんですが、・・・ でも、クリックしてもらえるとうれしかったりもします。 人気blogランキングへ |
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「映画のなかの原爆の絵」(小沢節子さん)についてのメモ
表題の文章は岩波の図書2008年1月号に掲載されたもの。 サブタイトルは == ――「私の記憶」が変容するとき == ...続きを見る |
今日、考えたこと 2008/10/12 04:19 |
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