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zoom RSS Arisanのノートの「可視化されるべき暴力」について

<<   作成日時 : 2009/05/17 06:35   >>

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Arisanのノートの「可視化されるべき暴力」というエントリー、
http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090515/p1
この中の何かが琴線にひっかかった。(とりあえず、すぐには言葉にできない)

短いエントリーなので、ぜひこれとその前のものを読んで欲しい。


さて、その上で「可視化されるべき暴力」の最初に提示されている結論はぼくにもわかるくらい明白だ。
Arisanはこんな風に書く
====
A  (仮定だが)何百万かの人が収容所に入れられたり、貧困や飢餓や人権の剥奪に苦しんでいるという暴力。

B   われわれが、朝鮮の人々の多くが精神的に依拠しているであろう(これも、どの程度かは仮定だ)体制と国家のあり方を否定し、それを奪うという暴力。

ぼくが言いたいのは、この二つのうち、Bの方の暴力性があまりにも低く見積もられている、ということだ。
=====

そして、Arisanはその理由を以下のように書く。

====
おそらくそのことが、Aの暴力への認識から、そのリアリティを奪ってもいる。というのは、Bの不可視化という現象は、Aの暴力を考えるにあたって、この暴力(A)を遂行している当事者がわれわれ自身でもあるということの認識の希薄さとつながっているからだ。

じつはBの暴力は、われわれが過去においても現在においても行使しているもの、少なくともその行使を容認しつづけているものであって、そのひとつの結果としてAが生じているという側面が大きい。

すると、この根本的であるBの暴力をやめないままで、それどころか無自覚なままにそれを徹底させながら、Aの暴力を解消するということが、可能であろうか。

ぼくには、この力学のなかで体制が打倒された後に生じる、あの国の現実が、多くの民衆にとって、現在よりもマシなものであるとは、ほとんど考えられないのだ。

無論そのことは、現在苦しんでいる、数百万かそれ以上の人たちを、事実上見捨てる選択をぼくがすることを、免罪するものでは全くないが。

Bの可視化という課題は、われわれの社会の質に関わる。

他ならぬこのわれわれの社会が、朝鮮の何百万の人を死に追いやってきたし、今も見殺しにし続けているのだ。

われわれは、まずわれわれの社会に内在する、この(見殺しの)暴力の体質を告発して変えることから始めなければならない。

少なくとも、そのことを常にしなくてはならない。

この暴力の構造の再生産に、歯止めをかけるべきなのだ。

それは、われわれ自身をめぐる課題である。
==引用ここまで==

Arisanも書いているが、北朝鮮に住むどれくらいの人がどのような思いで、どの程度、北朝鮮という国家と体制に精神的に依拠しているのか、わからない。
依拠している人は確かに存在するのだろう。しかし、そこにどれだけ選択の余地があるかどうか。

ぼくは北の体制について、「あんな体制、消えてなくなればいい」と思わないわけではない。もしかしたら、日本にいまあるような政治体制が消えてなくなればいいという思いと同等かあるいはそれ以上にそう思っているといえるかもしれない。そのふたつに対する思いはかなり異質なものだが。


例えば、キヨシロー氏が歌っていた
あこがれの北朝鮮
http://www.youtube.com/watch?v=LeOpyWVPMr8
という歌がある。

その歌詞の後半は以下のような感じだ。
====
いつかきっと仲良くなれる♪
いつかきっと、そんな世界がくるさ♪
差別も偏見も国境もなくなるさ♪
食糧不足も核査察も工作船もテポドンもなくなるさ♪
====
こんな日に出会いたいほんとうに心から思う。
そんな風にストレートに言うことは少し照れる話だけれども、でも、ストレートにそう思う。

そして、Bを支持し、精神的にそこに依拠している人に、「資本主義の桎梏に填まるのではない別の選択肢を」とぼくは思う。それに関して、いつ、どのようにと答えることはできないのだが・・・。

何がぼくの琴線に触れたのか、自分に聞いてみる。

やはり、Aは許容できない。しかし、同時にぼくにはBのその国家や体制に依拠するというような想いをなかなか肯定できない。他の選択肢が表示されないという状況の中で、その国家や体制に精神的に依拠するという選択が選ばれてしまうことをなかなか肯定できないと思うからだ。

確かにArisanが書いているように、Aの悲惨を作り出したわれわれの社会に責任は小さくない。それは「われわれ自身をめぐる課題」だ。そして、「他ならぬこのわれわれの社会が、朝鮮の何百万の人を死に追いやってきたし、今も見殺しにし続けている」だろう。しかし、その責任は「われわれの社会」だけにあるわけではない。どこまでをわれわれの社会と呼ぶか、という問題はあるが。

とにかく現状で北の体制を支持している人が居て、同時にそれを否定し奪おうという暴力が存在する。そのことの不可視化が「Aの暴力を考えるにあたって、この暴力(A)を遂行している当事者がわれわれ自身でもあるということの認識の希薄さとつながっている」。だから、北の体制への批判のリアリティが希薄になるとArisanは書くのだが、その両者を結ぶ線がそんなに太いものだとはなかなか思えない。

北の体制の中で、日々、暮らしている民衆がそもそも不可視化されていることは問題だろう。それが国家や体制に依拠しているかどうかということに関係なく。そこへの想像力の欠如がAの暴力のリアリティをそいでいるという問題の立て方ならぼくにも理解できる。

しかし、Bの暴力の問題という風に問題を立てるという道筋がどうしても想像できない。どうしてそこで問題にされるのが、「日々、暮らしている民衆」ではなく、「この体制に精神的に依拠している多くの人びと」でなければならないのか。そのあたりがどうもぼくの琴線に触れたのだ。

北の民衆の姿を見えなくしている原因は主要に北の国家や体制の問題ではないだろうか。やはり、そこには否定したい体制が存在する、とぼくは思う。

別の選択肢がありえることを北に住む人々が自由に表現できるような時代が来て、それでも「私たちは従来の北の体制を支持する」という人が仮に多数なら、そういう選択肢をぼくは否定することはできないだろう。それはそこに住む人たちが選択すべき話だ。そのように思う人がいるかもしれないということをあらかじめ排除して、Bの可能性を否定することは誤りかも知れない。しかし、あまり選択肢が与えられているとは思えない現状で、そこに精神的に依拠している人がいるから、という問題の立て方にはちょっと違和感が残ったのだった。

そして、選択肢が与えられてなお、北に住む人たちが現状の体制を選んだとしても、ぼくは今の北の国家や体制を否定したいという思いを持ち続けるだろう。





ちょっと酔った勢いで書いてる部分もあるので、無駄な繰り返しが多いようにも感じるのだけど、とりあえず感じたことを書き残した。




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