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zoom RSS 「差異とアイデンティティのための闘争の先に見えてくるもの」西川長夫 メモ3

<<   作成日時 : 2009/06/27 11:06   >>

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http://tu-ta.at.webry.info/200906/article_13.html
http://tu-ta.at.webry.info/200906/article_14.html
の続きで、とりあえず今回が最終回。

初回
http://tu-ta.at.webry.info/200906/article_13.html
の最後のところで、多文化主義の限界が語られ、以下のように引用した。

====
 多文化主義の未来は、グローバル化の先に何を見出すかにかかっていると思います。多文化主義的思考の限界をなしているのは、究極的には国家と資本、そして文明の概念ではないでしょうか。彼らの多くは少数民族の権利は主張しても少数民族を生みだしている国民国家システム自体は不問に付している。彼らの多くは民族的な格差と不平等を問題にしても資本主義という搾取のシステムを容認する。さらに問題なのは彼らの多くは多文化主義言説が究極的に西欧文明の擁護になっていることの自覚がないということです。
====

、ここからタゴールとイリッチの言葉を手がかりに、多文化主義の闘いの先にあるものを考える、としている。

==
ここまでが
http://tu-ta.at.webry.info/200906/article_13.html


で、前回は「多文化主義の闘いの先にあるもの」として、タゴールの「国民」批判を紹介した。「国民」は「国民」によって超えられず、ナショナリズムに対して、ナショナリズムで応じてはならないというタゴールのメッセージはそういうものとしてあった。

前回、タゴールのところでメモし忘れた部分がある。
それはこのタゴールの反ナショナリズム論への「当惑と反撥、無理解」と逆によく理解している文章についての注釈(3)
まず、無理解の代表としてタゴール著作集第八巻(第三文明者、1981年)の解説者市井三郎。ここではその内容については言及されていない。
これと対照的によく理解している例として孫歌さんの「理想家の黄昏」(『アジアを語ることのジレンマ』収録 岩波書店2001年)をあげている。西川さんは以下のように書いている。
===
・・・孫歌氏はタゴールのナショナリズム論のなかに現在の最も切実な問題を見出し、歴史の未来の可能性につなげている。私たちはそこに日中のナショナリズムのはざまで長年苦労し鍛えられた孫歌氏に独自のナショナリズムに対する視座を読みとることができるのであるが、ヴァージニア・ウルフの『自分だけの部屋』への言及は同時に氏のフェミニズムに対する位置のとりかたをも示して興味深い。
===

ここで、西川さんがタゴールに言及するだけでなく、本論とはあまりつながっているとは思えない彼女のフェミニズム論にまで言及しているのが面白い。ぼくも興味深くて、ついタイプしてしまった。



次にイリッチに入る。
このテキストでの表記はイリイチになっているが、ここでは萩原弘子さんに習って、イリッチと表記する。

 西川さんはここではイリッチの提示した「ヴァナキュラーな価値」に焦点をしぼって話をすすめる、としている。彼にとってそれはイリッチの世界に入る最も近い道であり、タゴールとイリッチを深いところでつなぐ魅力的な道でもあるという。

 同時期だったコロンブスの冒険とネブリハの文法書の出版。コロンブスの冒険を一度は拒否した女王イザベラが、最終的にそれを受け入れることになる理由についてイリッチが書いたものがここで引用されている。そこから一部を抜書き。

====
・・・植民のための海外遠征をきめたこの決定は本国における新しい戦争の布告を意味していた。すなわち彼女に従う国民の<ヴァナキュラーな領域>の侵害、ヴァナキュラーな生存にたいする5世紀に及ぶ戦争の開始を意味していた
====

と、イリッチはこのようにコロンブスの「冒険」への同意の意味の大きさを紹介する。その同じイリッチは、ネブリハの出版のほうが近代の歴史にとってより重要な事件であったと考えていた、と西川さんは書く。

それは「国語」の制定という問題だ。従来、ヴァナキュラーな領域に属していた「言葉」に王権が介入し、それをコントロールできる状態が作られた。それは国民国家の柱石だとネブリハ自身が考えていたとイリッチが書いている。

ここで西川さんはコロンブス以降の500年という表現ではなく、あえて、コロンブスとネブリハ以降の500年という表現を使う。それについて以下のように書かれている。
===
・・・、コロンブスとネブリハ以降の500年は、ヴァナキュラーな領域とヴァナキュラーな価値に戦争が仕掛けられそれらが破壊されていった時代、国民国家形成と植民地支配の時代、支配と搾取と開発の時代でした。西洋文明に対するこのようなイリイチの認識とタゴールの「国民」批判、西洋文明批判は、タゴールは西洋文明に支配されようとしている植民地の側から、イリイチは植民地を支配する西洋文明のただ中からそれを見ていたという違いを別にすれば驚くほど見事に一致しています。
===

 こう書いた直後に西川さんは「ヴァナキュラーな価値」とは何でしょうか、と問い、シャドウ・ワークの4章の「サブシステンスにかしかけられた戦争」を紹介する(日本語の本ではサブシステンスは訳されている)。以下は「根づいていること」とか「家で育て、紡いだ」とかの語源などを説明を要約した後で引用されている文章の一部。

「・・・。それは人々が日常の必要を満足させるような自立的で非市場的な行為を意味する言葉なのだ。その性質上、官僚的な管理からまぬがれているその行為は、それによってその都度独自の形をとる日常の必要を満足させるのである」

「私はヴァナキュラーな言語とその再生の可能性を語ることによって、望ましい未来社会の生活のあらゆる場でもう一度ひろがるかもしれない存在(あること)、行動(すること)、制作(つくること)のヴァナキュラーな様式がありうることに気づかせ、その議論をひきおこそうとつとめているのだ」

そして、西川さんは結語として以下のように書く。
====
 ・・・・。ヴァナキュラーな世界は、その本来的な意味において多言語・多文化的な世界でした。だが、現在、私たちが直面している、西洋文明と国民国家の矛盾から生みだされる多言語・多文化主義はこのヴァナキュラーな価値の再生につながるものでしょうか、あるいは対立するものでしょうか。これは・・・切実な問題であります。
 ・・・最後に多文化主義にかんして最近私が読んで深い感銘を受けた書物のなかからもう少し元気な言葉を引用しておきたいと思います。それは最初に述べた「闘う概念」としての多文化主義にかかわるものです。

 「・・・そして、多文化主義が現実の政治的チャンスを持ちうるとすれば、それはただ、この多文化主義がそうした別の民主主義の全権を委任された者として働くときだけであり、したがってそれだけでなくまた、この多文化主義が第一世界や第二世界のうちにある、考えられ得るかぎりの、そして思いもよらないあらゆる第三世界の緩やかな革命としてとしても働くときだけである」
(ヴェルナー・ハーマッハ『自他律――多文化主義批判のために』月曜社2007年)
====

イリッチに関するつっこみとしてはとても妥当な、悪く言えば、どうってことない文章だと思うが、やはり、そこに戻らざるを得ないのではないかという認識が広がっていることの証左でもあるだろう。ともあれ、それを多文化主義批判を媒介にして、タゴールを援用しながら、「国民」あるいは「国民国家」へのラディカルな批判につなげたことに意味があるのではないか。


あと、最初にちょっとだけ示唆した「サブシステンスとバナキュラーに関するちょっと意外な発見」は「人間の自律と自存にしかけられた戦争」につけられた注(9)以下に引用
===
このタイトルの英語は<The War Against Subsistgence>で、仏訳では<La repression du domaine vernaculaire>となっている。日本語訳の「人間生活の自律と自存」はこの書物に幾度もくりかえされる表現で、ほとんどヴァナキュラーの定義とみなされるものである。なお仏訳には多くの追加や変更があり、イリイチ自身は英語版よりもむしろ仏訳に信頼を寄せていたようである。
===

フランスではサブシステンスではなくバナキュラーでイリッチは仏訳のほうに信頼を寄せていたのだから、というのがというのが西川さんの主張なのだろう。この問題について、イリッチ自身の注がある。

===
サブシステンス(人間生活の自立・自存)(一九二頁への注)

 私はこの用語を使うべきだろうか。この言葉は数年前までは、英語では「サブシステンスの農業」という使い方によって独占されていた。これは辛うじて生存している数十億人の人々のことを意味した。開発当局はこの運命から彼らを救うべきものとしている。あるいはこの言葉は、一人の浮浪者がドヤ街でやっと生きてゆく最低限を意味した。また、最後には、賃金とも同一視された。これらの混乱をさけるために、「公的選択の三つの次元」のなかで、私は「ヴァナキュラー」という用語の使用を提唱した。これは商品というものの反対概念としてローマの法律家によって使われた専門用語である。(中略)
 私はヴァナキュラーな活動とヴァナキュラーな領域について話したい。にもかかわらず、ここでは私はこの表現をさけようとしている。なぜならこのエッセイだけで「ヴァナキュラーな価値」を読者に熟知させることを期待することはできないからだ。
(しかし、この本の第二章を参照せよ。)使用価値を中心とする活動、非金銭的な取引、埋めこまれた経済活動、実体=実在的な経済学、これらはすべて、これまで試みられてきた用語である。私はこの論文では「サブシステンス」に固執する。たとえ経済活動が支払われようと支払われまいと、私は、形式的な通常の経済の意のままになっている活動にサブシステンス指向の活動を対置させようと思う。そして、経済活動の範囲内で、賃金と<シャドウ・ワーク>が照応するフォーマルな部分とインフォーマルな部分の区別をしようと思う。
・・・(以下略)・・・ 245−6p
===

ここでイリッチは
==
 私はヴァナキュラーな活動とヴァナキュラーな領域について話したい。にもかかわらず、ここでは私はこの表現をさけようとしている。なぜならこのエッセイだけで「ヴァナキュラーな価値」を読者に熟知させることを期待することはできないからだ。
==
と書いている(他の著作でこの概念により詳しく言及したものがあるかどうか、ぼくは知らない)。ここから、ヴァナキュラーのほうに重きを置いていたのではないかと想像はできる。しかし、ここでは、ほぼ同じ意味で使われる「『サブシステンス』に固執する」と断言している。しかし、その理由は書かれていない。ここだけでは、その二つの語がどのように違うのかわからない。「もっと説明しろよイリッチ」と思うのだが、彼はいない。

話は変るが、ここで西川氏はあえてサブシステンスというカタカナ語を避けているように感じるのはうがちすぎだろうか?(これはまだ確認が可能な話だ)
2008年のこの段階ではサブシステンスに関する言及は少なくなかったはずで、この概念を使っている人が増えていることにもたぶん気づいているのではないかと想像できる。

ぼくは「サブシステンス」という概念を使って、見えてくるものがたくさんあったから、たびたび言及もしているのだが、ま、どっちでもいいか、とも思う。

また、このイリッチ自身の注の最後では、「ビーレフェルト大学でサブシステンスに関する興味深い国際セミナーが開かれた」とだけ言及されている。
この話については
http://tu-ta.at.webry.info/200906/article_8.html
で少しぼくも書いている。


中途半端だが、とりあえずここまで。


P.S.
病気療養中の某知り合いが
オルタナティブをめぐる討論をするのであれば、「近代国民国家を批判する理論(たとえば西川長夫など)の蓄積をきちんと利用しなくてはならない。」と言っていたらしい。何か読んでみようかと思う。何がいいのかなぁ。





====
差異とアイデンティティのための闘争の先に見えてくるもの
――タゴールの反ナショナリズム論とイリイチの「ヴァナキュラーな価値」を手がかりに
===
これが掲載されているのは「生存学研究センター報告4」(2008年10月)
http://www.arsvi.com/b2000/0810av.htm

から


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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
台湾生まれの西川さんのような人が、
例のNHK台湾問題について
反植民地主義の観点からびしっと発言して
くださるといいのですが。
ココペリ
2009/06/30 11:56
ココペリさん、コメントどうも。
西川さんの国民国家への厳しいまなざしをあの番組に向けると、また、違う観点からの鋭い批評がありえそうですね。
それはそれで聞いてみたいですね。
ココペリさんインタビューしてみてはどうでしょう?
tu-ta
2009/06/30 12:35

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