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zoom RSS 「経済成長って 何で必要なんだろう?」読書メモ その4

<<   作成日時 : 2009/08/22 05:02   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 4 / コメント 2

その1
http://tu-ta.at.webry.info/200908/article_8.html
その2
http://tu-ta.at.webry.info/200908/article_10.html
その3
http://tu-ta.at.webry.info/200908/article_11.html
の続き

先日、はじめて見たのだが、飯田さんのブログがある。

そこに以下のエントリー

『経済成長って何で必要なんだろう』のamazon書評
http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20090812

ここで、amazonに掲載された「地球の有限性を、視野に入れていない」というタイトルの書評に飯田さんが反論している。

まず、こんな風に反論する。
===
少なからぬ人は経済成長というと量的な拡大ばかり想起してしまうようです.例えば鉄鋼生産が倍になるとか自動車生産台数がX%伸びるとかそういうの.この種の成長余地は先進国内では少ない.同じような商品を大量生産してもうける……なんてビジネスモデルは先進国ではすでに30年前におわっています.

 経済成長=付加価値生産の拡大であることを忘れてはいけません
===

しかし、飯田さんが主張している経済成長はGDPの成長で、それ自体は量的な拡大であることは間違いない。GDPを量で増やして、みんなが豊かになるっていうのも、すでに終わっているのではないだろうか。何度も書いてきたが、持続可能な「生存」をベースに考えて、結果としてGDPが増えるということが可能であれば、そんな形でGDPが増えることに反対しているわけではない。例えば、トヨタが販売台数を減らして、GDPの上昇に貢献するなんてことがありえるだろうか。製造業の利益の拡大が生産量の拡大と結びつかないというようなことは例外的な話ではないか、と思う。

というわけで、ちょっとだけ反論テンプレのブラッシュアップに貢献させてもらった。


さて、読書メモの続き。

終章「議論を終えて」について

ちなみにこの読書メモ、付箋を貼りながら、読んでいって、付箋のところだけ振り返って書いているのだが、ときどき、どうしてこんなところに付箋が張ってあるんだろうってこともある。そんな程度のいいかげんなメモなので、「ぼくの問題意識からチェックすべきところ」で落としてるところもあると思う。

さて、この終章だが、始めのほうにはほとんど付箋がない。

新古典派とニューケイジアンって、そんなに違わないっていう話はそうかっていう感じだったのだが、とりあえず、それだけ。

いちばん最後に近い、257p以降に俄然、付箋がついている。

飯田さんは現在の新自由主義批判は、貧困をなんとかしなきゃいけないと言う点で共通する部分があるが、右も左もそれがコミュニティ回帰に流れるところがいけないという。そして、右と左の違いは「押しつける『正しい社会観』が違うだけだ」とも。ま、確かにそういうところはある。

そして、飯田さんはamazonでの「コミュニティへの冷笑的態度」という批判に以下のように答える。

===
 これもよく言われるけれども僕個人としては心外.昔から地元団体から学校行事,OB会,NPOまで僕はわりとコミュニティ活動の参加頻度高いし,すごく好きなんだけどなぁ.僕が嫌いなのは他人にコミュニティへの帰属やコミュニティの称揚を押しつける態度.その意味で「コミュニティ」に冷笑的なんではなくて,「コミュニティの強要(?)」に冷笑(or嘲笑)的というわけ.
===

経済成長ではなく、ローカルやコミュニティの復権というのは、ぼくも言ってきた話だ。「生存」のためにコミュニティは必要なのではないかという意見でもある。前にも書いたように、その復権させるべきコミュニティとは、ただ桎梏となるような従来型のコミュニティではないと思う。それぞれが言いたいことを主張しつつ、それでも時間をかけた話し合いや人間関係のなかで、なんとか調和が保たれるようなコミュニティのありかたが模索される必要があると思う。それはそんなに容易なことではないかもしれない。

それで、思い出したことがある。以前、「スワラジ学園」の筧次郎さんが言っていた話だ。ブログ内検索をかけると、かなり関連する話があったので、最後に貼り付けておく。


次についた付箋は飯田さんの資本主義観。
これはちょっと面白い。
要約すると、
・社会主義は倫理観の押し付けを不可避とするから、画一的な社会にならざるをえない。
・多様な倫理観が許容されないとつまらない社会になる。
・資本主義のいいところは金を払えば自由だということ
・最低限のお金が準備されれば、最低限の自由が保障される
というわけで、こんな風に主張する。
「自由な社会は居心地がよい。競争的な社会は効率的だ。自由で競争的な社会をつくるためには貧困問題を解決しておかなければならない」

ソ連型の画一的な社会主義に未来がないことは多くの社会主義者は気づいていると思う。そして、別の形の、多元的で、政治的な複数性を許容する社会主義必要だという主張までは読んだことがあるような気がする。じゃあそれがどのように可能かということになると、ぼくは知らない。実行可能なプランとして提示されているものがあるんだろうか。

そういう社会主義側の問題は確かにあると思うが、じゃあ、「多様な倫理観」と「金を払えば自由」という価値観を並存させたらどうなるのか、そして現にどうなっているのかという問題がある。たくさん金を持っている人間がたくさんの自由を占有し、貧乏人は小さな自由しかもてない、という結果を生んでいるのではないか。最低限のベーシックインカムで最低限の自由が保障されれば、それでいいのか。(確かにそれは最低限の出発点ではあるかもしれないが)。たくさんの自由を持つ金持ちと最低限の自由しかない貧乏?「多様な倫理観」を謳いながら、主要な倫理は金をたくさん持っている人間が支配し続けるっていうようなのはいやだ。それは多様な倫理観が認められるとしながら、結局、金持ちの倫理が結果として優先される現状の社会の追認にしかならないようにも感じる。



飯田さんは、理論的に設定したゴールは必要だが、大革命ではなく、そこに頂上があると思いながら、ちまちま歩きたい、間違ってたと思っていたら、引き返し、頂上かと思ったら、もっと高い山が見えたってこともあるかもしれない、という。また、考えているモデルが間違えている可能性もあることを前提にと。

間違ってると思ったら引き返し、行った先で、もっと高い頂上をみつけるというようなことはあるし、必要なことだと思う。そして、考えているモデルが間違う可能性があることを前提に問題を立てるのも大切なことだ。

それを受けて、荻上さんが、「現実原則を無視したり、自生的秩序に目を向けなかったりすると、ろくなことにはならない」と言い、さらにそれを受けて、芹沢さんが「そこが左翼と自由主義者を分けるポイント」だというのだが、左翼や自由主義者を一般化することに意味があるとは思えない。

確かに従来の左翼はあまり柔軟性はなく、間違っても間違ってるとなかなか言えなかったりということはあったし、現実原則っていうのが何だかわからないが、自生的な秩序にあまり目を向けてこなかったかもしれない。でも、左翼だって、それが必要だということに気がつき始めている。

飯田さんは保守主義のいいところは「進取の気質と保守性の絶妙なバランス」だと言う。保守的な意識というのは確かにあるだろう。同時に変えたいという思いも存在する。臨界点までは人は動かない。それくらいのことは左翼にも常識になっているのではないか。また、飯田さんがいう「どれが正しいかなんて、わかっていない。いまの段階ではあれが正しいといっているだけで、それに向けて一歩一歩進んでいくだけ」というのは左翼のぼくにとってもとても大切な信条の一つで、別に保守主義者や自由主義者の独占物ではない。


また、この少し後で、荻上さんは経済学者による経済的合理性の主張と、運動家やニューレフトや論壇系の人の規範的合理性(「規律をめぐる情報戦」の重視)という思考方法の違いに着目する。確かにそういう傾向はないわけではないような気もする。そのふたつの合理性が人を動かすという側面はある。山之内靖=マックスヴェーバーはそれを「人は利害によって動くが、その方向を決めるのは世界像であり、その世界像が変わりつつある現代の問題を提起している。

また、飯田さんはここで、「繰り返しになりますが」と断って、「経済学者は、『規範=目標は外から与えられる。その規範の中での最適解を出してあげるから』という立場に傾きがちです」という。その上で「景気安定化と経済成長の必要性の話をするときには、その規範の部分をなるべく避けて通って、その上で状況を改善する方法はないだろうかと考える。活動家と違い、規範意識をめぐる議論をスキップする方法を日々考えている。
 それに対して活動家は、規範意識をなんとか変えていくという方向に向く。そこに活動家と技術屋さんの齟齬が生まれてますね。」という。

ばくはこの現状認識が生まれる背景を理解していないわけではないと思うし、一面ではそういう言い方も可能かもしれないと思うが、これを読んでふたつのことを感じた。

ひとつはここに書いてあることだが、現状では規範意識の議論が好きな活動家と目の前にある現実をなんとかすることに主眼を置く活動家、あるいは未来に向けた実験的な場を作ることに熱心な活動家がいる。この対談でも湯浅さんは目の前の現実を考えると、ベーシックインカムが必要だといういうような議論は後回しになるという主張をしていたと思う。まず、この活動家の一般化はそんなに正確ではないというのが感じたことのひとつ。

もうひとつ感じたのは(この前に書かれていることも含めての感想だが)、この思考方法は徹底的に一国的(ナショナル)だなぁということ。何か経済問題を含めた現在の状況が日本一国の政策でなんとかなるという主張だと感じたわけだ。南と北の現在の不公正な状況を前提に問題が組み立てられているように思う。確かに現状は北の中に南が出来、南の中に北があるというように非常に複雑化してはいるが、現実に一方には3秒ごとに飢えて死ぬ子どもが存在していて、もう一方では飽食の結果、食べ物が大量に廃棄され、摂取したカロリーを消費するためだけの大きな産業がある。

この不公正な現実を変えなければならないというのは規範的合理性に基づく話だが、そのためにどういう技術が必要なのか。そう、飯田さんが主張しているように各国でGDPを増やすことこそが必要だという戦後の一貫した主張のもと、さまざまな施策がとられてきた。そして、そういう大義名分はありつつも、現実にはいわゆる「先進国」の利害だけを優先する政策が進められてきたという現実もある。

しかし、それだけでなく、まさに飯田さんが主張するように企業にまかせれば利益が最大化するのだからという論理で行われてきた政策で、貧富の差は拡大し、食べられない人はいっこうに減らず、平均寿命が減少するというような事態が生じている。その世界の現実から見て、本当に飯田さんのような主張に妥当性があるのかと言いたい。

もちろん、統計の見方という問題もあるだろう。上述したような現実は一部を誇張した間違った見方だという話であるなら、まさに経済学者として、そういう現実はないということを納得できるような形で提示して欲しいと思う。


これに続く部分に書いてあるのは「学者が目標設定し、運動家がそこに向かって頑張るというイメージをもつインテリ諸氏は多いと思うんですが、これはまったく逆です。むしろ運動家が目標設定をし、社会科学側は方法論を語るという方法のほうがいい結果に結びつくでしょう」という飯田さんの話だ。確かにそれはいいかもしれないと思う。経済学者にはぜひ、経済学者には、世界で継続しているこんなに不公正な状態をなんとかするための方法を提示して欲しいし、従来、GDPの増加が必要だという名目でやられてきた政策がなぜ間違っていたのか、どこで間違っていたのかということを明確に素人にもわかるような形で説明して欲しい。

そして、そういう不公正をなくすための現実的な経済政策は企業を自由に活動させることだという新自由主義的な政策に世界の民衆運動はNO!という声を明確にあげている。その誤りも日本以外の地域では明らかになってきつつあるように感じるのだが、どうだろう。



あとは細かい話だが、例えば耐震偽装の問題について飯田さんは地震保険の加入を義務付けろ、そうすれば保険会社が真剣に調べる、というのだが、そうはならないことは明白だ。お金のかかる検査を簡略化して、目先の保険料収入の増加に走る保険会社がきっと出てくる。地震のリスクと利益を数量的に計算して、ぎりぎりで利益がでることを優先すれば、とりあえず地震が起きない可能性が高ければ、その線で行動する企業がでてくる。地震が起きたときはとりかえしがつかないのだが、目先の利益は確保される、そういう目先の利益で耐震偽装の問題も起きてきたのではないか。保険会社と建設会社がいっしょになって、利益確保に走るというような単純な話がなぜ、考えられないのだろう。

また、再配分の話で、「都会の金持ちと貧乏人からとって、田舎と都会の貧乏人にまき、貧乏な若者と金持ちの若者から取って、金持ちの年寄りと貧乏な年寄りに配っている」と書くのだが、そもそも田舎と都会の貧乏人、あるいは貧乏な若者はもう取ることができないところまで押し込められているのではないか。日本の再配分政策がひどいというのはそのとおりなのだが、若年の貧困が確かに増加しているが、それでも貧困で苦しめられている多くは年配者だという現実がここでは捨象されている。

もうこれくらいにしておこうと思ったが、どうしても書かずにはおれない納得のいかない例はまだある。学校のバリアフリーを例にして語られているところの問題だ。これを保険の問題として処理すると解決の道筋が見えるという。つまり、障害者福祉全般についてなのだが、まだ生まれていない子どもに対してそのくらいの障害保険を払うべきか、どのくらいの保険水準が適切かという問題に落ち着くと、飯田さんは言う。ここはやはり規範=権利の問題として語られなければならないところだと思う。

地域の学校に行きたいと願うこどものための教育環境が整えられなければならない。確かに、そのための費用がまったくないという地域は世界にはいくらでもあるだろう。しかし、原則は地域の学校に行きたいという彼女や彼のための環境が整えられるべき、ということなのだ。そのために、どのように費用を分配するか、ということが問われるという話であり、それは「どの程度の保険水準が適切か」という類の話ではないはずだ。

書きすぎたので、結語に向かおう。
あとがきで飯田さんは、「通常時2%、好況時に3%の実質成長が達成できれば、現在の日本の多くの問題が解決できる」という。

石油を産出するコストは間違いなく上がるだろう。そして、生産は減少に向かう可能性が高いといわれている。もちろん、いつかは現状の技術では取れなくなる。また、新しい技術を開発して化石燃料を燃やし続けることが、本当にいいのかどうか、という議論もある。

食料の不足も言われている。大きな海を越えて、食べ物が運ばれなければ成り立たない状況だが、とりあえず、この国にはお金があるので、買うことができるという状況が続いている。成長を続けて、お金持ちであり続けなければならないというのが、飯田さんのわかりやすい主張なのだと思う。

しかし、日本や世界の公正な富の分配ということを考えたときに、現状のシステムの中で儲け続けよという風な問題の立て方で本当にいいのかと思う。公正な富の分配を求める声は大きくなりこそすれ、小さくなることはないはずだ。それはもちろん、日本だけの問題ではない。

湯浅さんがこの対談でも言っているように、「生存」をベースに問題を立てる必要があるのだと思う。すべてのいのち、とりあえず、すべての人が持続的に生存できる環境をどのように準備できるかということだ。飯田さんが経済成長が必要と繰り返すので、ぼくも何度も繰り返すことになるが、そういう風に世界の人の「生存」をベースに問題を組み立てて、その結果として、それでも日本のGDPがあがるということがあるのであれば、それは否定しない。しかし、ターゲットにすべきはそこではないはずだ。公正で持続可能な世界をどう作っていくのか、そこに力点が置かれる必要がある。その上で、人は基本的に利害で動くのだから、どうすればいいのかという政策を経済学の人には考えて欲しいと思うわけだ。




さっき、最後に貼り付けておくと書いた「コミュニティの復権」と自由の問題について、以前、考えたことを貼り付けておく。




『暗闇のなかの希望』読書メモ その4
http://tu-ta.at.webry.info/200805/article_21.html

==ここからかなり長い部分引用==

(以下は『暗闇のなかの希望』からの引用)
===
・・。「あれかこれか」の選択問題の正解は、たいていの場合「どりらも」である。逆説的な関係に向き合うには、一貫性にこだわって、一方を切り捨てるのではなく、両方とも掬い上げるのが一番まっとうなやりかたなのだ。問題は地域性と世界性が生きた関係を築けるようにすることであり、一方のみを取り上げ、他方を閉め出すことではない。
 わたしたちの時代の地球規模の公正をめざす運動を定義するひとつの方法は、地域性――地産食品、労働と資源の地域内管理、地場生産、地域文化、在来の家畜と栽培植物、固有の野生生物種、環境保護といった、本質的に地域のもの――を防衛するための地球規模の運動として捉えることができる。   170-171p
===

ここから、前回の「読書メモ3」でちょっと予告した話につながっていく。

「いまの急進派の多くは、地域を賛美し、擁護しようとするが、地域性を善と決めてかかるのは、あまりにも単純すぎるだろう。」
ここは留意が必要な部分だろう。人種差別が横行していた合州国南部などを例に、それが地域の特質だからと肯定できない話があることを著者は喚起する。
 しかし、その上で、やはり「地域」が大切だとしている。バイオリージョナリズムを紹介し、こんな風に書く。
===
・・・。バイオリージョナリズムは押しつけではなく、適応であり、地域性を強調しても、一言一句変えずに布教する福音のようなものではないので、ある意味で現在の反イデオロギー的な風潮を先取りしていた。押しつけは権力の集中である。わたしが関心を寄せる地域性は、権力を分配する。 172-173p
===
「押しつけではなく、適応」というあたりは、直訳的でわかりにくいところもあるが、いいたいのはたぶんこんなことだろうという想像は可能だ。

ここで、読んでおきたいのは「わたしが関心を寄せる地域性は権力を分配する」と、あえてレベッカがいっているところだ。つまり、この背景に権力を集中するような地域性というかローカリズムもまた存在しうるということだろう。

実際、少なくない地域でローカルと封建主義の共存はあったように思う。ぼくたちが望んでいるローカリズムはそんなローカルではない。押し付けられたローカルではなく、選択しうるローカル、新しく創造するローカルが必要なのだと思う。
 そんな風に書くと、思い出すのは「スワラジ学園」の筧次郎さんの話だ。ローカルには一定の桎梏はついてくるというような話だったと勝手に解釈している。ローカルでかつ自由に、というふうに両方をめざすのはないものねだりだというような話だったとぼくは理解したんだけど・・・。

ここでもレベッカが言っている「『あれかこれか』の選択問題の正解は、たいていの場『どちらも』である。逆説的な関係に向き合うには、一貫性にこだわって、一方を切り捨てるのではなく、両方とも掬い上げるのが一番まっとうなやりかたなのだ」というのを参照しよう。

そう、筧さんがいうように両方全部っていうのは確かに厳しいところもあるだろう。ローカルにこだわることであきらめなくちゃいけないことはないわけではない。土の人と風の人は交われない部分がある。だけど、そのバランスをとることは可能なんじゃないかと思う。それはとても微妙で、崩れやすくて、一筋縄ではいかないようなものだけれども、そこをめざすプロセスこそが大切なんだと思う。大切なのは結果ではなくて、プロセスだ。

んで、本の話に戻ると、バイオリージョナリズムが話題になることはなくなったが、その理想はいろいろなことの中に息づいているとレベッカは書いている。

そして、こんな風にも書いている。
===
 地域の力を大事にすることが、愛郷主義やひきこもり、あるいは狭量さを意味する必要はない。それは広い世界に向かって船出する理にかなった母港になるだけの話だ。・・・。ことによると、違いは弱さではなく、強さであるという感触。地域環境に根ざしたアイデンティティをもちながら、地球環境の対話にも加われるという感覚。そして、この対話は、地域のためにこそおこなわれているという感覚である。  176p
===


==『暗闇のなかの希望』読書メモ その4 からの引用ここまで==



すごい文字数になったので、読み返す気力がないです。
誤字・脱字、不必要な繰り返し、接続詞の間違った使い方とか、たくさんあるような気がしますが、すみません。このままアップロードします。


「経済成長って 何で必要なんだろう?」の読書メモはとりあえず、ここまで。
だれかレスポンスしてくれたら、うれしいけど、レスポンスをもらうにはちょっとダラダラ書きすぎたかなぁ。





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内 容 ニックネーム/日時
非常に盛りだくさんの書評ですが、いわゆる経済成長懐疑論者は次の問題に答えられていないということが何よりも問題なんです。
それは「今行われているレイプを止めるには暴力が必要で、それも後でではなく今すぐに」ということ。
湯浅誠さんも言っていますが、貧困者に対しベーシックインカムが出来るまで待ってねとは言えないということ。
経済成長はとりあえず即効性がある、失業者は減り路頭に迷う人は少なくなる。
まず制度設計を見直さねばと言うならば、今やれ直ぐやれ今日実行しろという話になる。
ただそれだけなんです。
WATERMAN
2009/08/27 06:43
WATERMANさま
コメントどうも。
コメントのレスポンスは
http://tu-ta.at.webry.info/200908/article_16.html
に掲載しました。
tu-ta
2009/08/28 08:06

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