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zoom RSS 「アヴァンギャルドの戦争体験」(新装版)メモ

<<   作成日時 : 2009/09/08 05:15   >>

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「新装版 アヴァンギャルドの戦争体験」(2004年青木書店)

この小沢(こざわ)節子さんの本がどこかで目に付いた。どうしてだか、読んでみたくなって図書館で借りて読んだのだが、もう1ヶ月近くも前の話で、何でこの本を読みたくなったのか覚えていない。

ま、きっかけはともかく、以下、読書メモ。

この本に書かれているほとんどすべてはぼくが知らないことで、新しい情報だった。また、それだけでなく、その中身から示唆されるべきことが多く含まれているように感じた。小沢さんの研究者としての出発点がこんなところにあったのか、というのは驚きというよりも、必然性でもあるように思う。アヴァンギャルドの戦争体験は15年戦争を生きたアーチストの記録であるだけではない。そこから照射される現在のアートシーンがある。


抜書き&メモ
自分用メモなので、省略部分多数ある。誰が言ったことかわかりにくい部分もあると思う。。


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個からの自発性と社会への参加という、芸術における不可避な両極の矛盾をつねに内側に抱きながら、倒れていった人たち、生き残った人たち、そこに残された足跡や欠落の証言こそが同じ比重をもって語ってくれるはずではなかろうか。(瀧口修造 1977 古沢岩美美術館月報25 特集号「現代美術のパイオニア展」に寄せた文章から)
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(「現代美術のパイオニア展」は昭和の前衛芸術運動についての先駆的な探索作業)
この言葉が「15年戦争と芸術家ーー松本竣介における絵画と社会」というタイトルの小沢節子さんの研究の「足下を照らす一筋の光」だったという。
戦争の時代を生きた作家と残された作品に向き合うためのスタンス
3p

小沢さんがこの文章を「戦争の時代を生きた作家と残された作品に向き合うためのスタンス」としたというのは、わかるような気もする。

しかし、同時に、「個からの自発性と社会への参加という、芸術における不可避な両極の矛盾」という表現をタイプしてみて、引き裂かれているものは、ほんとうにこれだろうか、とも思う。

社会と社会に構成された自分との間のインタラクティブな交信の中から生まれる表現。そうであるにもかかわらず、社会が介在しない純粋な芸術空間があるかのような誤解がメインストリームのアートシーンにはあるように感じる。あるいは社会との緊張関係の欠如。

革命とか社会変革にアートが従属させられるのはつまらないが、社会と社会に構成された自分の緊張関係の緊張度の中にアートがあるように思う。社会と社会に構成された自分の緊張関係を自由に組み換え再構成するのがアートの力なのではないか。

同時に戦争とファシズムの直接的な暴力支配のもとで社会によって構成されている自己は、その構成の方法を強制される。

この瀧口の解釈への違和感は「個からの自発性」というのを「社会への参加」と対立的に捉えているところ。つまり、「個からの自発性」というのは「社会への参加」と対立しそれ自体として存在するのではなく、さまざまな形での「社会への参加」の中から形成されるのではないかということだ。
 なんて、書いてしまったが、ぼくは瀧口修造をまったく知らない。

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この本について小沢さんは
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30年代の陰影に富んだ豊かな視覚世界
本書では、そのような1930年代のアヴァンギャルドの世界を、何人かの芸術家たちの営みを検討することで明らかにしていきたい。11p
===
と書く。
15年戦争に突入した30年。つまり昭和5年からの10年。射程としては40年代の初めまで含んでいると思われるこの時間軸の中に、「陰影に富んだ豊かな視覚世界」があったということをぼくは知らなかったし、一般的にもあまり知られていないように思う。


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20年代の芸術的前衛は30年代への継承されなかったといわれるが、そこには二重の連続性がある。ひとつは政治優先の主題芸術からの解放、もうひとつは芸術家と社会との関わりという問題意識。15p
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20年代から30年代といえば、ロシア革命後、ロシアアヴァンギャルドが消されていく時代の移り変わりとも重なる。日本に限らないアートの流れもあるのだと思うが、悲しいかな知識がない。

===

15年戦争下の美術の問題性についてのいちはやい言及として
針生一郎「戦時下の美術」『文学』61年5月号

洋画の日本化と戦争画の問題についての論点整理は
図録「昭和の絵画 第一部、第二部」宮城県立美術館1991年
18p

小沢さんの戦争画についての見解
「15年戦争期の美術をめぐって」『歴史評論93年8月』
93p




竣介の『雑記長』におけるふたつの理念
・「エッセエの精神」
==
分析と批判と建設の意欲が随筆の型をとって生まれてくる文章やアフオリズムをエッセエと解した……
「エッセエする」とは日常生活全般にわたって、正しさというより偽りのないものを見出すことを指すのであろう。
by 竣介
==
「完成」および「全体性」に対して、なにものかを探りながら作り出していく「過程」の精神 (小沢)

・「文化の水平運動」
==
文壇的知識がなければ文学が理解出来ず、画壇的知識がなければ絵画に親しむ道がないといったやうな、衒学的気風がなくならぬ限り、各分野は益々孤立して、一般の人々との間も一層離反してしまうでせう。
==
我々の『雑記帳』に持つ希望は、この個々乖離している文化層を、横断的にその文脈に触れたいといふので、各分野の人々の随筆を中心に編集しようとする。
by 竣介
==

「「課程」の精神」としてのエッセエいうのは面白い。「そうか」と意を強くした。

またぼくは画壇的知識や文壇的知識を持たないのだが、文学的な知識や美術史の前提的な知識も持たないんだけど、それもOKということにしてもらえると、すごく都合がいい。


===
様々な知の領域の住人たちが、芸術や科学といった垣根をとりはらい、それぞれのタコツボから出て交わることによって、はじめて文化は人びとのものになると竣介は考えたのだった。それは、彼自身のいうように文化の「通俗化」や「大衆化」ではなく、文化や知識の「日常化」というべきものであり、知識人と民衆というカテゴリーを越えた「思索する人々」によって担われていくべきものだった。 127〜128p
===
「通俗化」や「大衆化」と「日常化」をどのように切り分けられるだろうか。インテリ世界での「日常化」という話じゃないだろうし、そうだとしたらつまんない。そんな風に考えると、「通俗化」と「大衆化」を分けてみたいような誘惑にもかられる。

それぞれを形容詞として、文化という語をあててみる。
「通俗化された文化」
「大衆の文化」
「日常の文化」
こんな風に考えると、「大衆化された文化」と「大衆の文化」の間に亀裂があるのかもしれないと思う。


瀧口
「花籠に充満せる人間の死」
という詩
ちょっと書き写したくなった。
===
純粋な男が何となく左手を右手に合わせてゐる。これは純粋な行為であった。それから特に清浄な太陽へ宝石を飾るために空中に浮かんでゐた。人間に復った人間が真実の紫陽花色をした現実を噛んだ瞬間は名誉ある鰐の全世界であった。これは衰弱の万歳である。石鹸で洗滌した鮮やかな鰐の眼よ。改めて花籠の純白な自然を見よ。・・・
===

===
瀧口は……シュルレアリズムの歴史的必然性を未来に投げかけられた「革命」としてとらえ、そのとりあつかう「現実」は決して二元論的に分割された内面的現実にとどまるものではないと主張する。 205p
===
しかし、日本のシュルレアリスムは彼が思い描いた「革命的」な方向とは程遠い道筋をたどっていた。205p
===
それでもなお瀧口はフランスの「シュルレアリスム」運動をそれ自身として探索しようとする興味に深くとらわれていた。それは芸術至上主義的な語法としての日本のシュルレアリスムに「現実を通す」「アクチュアリテを通す」という強い願望でもあり、同時代の日本の現実といかに向き合うかというみずからへのの問いかけでもあった。205p
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「超現実主義の可能性と不可能性」(「新潮」1932年2月)のなかで、瀧口は……。超現実主義を「一つの芸術上の形式主義」や「観念主義」としてとらえるマルクス主義からの批判に対しては、「超現実主義が文学上のリアリスムに反抗したということは少しも、プロレタリアの進むべき方向と根本的に矛盾すべき方向を構成するものではなく」、超現実主義者は「ヘエゲルの哲学から出発する点において、史的唯物論との向動力の類似」を示すと彼(瀧口)はいう。その上で、次のようにシュルレアリスムの独自な役割を主張するのだった。「マルクス主義の目的に横たはる真実も、決して実際的に保証し得ない純粋に知的・精神的労働の評価に対して、超現実主義は絶えず主張をつづけるであらう」
 このようなマルクス主義との緊張をはらんだ接近は…… 212〜213p
==

『近代芸術』(1938年)の瀧口の独自なシュルレアリスム認識を小沢さんは以下のようにまとめている。
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 キュビズムの造形上の変革の意義をさらに推し進め「新しい精神性」を付与したのがダダであり、ダダの否定の精神や偶然性や遊戯の詩精神はシュルレアリスムによって継承された。さらに、「抽象派の追及は、あまりに純粋造形的な領域に限られているために、ながいあいだの世界観の蓄積である自然主義的な芸術に対する反テーゼとしては、かなり薄弱な点がないわけではない」のに対して、シュルレアリスムの「思想」としてのはたらきと広がりにこそ、新しい芸術の可能性を見出すことができる。 226p
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なにか、このあたりに『文化冷戦』で提起されている「抽象表現主義がリアリズムへの対抗として戦後、CIAによってバックアップされ、広められた」という話とつながるものがありそうだと思う。しかし、ぼくは残念ながら、リアリズムとシュルレアリズムが連関しているのかどうか知らないし、ロシアアバンギャルドと社会主義リアリズムの関係がどうなっているのかさえ知らない。


また小沢さんは戦中の瀧口の話に触れる中で以下のようなことも書いている。
===
「転向」
拘留中の取調べでは「シュルレアリスムの本質論と現実政治の関係にふれるとその応酬は混沌として若い検事にも困惑の表情が見える。私自身の内部でも本質的に未解決の問題であった」という。瀧口にとっての政治と芸術の関係とは、生涯をとおして、安易な回答を拒む「本質的に未解決な問題」だったと思われるが、前述のように、検挙に至るまでの執筆活動では、彼は日本におけるシュルレアリスム運動の非政治性を強調しつづけていた。それは自分たちの運動を継続させるための政治性の棚上げという戦略、またはファシズムという「政治の芸術化」に対峙して、芸術の非政治性という立場からの抵抗ともいえるものだった。瀧口の転向とは、彼が検挙以前のそのような立場を放棄したことを意味する。 239p
===

付箋を貼ってあるところを振り返りながら、タイプしているのでこの文章がでてくる経過を忘れていたりするのだが、この前に引用した「日本のシュルレアリスムに『現実を通す』」という検挙前のこの主張と、同じく検挙前の「芸術の非政治性という立場からの抵抗」ということの連関がよくわからない。

翼賛政治の中で、ほとんどのアーチストが自らの作品をファシズムに献上することになるのだが、それを拒否するという立場での抵抗という戦術については理解できる。しかし、その戦術と「日本のシュルレアリスムに『現実を通す』」立場の連関はどうなのだろう。


こんなメモを書いていたら、また図書館から督促の電話をもらってしまった。そんなに長く借りてた割にはほとんど読めてないんだけど・・・。

で、この本の一番最後の「戦時期の絵画を読むということ――新装版刊行に当たって」がまた興味深い。

このあたりで、ぼくがこの本をちゃんと読み込むことができなかった故の混乱に対するヒントというかひとつの解答が提出されている。
シュルレアリスムは近代を超える思想であったにもかかわらず、瀧口は1930年代後半の日本の現実の中ではそれを「近代」(日本社会における近代的諸価値)擁護の思想として論じ、活動しなくてはならなかった。
そして、「本書ではその矛盾と可能性を、彼の時代認識、芸術認識に則して考えようとした」と書く。
実はこの文章をより正確に引用すると、
===
・・・に則して考えようとしたわけだが、現在の私は、瀧口の戦中の「転向」・沈黙と戦後における啓蒙的活動の再開、さらにその後の「啓蒙からの離脱とシュルレアリスムへの回帰」の展望について、改めて「近代」という視覚から論じることができるのではないかとも考えている。
===
そこに近代と近代を超えるものを見出すことができるということなのだろう。

また、この最後の章の最後に、小沢さんは、小林俊介という若い世代の研究者の研究を肯定的に紹介した後で、その先行研究への批判、つまり、竣介の解釈に於いて、発言やイメージの解釈に重点が置かれ、技法やマチエールがその解釈に組み込まれていないというその批判も紹介する。そして、それへさらっと反論した上で、以下のように書いている。
===
 松本に則していえば、おそらく小林の指摘する「反近代」/「近代批判」的な絵画技法という造形の思想と、1930年代における近代的価値の擁護という社会的、歴史的思想が一人の芸術家のなかに並存していたからこそ、その独自性があるというべきだろう(そして、瀧口と松本という一見極めて異質な二人の芸術家を結びつけたものも、こうした歴史的コンテクストにおける自らの立場性の自覚にあったのではないだろうか)。・・・
===


そういえば、1920年末代から30年代にかけては世界恐慌に襲われた時期だ。いままた世界恐慌の再来にも匹敵するといわれる経済的な混乱を迎えているその時期に、ぼくを含めて「近代」はもう終わったと主張している、その一方で排外主義右翼の声もまた大きくなっていて、彼らもまた男女平等とか反植民地主義という近代的な価値を批判して登場してきている。時代の閉塞状況の中で、左翼・リベラル的な主張の中にも萱野なんとかという若い人からナショナルな主張がでてきている。

こんな時代だからこそ、このような研究もまた注目される必要があるのかと、いま思った。ちょっと遅い気づきだと自分でも思うけど。


P.S.
このメモでは言及しなかったが、始めのほうにある武蔵野美大と多摩美大の前身である帝国美術学校の画学生のアヴァンギャルドの作品が面白い。そう言えば、針生さんだったか誰だったかと無言館の話をしたときに、東京芸大(東京美術学校)じゃない絵に面白いものがたくさんあるのに、というような話をしていたのを思い出した。


P.S.2
それにしても長いメモだ。もう読み返す気力もない。


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2009/09/09 03:41

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