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zoom RSS [ 反貧困ー「すべり台社会」からの脱出]読書メモ

<<   作成日時 : 2009/09/11 07:28   >>

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反貧困ー「すべり台社会」からの脱出
湯浅誠 岩波新書

ちょっと気になることがあったはずで、図書館で借りたのだが、気になったのがなんだったか忘れた。
あの有名な湯浅誠さんの少し前の本。この本、すごいと思うのは2008年4月にでてるのに12月には7刷になっている。今はもっといってるだろう。

最初のほうにある貧困の実態をまず湯浅さんは紹介したかったはずだが、・・・。少し飛ばして。

湯浅さんはセンの貧困論を援用している。そして、「潜在能力」概念を説明し、その流れでセンのdevelopment概念にも言及し、以下のように肯定的に引用している。
===
・・「開発/発展(development)」とは、単に所得を挙げるだけでなく、望ましいさまざまな生活状態(機能)に近づくための自由度(潜在能力)を上げていくことだ、とセンはいう。「開発/発展」とは、人々が享受するさまざまの本質的自由を増大させるプロセスである」「開発/発展の目的は不自由の主要な原因を取り除くことだ。貧困と圧政、経済的機会の乏しさと制度に由来する社会的窮乏、公的な施設の欠如、抑圧的国家の不寛容あるいは過剰行為などである」と。77-78p
===
初めから、本論から外れてしまうのだが、このセンの開発観をどう見るべきだろうか。湯浅さんは日本国内の貧困問題の専門家なので、この「開発/発展」」という言葉に関する問題に、あまりねじれなく対応できるのかもしれないが、開発志向、開発主義が世界中で何をもたらしたのか、と考えると、このセンの定義に無条件に賛成するわけにはいかない。開発や発展が必要というロジックで多くの農村が無残なまでに壊されてきた。とりあえず、開発は「もうちょっと」という感じだ。

だが、センのいわゆる「潜在能力アプローチは」慧眼だと思う。そして、それに日本語で「溜め」と名づけた湯浅さんも。溜めという発想が先だったのかセンの潜在能力を想定して「溜め」という日本語を使うようになったのかわからないが、この本ではこんな風に書いている。
===
 私自身は、ホームレス状態にある人たちや生活困窮状態にある人たちの相談を受け、一緒に活動する経験の中で、センの「潜在能力」に相当する概念を”溜め”という言葉で語ってきた。78p
===

湯浅さんのいう「溜め」とセンの「潜在能力」、確かにほぼ重なっていると思うのだが、どこかずれているところもあるように直感する。しかし、どこがずれているのか現状ではうまく説明できない。

そういえば、「『"溜め"のある社会をめざして』(川本隆史さん)メモ 」
http://tu-ta.at.webry.info/200907/article_15.html で、
===
湯浅誠さんの『反貧困』をまだ読んでいないので、<「溜め」=センのcapability>というのが湯浅さん自身の発見なのか、川本さんによる名づけなのかわからない(ぼくの記憶では、『貧困襲来』の"溜め"の記述にはセンの紹介はなかったような・・・)が、「あっ、そうか」と思う。しかし、同時に川本さんがここで紹介している「生き方の幅」(capability)というのも潜在能力とか言われるよりずっとわかりやすい。
===
と書いた。『反貧困』をやっと読んで湯浅さん自身がセンの潜在能力概念と自らの「溜め」概念を重ね合わせていることはわかった。その重ならない部分がぼくはとても気になる。


次に別の話

見えない貧困と見えない”溜め”

貧困は見えにくい。しっかり見ようとしないものには見えない。それは日本だけではないという。経済的に相対的に上位にあると、「公共の場所で見かけても、自分が何を見ているのか自覚することはほとんどない」という。そして、隠される。政府主催の国際イベントに伴う野宿者の排除。それを可視化していくのが貧困問題解決の第一歩であり、それがこの本の最大の執筆動機だと湯浅さんは書く。事実、具体的な貧困のいくつかの事例からこの本は始まっている。そして、従来の政府もそれについてのちゃんとした調査をしようとしていない。


次に貧困も見えないが、「溜め」も見えないという話が続く。。
ここに具体的な「溜め」の話が紹介されている。

毎日ネットカフェに泊ることもできず、週に2,3日は夜通し歩いて、始発電車に乗り2,3往復して仮眠を取っている34歳の男性。日雇い派遣の条件が悪化し、月に8万ほどの収入。人に連れられて、相談に来たのだが、「自分は今のままでいいんスよ」といっていたという。これを湯浅さんは典型的な「自分自身からの排除」と呼ぶ。自己責任論者からすれば、「じゃあ、勝手にすれば」となるのか。その彼に「このままの暮らしを続けるつもりですか」と聞くと、「それは嫌だな」と答えたという。ハローワークに通って、面接に行って、しゃきしゃきとした受け答えをする体力が残っているか、と続けると、しばらく考えて「ないッスね」との答え。そういうやりとりの中で、「自分は今のままでいいんスよ」と答えていた人の気持ちは変わっていく。同行して、生活保護申請をし、アパート入居。

2ヵ月後に彼から、電話があり、警備の仕事を見つけたので身元引受人になってくれという依頼が来る。
彼は2ヶ月のアパート暮らしで「溜め」を作っていったのだった。「自分は今のままでいいんスよ」という人に「がんばれ」というだけでは何も解決しない。そういう条件(溜め)を整備していかなければならない。
そんな風に「溜め」が必要だという話もなかなか見えない話だ。

また、本来「溜め」を見るべき、種々の政策立案者や、広い意味での援助職(教員、CW,SW,ケアマネなど)が「溜め」を見ようとしていない。「がんばればやれるはず」というケースワーカー。また、政府の再チャレンジ支援策も、その「溜め」を作る必要性を認識していないから失敗しているようだ。

まず、政府として、しっかりした貧困の調査を行うべきだと湯浅さんは主張する。それが実は行われていない。ベーシックインカム入門で山森さんが書いていたように、生活保護を受けられるにもかかわらず受けていない人が75%もいるという現実を見たくないのか、と思ってしまう。
それらの人が全員生活保護を申請したら、生活保護の予算はすぐに底をつく。


そして、湯浅さんは「溜め」を増やすために、まず、第一義的には政治の責任で労働市場の規制や、失業給付の拡大、国保・国民年金の見直し、生保の運用を改めることなどを提起する。

それは同時に、「社会」の仕事として、それが行われなければならないという。(「社会」の衰退については市野川さんの『社会』(岩波2006)を参照、とのこと)


また、居場所作りの重要性も提起されている。それは質より量で、10人から20人程度が適正規模で、数多くのそれが必要とされている。しかし、それをどう作っていくのか、そんなに容易ではないだろう。

「まったり」「だらだら」とした居場所が必要だというのだが、どのようにそれは準備できるだろう。闘うことを強制されるのではなく、闘わなくてもいい「まった〜り」できる場所。居ることが苦にならない場所。だらだらできる場所。それが「溜め」につながるという。

その費用をどうするか、どのように維持するか、「もやい」はひとつのモデルにはなるかもしれないが、ハードルはそんなに低くないようにも思う。


最後のほうで、湯浅さんは「障害の社会モデル」を参照して、「貧困の社会モデル」を提起する。野宿やネットカフェで生活しなければならない現状は、本人が問題をかかえているのではなく、「社会」の側が彼や彼女に暮らす場所を提供できていない問題として、とらえられなければならないという。「社会モデル」がこんな風に普遍化できるわけだ。

現状であまりにも個人の問題として語られすぎている。個人の自己努力の不足、力量の不足、コミュニケーション能力のなさ、などなど。再チャレンジという問題の立て方も、そっちに傾きすぎているように思う。「社会」の側が彼や彼女が『溜め』をつくれるようにすることが、まず問われているのに。

もちろん、個人の側の問題がまったく捨象されていいわけではない。それはそれとして、存在する。「社会モデル」ですべて解けるわけではないということも「障害の社会モデル」をめぐる議論ですでに提出されている議論だ。そう、障害学はある意味、普遍的な貧困問題への見取り図も提供しているようにも思える。

「障害の社会モデル」から障害者の問題だけでなく、現在起きている多くのマイノリティの問題を照射する視点が得られるように思う。北と南の問題でも、ここから得られる視点があるように思う。

また、この障害の社会モデルという視点を、湯浅さんはセンの潜在能力アプローチとも重ねている。そういう見方もあったのかと思う。

そして、この本の結語部分で湯浅さんはこんな風に書いている。
===
 貧困問題は「ある」か「ない」かの勝負だと述べた。岩田正美氏が指摘していたように、貧困とは常に「再発見」されるべきものである。私たち市民には、お金もなければ権力もない。しかし、私たちは、日々の生活と活動を通じて、貧困が今ここに「ある」ことを知っている。貧困問題に関しては、それこそが最大の強みである。貧困は自己責任ではない。貧困は、社会と政治に対する問いかけである。その問いを、正面から受け止め、逃げずに立ち向かう強さをもった社会を作りたい。
 過ちを正すのに、遅すぎるということはない。私たちは、この社会に生きている。この社会を変えていく以外に、「すべり台社会」から脱出する方途はない。
===



「あとがき」にも興味深い指摘がある。湯浅さんは「もはやどこかで微修正を施すだけではとうてい追いつかない」「大きな転換を迫られていると感じる」「人間が人間らしく再生産される社会を」と書く。

湯浅さんは「問われているのは”国の形”」とダブルコーテーションをつけて書いているので、このダブルコーテーションに意味があるとは思うのだが、ここまで言ってしまうと、問われていることは”国の形”を超えた話だ。「人間が人間らしく再生産される」ことは名目としては言われてきたかも知れないが、現実にはそれよりも「効率の追求」「利潤の追求」「GDPの拡大」「開発・発展」が優先されてきた近代の世界のありかた自体が問われている。

それは壮大なプロジェクトだが、「あとがき」の最後に彼が書いているように「あっと驚くウルトラの近道はない。それぞれのやっていることをもう一歩進め、広げることだけが、反貧困の次の展望を可能にし、社会を強くする」、反貧困の展望だけでなく、近代の価値の否定的な側面を肯定的に裏返していくためにも、そのような地道な努力が必要なのだろう。



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雇用の問題は難しい。でも底辺にあるのは道徳教育の崩壊?ねじ一本閉めるのに、責任を持つことはいまさらないかも知れないが、先のことを見据えて今を生きていかないと・・・。そんな道徳(倫理観)を日本人はどうやって手に入れるのだろう?宗教もないし、道徳というと馬鹿にする風潮あるし・・・
Mushuka
2009/09/14 22:56
遅れたレスポンスですみません。
もう、読まれていないかもしれませんが。

雇用と道徳教育の連関については、よくわかりません。

ただ、湯浅さんが書いているように、儲かればそれでいいというような風潮にあまりにも傾きすぎ、自己責任論ばかりが強調される社会で「人間が人間らしく再生産される」社会の仕組みをどう作っていくか、社会全体が大きなパラダイムチェンジを求まられているのであり、倫理(道徳)観はそれに付随してくるのではないかと思います。
tu-ta
2009/10/13 03:23

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