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zoom RSS 「障害学の射程について」へのレスポンス

<<   作成日時 : 2010/01/31 03:01   >>

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先日アップした「障害学の射程について」
http://tu-ta.at.webry.info/201001/article_15.html
に二人からレスポンスをもらった。真摯なレスポンスはすごくうれしい。どうもありがとうございます。お二方。

まずは、ブログのコメント欄にもらったjulianさんからのレスポンス
ここに再掲
====
とにかく、働きたい人には働かせてください。やりたいことが出来るようになるように。ただ、生きているだけのことで、云々は・・ちょっと・・
そこは、当たり前にしてもらえるような学問であってほしいと思います。本当に、そこの部分はもっと拘束力のある学問であってもいいのでは・・
みんなが、ひもじいときも、分かち合えることが連帯と考えます。そのメンバーになれる重度の方はきっといると思われます。(社会的に活動できるということで・・)
私は、浅はかで思いもよらぬ考えはありませんが、人間の社会というものが、歴史的にそう賢いとは言えないという人がいる以上は、障害学という分野できちんと論を持っていただきたいと思います。
生きやすい社会は、女性にとって平和で産み育てることが出来る社会だと思いますので、これからもよろしくご精進下さいますよう、お願い申しあげます。
====


julianさま

ぼくはこんな風に書いたのですが、実は「働け」主義者だったりもします。働きたい人は働く権利があるというのは当然ですし、ALSでロックトインステイトの人も働くことができるんじゃないかと思ったりもしています。そう、障害者就労にかかわる職場で四半世紀以上も働いていてます。自立支援法の成立と同時に旧法施設となった「福祉工場」。この話はこのブログでも何回か書いているので、興味があればブログ内検索をかけてみてください。

ベーシック・インカム派の人には批判されたりもするのですが、基本的に権利であると同時に義務である労働という考え方からなかなか離れられなかったりもします。その人の要介護度が計れるのであれば、労働にかかわるにあたって、どれだけの合理的配慮が必要かという度合いも測れるのじゃないかと思うのです。四半世紀も障害者と呼ばれる人といっしょに働いてきて、「働かない権利」っていうのはずるい部分があるようにも感じています。

そういう意味では、今回書いた「障害学の射程について」という文章は、ちょっと誤解を生みやすい書き方だったと思います。おっしゃられるように、「生きやすい社会」とは「平和で産み育てることが出来る社会だ」とぼくも思います。それは男であろうと女であろうと。

コメントを書いていただいたおかげで、自分の文章の不十分さに気づくことができました。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。また、コメントしてください。


====


そして、もう一つのコメントも興味深かった。これは環境・平和研究会のMLでのレスポンス。
転載してもいいですかという問いに「恐縮です」というレスポンスをもらったので、以下に転載。それへのぼくのレスポンスと再度のレスポンスも
固有名詞や改行位置など一部改変

==以下、転載==
**のlouis-rainです。

大学が福祉系ということで、「障害学の射程についてのメモ」を興味深く読ませていただきました。拝読させていただいた感想というか、感じたことをレスしたいと思います。


平素、ケアワーカーや施設運営者等と話する機会が多いのですが、感じることは私たちが障害者をあまりにもひととくくりにし過ぎているということです。

重度の身体障害でない限り、知的や精神に関しては彼らは生産者として生きることは可能です。しかし、第2次・3次産業においては彼らを労働力として扱うには、彼らにあった環境や訓練プロセスを必要としており、それらを用意するのに現代社会では(健常者に比べて)非常に高いコストとなってしまいます。

ですが、過去、ルーチンを得意とし、変化のない日々に安心感をもって暮らすことのできる彼らの大部分は村落社会のなかでは確かに有用な労働力でした。もちろん、彼らの多くは「安い労働力」として扱われていたわけですが、自らの手で生産し、消費する主体でありました。

しかし、「安い労働力」として扱われること自体が、現代の人権思想に反することとなっており、彼らの生活を「保障」する一方で彼らを生産者として扱わないようにする装置としても働いています。

単に資本の論理に基づけば、安い労働力として彼らは扱えるわけですが、そうならないのは背景にある人権思想なのだと思われます。そして、その人権思想がゆえに、「彼ら=『存在・生存そのものに意義がある』人々」と位置づけられてしまうと考えられます。

拝読して感じたのは、障害学を考える上では、単に資本主義が障害者を疎外しているという視点のみならず、障害者の疎外に現代の人権思想(社会が「障害者」にどのような役割を付与しているか)ということについても考えていく必要があるのではないかということでした。

==louis-rainさんからの最初のレスポンスここまで==

==それへのぼくの応答==
コメントありがとうございます。

このブログ記事、いろいろなMLに投げて紹介したので、いつもよりたくさん読まれてはいるのですが、コメントはブログ本体についたのに続いて二つ目です。

コメント、すごくうれしいです。ありがとうございました。

先日の研究会、あいさつもできなくて、すみませんでした。

さて、

==louis-rainさんのレスポンスから最初の引用==
> 平素、ケアワーカーや施設運営者等と話する機会が多いのですが、感じることは私たちが障害者をあまりにもひととくくりにし過ぎているということです。
>
> 重度の身体障害でない限り、知的や精神に関しては彼らは生産者として生きることは可能です。しかし、第2次・3次産業においては彼らを労働力として扱うには、彼らにあった環境や訓練プロセスを必要としており、それらを用意するのに現代社会では(健常者に比べて)非常に高いコストとなってしまいます。
==レスからの最初の引用ここまで==

「障害者をあまりにもひととくくりにし過ぎ」という部分、ちょっとは気をつけたつもりですが、自戒しなければならないですね。
実はぼくがもう4半世紀以上も働いているのが福祉工場です。
これが印刷工場で障害者が多いDTP部門と少ない印刷製本部門があり、ぼくはその印刷製本部門か、どちらでもない生産管理部門にいたのですが、3年位前からDTP部門で働いています。

だから、ここに書かれていることはだいたいわかるような気がするのですが、「障害者が労働者になる」ということも一般化できない部分で、はコストがかかる場合とかからない場合があります。ま、誰を障害者と呼ぶかという話もつながるのですが。

==louis-rainさんのレスポンスから二つ目の引用==
> ですが、過去、ルーチンを得意とし、変化のない日々に安心感をもって暮らすことのできる彼らの大部分は村落社会のなかでは確かに有用な労働力でした。もちろん、彼らの多くは「安い労働力」として扱われていたわけですが、自らの手で生産し、消費する主体でありました。
==二つ目の最初の引用ここまで==

この過去がどれくらいの時期を指すのか、微妙なのですが、ここもまた、一般化できない話しだなぁと感じました。多くの障害者が「安い労働力」としてさえ扱われなかった時代も長くあったように思うのです。

==louis-rainさんのレスポンスから三つ目の引用==
> しかし、「安い労働力」として扱われること自体が、現代の人権思想に反することとなっており、彼らの生活を「保障」する一方で彼らを生産者として扱わないようにする装置としても働いています。
==三つ目の最初の引用ここまで==

まず、現状でも作業所や就労継続施設などでは、いまだに極端に安い労働力として、労働基本権も認められないまま、働かされているという現状があります。

そもそも「障害者」というカテゴリーが作られたのは、救貧の中で「ただ、働かない」とされる人とわけるためでした。そのことも考え合わせたとき、ここにはちょっと違和感が残りました。

でも「生産者として扱わないようにする装置」というのは留意すべき話ですね。


==louis-rainさんのレスポンスから四つ目の引用==
> 単に資本の論理に基づけば、安い労働力として彼らは扱えるわけですが、そうならないのは背景にある人権思想なのだと思われます。
> そして、その人権思想がゆえに、「彼ら=『存在・生存そのものに意義がある』人々」と位置づけられてしまうと考えられます。
==四つ目の最初の引用ここまで==

ここにぼくの文章の穴があったと、このコメントを読んで感じました。
この指摘に本当に感謝します。とりわけ<「彼ら=『存在・生存そのものに意義がある』人々」と位置づけられてしまう>という部分。
ぼくの意識としては当然にも、すべての人の『存在・生存そのものに意義がある』というのを前提にすべきという話ではあったのですが、ぼくの書き方は、上記のように解釈されて当然という書き方になってますね。
そうじゃなくて、すべての生存そのものに意義があるというのを、クリアにできる書き方を考えたいと思います。

==louis-rainさんのレスポンスから五つ目の引用==
> 拝読して感じたのは、障害学を考える上では、単に資本主義が障害者を疎外しているという視点のみならず、障害者の疎外に現代の人権思想(社会が「障害者」にどのような役割を付与しているか)ということについても考えていく必要があるのではないかということでした。
==五つ目の最初の引用ここまで==

これ、興味深い観点だと思います。
ここも、もう少し考えてみたいと思います。

この話って、メキシコのストリートチルドレンの文脈で考えるとどうなるのか、そのあたりもお聞きしたいなぁと感じました。


========
==以下、louis-rainさんからの二つ目のレスポンス==


> > 平素、ケアワーカーや施設運営者等と話する
> > 機会が多いのですが、感じることは私たちが
> > 障害者をあまりにもひととくくりにし過ぎて
> > いるということです。

> 「障害者をあまりにもひととくくりにし過ぎ」と
> いう部分、ちょっとは気をつけたつもりですが、
> 自戒しなければならないですね。

私自身にも言えることです。

> 「障害者が労働者になる」ということも一般化で
> きない部分で、はコストがかかる場合とかからな
> い場合があります。ま、誰を障害者と呼ぶかとい
>う話もつながるのですが。

そうなんですよね。
障害の程度や種類によって、かなりの幅(健常者とほぼ変わらない能力を有する方から寝たきり+イロウの全介助という方ETC…まで)がありますし、権利を主張できる方々や代弁者がいる方々とそうでない方々などによって「障害者」といして扱われるか否かも(説明しにくいのですが、ゲイリブが盛んに行われたおかげでゲイはある一定の社会的地位を確立しましたが、レズはゲイほどの地位を確立できていないのと同じようなことが障害者にも当てはまると思っています)違ってきますよね。


> > ですが、過去、ルーチンを得意とし、変化の
> > ない日々に安心感をもって暮らすことのでき
> > る彼らの大部分は村落社会のなかでは確かに
> > くは「安い労働力」有用な労働力でした。も
> > ちろん、彼らの多として扱われていたわけで
> > すが、自らの手で生産し、消費する主体であ
> > りました。
>
> この過去がどれくらいの時期を指すのか、微妙
> なのですが、ここもまた、一般化できない話し
> だなぁと感じました。多くの障害者が「安い労
> 働力」としてさえ扱われなかった時代も長くあっ
> たように思うのです。


想定していたのは、特に産業革命以前です。
盲目の女性がゴゼとして生きたり、精神障害者が「狐にのっとられた」からしばらく山に行った(山に連れて行かれて放置した)などといわれながらも社会成員として扱われていた(戦後までこの傾向は残っていたけれど)時代を想定していました。

まぁ、現在の価値観で「人間的に扱われている」かといわれると…
そうではないのですが。

> > しかし、「安い労働力」として扱われること
> > 自体が、現代の人権思想に反することとなっ
> > ており、彼らの生活を「保障」する一方で彼
> > らを生産者として扱わないようにする装置と
> > しても働いています。

>
> まず、現状でも作業所や就労継続施設などでは、
> いまだに極端に安い労働力として、労働基本権
> も認められないまま、働かされているという現
> 状があります。

「働かされている」という表現には、現代社会が(少なくとも彼らを支援する側の人間は)彼らを安い労働力として扱うことはおかしいということを含んでいるのではないでしょうか。


でも、なんていうんでしょうかねぇ。
作業所とかを作った親や知的の方の親なんかを見ると、自立させないように(社会成員として扱われないように)していて(おそらく、彼らをとりまく社会環境が整備されていないからでしょうが)、そのために労働基本権などの整備が遅れているという側面があるように感じてならないんですよね…



> そもそも「障害者」というカテゴリーが作られたの
> は、救貧の中で「ただ、働かない」とされる人とわ
> けるためでした。そのことも考え合わせたとき、こ
> こにはちょっと違和感が残りました。

わかるんです。でも近代的な社会が障害者を「働かせない」ようにしているということも確かで…救貧という名のもとのデスパワでもあったと思うんです。



> でも「生産者として扱わないようにする装置」という
> のは留意すべき話ですね。
> > 単に資本の論理に基づけば、安い労働力として彼ら
> > は扱えるわけですが、そうならないのは背景にある
> > 人権思想なのだと思われます。そして、その人権思
> > 想がゆえに、「彼ら=『存在・生存そのものに意義
> > がある』人々」と位置づけられてしまうと考えられ
> > ます。

> ここにぼくの文章の穴があったと、このコメントを読
> んで感じました。この指摘に本当に感謝します。とりわけ
> <「彼ら=『存在・生存そのものに意義がある』人々」
> と位置づけられてしまう>という部分
> ぼくの意識としては当然にも、すべての人の『存在・生
> 存そのものに意義がある』というのを前提にすべきとい
> う話ではあったのですが、ぼくの書き方は、上記のよう
> に解釈されて当然という書き方になってますね。
> そうじゃなくて、すべての生存そのものに意義があると
> いうのを、クリアにできる書き方を考えたいと思います。

↑難しいことですね。生存そのものに意義がある…

そんなことを、とても大事なことなのですが、私たちは(少なくとも私は)普段意識して生きてなんかいないように思うんです。
流されて、たどり着いたところに根を下ろそうともがきつつも、そうできず、また流されて、流れ流れた先でも流される。
あるいは、岩盤の上にへばりつき、動くこともなく動かされることもなく、根っこが絡まったその場所で自生する。
ただ、日々を、過ごしている。ただ、生きている。
そのことに価値を見出すようなことをせずに。

私たちにとって、すくなくとも私にとってその生存の意義を問うということはとても難しいです。
そんな難しいことを考えて生きていけるtu-taさんはすごいです。
うまく表現できないんですが、モノを書く方なんですね(当然なのですが)。
私のような「飯喰うて、糞して、寝るだけの人間」とはちがうんだなぁ、なんてわけのわからない感想を…畑で育った私は持ってしまうのでした。


> この話って、メキシコのストリートチルドレン
> の文脈で考えるとどうなるのか、そのあたりも
> お聞きしたいなぁと感じました。

うーん。
ふわふわと漂いながら、居心地のいい場所をみつけて「飯喰うて、糞して、寝る」。彼らはとても私に似ていると思います。
いや…私が、彼らに似てきたのかもしれません。
難しいことは考えず、ただ、感じるがままに生きて、死ぬ。
そんな生き方をしているのだと思うのですが、そういう生き方をするとなぜか後ろめたい気持ちにさせられてしまうか、見えない存在になるのです…

近代以前、路上で暮らす子どもたちは、人買いにさらわれたり、行きかう人の後をおって行って、あるいは、その場所でひっそりと生きていくことができたけれど、今、そういうことは許されない。

良いか悪いかわからないけれど、近代的な価値の押し付けが、路上という居心地の良い場所を彼らから奪っているのもある側面で事実だと…(本当に、路上に溶け込んだとき、とても居心地がいいんです。
そして、居心地のいい場所を探すと子どもたちがいるんです。でも、ときどき警察とかに邪魔されてしまって、ずっと入れないんですよね;;)

わけのわからないコメントですみません。

> P.S.
> このコメント、ぼくのブログでも紹介したいのですが、どうですか?
> louis-rainさんにしたほうがいいでしょうか?

あ、そんな。恐縮です。


追記:
レスが遅れました。メールは読んでいたのですが…娘が風邪をひき、病院につれてくなどで返信できませんでした。ごめんなさい。
難しいことは考えられませんが、これからもよろしくお願いいたします。


==louis-rainさんからの二つ目のレスポンスここまで==

「生存そのものに意義がある」なんてことを考えざるをえないのは、かなり追い込まれた状況じゃないかと思います。ぼくだって、日常的にはほとんどそんなこと考えません(笑)。っていうか、「なんで、おまえみたいな奴がいるんだよ」とか条件反射的に思ったりすることのほうが多いかも。

ぼくは路上で生活するこどもたちとちゃんと向き合ったことがないのですが、彼女や彼といっしょにいて居心地のいい場所を共有できたら、見えてくるものがあるのかなぁと思ったりもします。そういう「生きてることそれ自体の素敵さ」みたいなところからしか何も始まらないのかなぁと思うわけです。

ともあれlouis-rainさん、大変な状況なのにレスポンスありがとう。


P.S.
アップロードしようとして、大切なことを書き忘れていることを思い出しました。人権思想と障害者の疎外、抑圧の関係。人権思想の中にも「自由の拡大」というようなリベラルな価値と、人が類としての共同性を尊重するというようなコミュニタリアン的な価値が共存していると思います。前者の価値の多くは資本主義の価値観とも合致することが多いのですが、後者の価値は資本主義の価値観と相容れないところが多いように感じています。そんな風に人権思想というのも分けて考えたとき、見えてくるものがあるように思うのです。




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自分で書いてて違うと思ったこと http://tu-ta.at.webry.info/201001/article_19.html から以下に引用 ==== ベーシック・インカム派の人には批判されたりもするのですが、基本的に権利であると同時に義務である労働という考え方からなかなか離れられなかったりもします。その人の要介護度が計れるのであれば、労働にかかわるにあたって、どれだけの合理的配慮が必要かという度合いも測れるのじゃないかと思うのです。四半世紀も障害者と呼ばれる人といっしょに働い... ...続きを見る
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