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<<   作成日時 : 2010/02/24 05:09   >>

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「清浄なる精神」(第六章)メモ その1

前回のメモ
「清浄なる精神」(第五章)メモ 信仰について
http://tu-ta.at.webry.info/201002/article_17.html
の続き。


第六章 戦争の社会史
 冒頭の節で、「平凡」が俎上に上げられる。「平凡が一番」という民衆の精神は「貧しい生き方ではなく、無事な豊かさを感じながら生きる、ということだ」と内山さんは書く。

その最後の段落ではこんな風に書かれている。
===
近代日本はなぜ戦争の歴史を伴ったのかという問題がいまだに十分には解明も清算もされていないと私は思っている。という。「平凡」が何よりという民衆の精神はどのような過程で否定され、「有事」に生ける人間を理想視する精神の転換は、どのようにしてつくられていったのか。
===

そして、「今もなお国民が団結して経済的、政治的勝利をえなければならないという空気のなかに、まきこまれている」と書く。おそらくこれは極度にナショナリスティックだった小泉末期から安倍首相、あるいは麻生首相の時代だろうか。このような雰囲気が容易に生まれる背景に、近代日本が戦争の歴史を伴ったことの解明も清算もされてない現実があるということだ。

それにしても、《「有事」に生ける人間を理想視する精神の転換》と書かれてドキッとする。有事」に生きた『龍馬伝』とか、つい見て、惹かれちゃうものね。しかし、有事」に生きたヒーローにあこがれるって、けっこう普通なんじゃないかと思うんだけど、そのことと《「平凡」が何よりという民衆の精神》は両立するんじゃないだろうか。そして、『平凡でいいじゃん』という民衆の精神はそんなに廃れていないようにも思うのだが、どうなんだろう。


それから明解だったのが、内山さんの道徳心に関する記述。
===
「戦前の日本人は戦後の人間より礼儀正しく、道徳心も高かった」。私たちはときどきこんな話を耳にすることがある。だが、そんなことはないだろう。なぜなら、「礼儀正しく、道徳心も高い」人間が、アジアへの侵略をおこない、「戦勝」に酔いしれるなど考えられないからである。
===
確かに戦前のほうが道徳心が高かったというわけではないと思う。

しかし、同時に戦後の人間が「侵略の戦勝に酔いしれていない」とか「大地震のときに朝鮮人を虐殺しない」からといって道徳心が高いというわけでもないのだと思う。いまだって、状況が変われば容易に外国人を排斥したりするのが人間だ。

そして、内山さんは
===
もしも戦前の人々が高い「道徳」をもっていたなら、敗戦後にもっとしっかり、戦争を起こした原因や戦争責任の所在を追究していたことだろう。それは自分たちに都合の悪いことは、うやむやにしてしまう程度の「道徳」だったのである。
===
と厳しいのだが、日本の民衆の精神ってそういうところがあるんじゃないかとも思う。

ただ、ここに続く部分は肯定できる部分だから、ちょっと困る。ここに続く部分で内山さんは「国家あってこその人間という考え方を、不必要とするような人間の生き方をみつけださないと、かたちを変えて繰り返し国家主義は芽生えてくるだろう」と書いている。いいかげんなところもある人間が「国家なんて…」と思えるようになること、それは困難を伴うけれども、可能なことだと思いたい。しかし、どうすればそれが可能になるのか。国民国家の限界がいわれて久しいが、それはグローバリゼーションとも手を携えて、衰退を感じさせない。EUが唯一の例外なのかもしれないが、その制度もまた国民国家を前提としているのではないか。もちろん、さまざまに従来、国家が持っていた権限はEUに継承されているが。つまり、そこで国民国家の機能は変わっているが、国民国家自体が衰退しているようには思えない。

ともあれ、前述の「芽生えてくるだろう」に続けて
==
強い国家めざして、自国の「勝利」に拍手する精神が、どこかで流れるつづけることになる。
==
これ、オリンピック期間中に読んでると感慨深い。

さらに、ここに続けて、この「立身出世」という節の結語として、こんな風に書かれている。
===
 そんな危険性を感じるとき、私は、自然や地域に絶対的な価値をみいだして生きてきた、かつての人々から学びたい気持ちになってくる。
===

 ここで内山さんが言いたいことはわかるような気がする。しかし、《強い国家めざして、自国の「勝利」に拍手する精神が、どこかで流れるつづける危険》に抵抗するものとして《自然や地域に絶対的な価値をみいだして生きてきた、かつての人々から学ぶ》こと、その二つを並べてみて、圧倒的に強力な前者と現状ではかなり弱弱しい後者、という風に感じてしまうのはぼくだけだろうか。もちろん、「自然や地域に絶対的な価値をみいだして生きてきた、かつての人々から学ぶこと」が無駄だとは思わない。それはとても大切なことだ。そのことで、ほうっておけば何らかの力でどんどん増長していくナショナルな感覚、強者のナショナリズムのようなものを一定程度相対化することは可能だろう。しかし、それだけでなんとかなるとも思えない。ここにはとても非対称な力関係があるように思う。

オリンピックなども利用しながら、どんどん刷り込まれていくナショナルな感覚に「オリンピック反対」とか「オリンピック見るな」という風に対抗軸を設定しても、それもかなり厳しいだろう。どこまで意識的に行われているかわからないが、メディアは全体重をかけてオリンピックを報道する。そして、人々はそこに引き込まれる。たしかにアフガンの悲惨な戦争のニュースを見るより、きれいなフィギアスケートとか、スキーやスノボの技を見ているほうが気はまぎれる。そして、そこに出場する日本人有力選手への応援に熱くなる。そんな見慣れた風景に異を唱えるとき、少数派を覚悟するしかないのかもしれない。

つまり、《自国の「勝利」に拍手する精神》はかなり自然なものとして受け入れられているわけだ。実際には同じパスポートをもっているという共通点しかなかったりするのだが、日本チームの選手の「勝利」に拍手する精神は培われていく。ここでのナショナルな感覚の醸成は、平和の祭典のためだけのもので、戦争に向かうナショナリズムとは明確に違うと、切り分けることが可能なのかどうか。そこにはかなり怪しい境界線しかないように思う。

ただ、そのあいまいな境界線が意識されていれば、それでいいのかもしれない。オリンピックに目くじら建てるのは大人気ないような気もする。でも、オリンピック漬けのマスメディアには何か言いたくなる。多くの視聴者の関心がそこにあるのか、あるいは、そこにあることを前提とするマスメディアがそのような状態を作り出しているのか。それとも、意識してそのような状態が準備されているのか。


第六章前半のメモここまで




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