今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 主に「共同体と個人」について

<<   作成日時 : 2010/02/25 07:21   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

「清浄なる精神」(第六章)メモ その2

前回のメモ
オリンピックとナショナルな感情などについて
「清浄なる精神」(第六章)メモ その1
http://tu-ta.at.webry.info/201002/article_23.html
の続き。

前回は冒頭の《「有事」の歴史》という節と5つのめの《立身出世》という節をナショナリズムという観点からとりあげた。

大事な観点が少し抜けていたと思うので補足。《「有事」の歴史》で内山さんは「有事」と「無事」を並べている。その無事とは共同の世界があってはじめて成り立つものだという。


2つめの《戦争の論理》の中にもいろいろ興味深い話はある。

武士が戦をしていた時代には敵味方関係なく死者を供養したという。それが近代になって正義は勝者に独占され、敗者は悪とされ、勝者が敗者を裁くようになった。そのわかりやすい例がが東京裁判だ。帝国主義国家同士の覇権をめぐる争いである日米戦争に関して「どちらにも正義がなかったというのに」と書かれている。

この東京裁判批判に続けて、靖国神社をいまのかたちのまま守ろうとする人の話がでてくる。彼らもまた東京裁判に疑問を抱く人々でもある。しかし、その靖国神社こそが勝者も敗者も供養した日本の伝統から離れて、戊辰戦争での勝者の霊だけを祀った神社だった。そういう意味で、「靖国神社は近代国家としての日本が生みだした神社であり、日本の伝統がつくりだしたものではない」ともいう。また、敗者が悪にされたという遺族のわりきれない気持ち、国家のために死んだのにという気持ちが靖国を支えているのだが、日本の伝統にあった「不慮の死を遂げたすべての霊を弔う」ということに反して、国家のための死を一段上に置きたい、国家のための死であるのに東京裁判では正義が不当に貶められているという意識とつながっている。

そして、内山さんは「私は国家が介在するあらゆる戦争を認めない」「その点では絶対平和主義者だ」という。これはけっこうラディカルな宣言ではある。しかし、同時に、「国家が介在する」という限定の背景には民衆による解放をもとめる戦争評価への保留も含まれているかもしれないと思う。つまり、民衆による解放を求める闘いが自らの国家を求めなければOKという風にも解釈できるのだが、これは深読みしすぎだろうか?

内山さんが「国家が介在するあらゆる戦争を認めない」理由は、人間も自然界のすべての生き物でも、あらゆるものを不慮の死に追い込みたくない、無事な死を迎えて欲しいという日本の民衆の伝統的な発想にもとづいていると書く。だとすれば民衆の解放のための戦争もまた否定されることになる。ここでの「国家が介在する」という限定的な形容が何をさしているのか、本当は不明のままだ。

3つめの《近代的日本人》という節では、近代社会は個人を基調とする社会であり、一人一人バラバラになって生きる社会、個人の尊厳を大事にするという理念でつくられた社会だという。

と同時にそれ以前にも個人は存在した。しかし、それは支配階級である貴族に限定された話で、普通の民衆はおそらくそうではなかった。自然とともに、共同体とともに人間は存在していたと、内山さんは書く。

個人を生み出したのは近代ではなく、自然や共同体から離れた人間が、個人という心性をつくりだしたという主張だ。

そして、この節の結語として、書かれているのは以下。
====
 近代国家の形成によって、「みんな」のために生きることが国家のために生きることに変わり、他方で個人の社会の成立は、自分が損しないように生きることを最優先する人々を生みだす。そしてその両面をとおして、戦前の戦争体制は確立していった。それが近代以降の時代の現実である。
====

この節を読んで、「個人」が深く染み付いている自分に気づく。しかし、それは否定されるべきことだけではないように思う。

自然や共同体から離れた人間が生みだしたという個人について、内山さんはこんな風に書く。「その個人は、自分を何よりも大事にする。自分を守ることを、である」

自分が大事でいいじゃん、と思うのだ。自分を大事に思えないで誰か他者を大事だと感じることができるだろうか。まず、何よりも大事なのは自分、ということを本当に超えることなどできるだろうか。ちなみに誤解のないように書いておくと、内山さんは「みんなと共に生きる」というときの「みんな」が近代以降、「自然や共同体というみんな」から「国家の一員としてのみんな」に変革したと書く。それにしてもだ。「自分より国家が大事」というのが薄気味悪いのは前提の話だが、「自分より自然や共同体が大事」というようなことは、ぼくにはなかなか想像できないし、そんなところに戻れるとは思えないなぁ。

そう、これもバランスの問題なのだと思う。近代だってうまく折り合わなければ生きにくい社会でもある。何よりもすごく大切な自分がいるのだが、生きていくうえで折り合わなければならない現実は多々あり、また、同時に自分と同じくらい大切な、親密圏を形成する他者もいる。それは多くの場合、いわゆる家族だったりするのだろうが、別に法的な婚姻関係とか血縁関係がどうしても必要なわけではない。血や法律に縛られた親密圏だけでない多様な親密圏がつくられるべきだと思う。そういう「個人」の多様性を内山さんはどう考えるのだろう。

内山さんは共同体とともにあった伝統的な日本の民衆を持ち上げる。確かにそこには否定されるべきものだけでなく、守りたいものもあると思う。しかし、これからの共同体は違う質をもつことも必要なのではないか。自分(あるいは個人)と共同体の関係は、これまでのどちらか一方が偏重されるようなあり方を超えて、新しいものとして構想しなおされなければならないものとして存在しているように思う。


第六章の読書メモが終わらない。まだ続く。




上記の記事が「面白いかも」って思ったら、この下にある「人気blogランキングへ」というのをクリックしてください。
人気blogランキングへ

クリックしてくれた人数のランキングです。クリックするとランキングのサイトに飛び、うんざりするような排外主義ブログのタイトルの山を見ることになります。こんなランキングに登録するバカバカしさを感じないわけでもないんですが、・・・
でも、クリックしてもらえるとうれしかったりもします。

人気blogランキングへ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
「清浄なる精神」(第六章)メモ その3 近代を超えるために
前回のメモ 主に「共同体と個人」について 「清浄なる精神」(第六章)メモ その2 http://tu-ta.at.webry.info/201002/article_24.html の続き。 ...続きを見る
今日、考えたこと
2010/03/13 21:50

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
主に「共同体と個人」について 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる