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zoom RSS 「アートという罠:アートではなく」(小沢健二)について (追記あり)

<<   作成日時 : 2010/02/10 06:01   >>

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「11時10分からは、小沢健二のSkypeセッション」
http://takaoka.tumblr.com/post/355865586/11-10-skype
というのを読んだ。面白かった。ちょっと考えた。まず引用。


==以下、引用==
(略)
以下の記述は、記憶によるもので、あいまいな点が多々ありますし、小沢さんの言葉ではなく、私が自分なりに解釈、要約して書いている部分もあるので、誤解や間違っている部分があるかもしれないことを念頭にお読みください。

小沢さんは、これから自分の語ることは誰か特定の人を攻撃するものではないので誤解しないでほしいと何度も断った上で、「アートという罠:アートではなく」という講演を開始されました。

小沢さんが取り上げたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか。」という問題です。

行政的にはその答えは明瞭で、

第一に、ローカル経済を活性化させるためであり、

第二に、職を作るためであり、

第三に、セルフ・エスティームを高くするためであり、

第四に、(精神的に)人を健康にするためであり、

第五に、個人に競争力をつけさせるためであり、

第六に、再犯を防止するため

なのですが、小沢さんはこういったアート政策が、実は新自由主義、ネオリベラリズムの息のかかったプログラムそのものであると指摘されました。

ネオリベラリズムとは、簡単にいうと、人びとを激烈な競争に巻き込んで、優勝劣敗、弱肉強食のジャングルの法則を貫徹し、社会を一部の大金持ちと、残りの貧乏人に分断し、様々な格差が拡大することをもって良しとするような主義・主張です。

勝ち組の新自由主義者たちは、アートを媒介にして、貧しい人たちが暴動を起こさないよう社会の中に取り込もうとします。こっち側に入れてあげるよ、といった彼らの傲慢さは、ソーシャル・インクルージョンとでも言えば、何かカッコよく今風に響くから不思議です。

なぜ、ソーシャル・インクルージョンをネオ・リベラリストたちには必要とするのでしょうか。端的に言えばそれは、暴動を抑え、革命を阻止するためです。そんなこと「野蛮」なことを、夢にも思わない人間を作り出すためです。

(略)

「企業的な社会、セラピー的な社会」で小沢さんは、セラピストの前で自らを語ることは、実は「灰色」=システムが用意した一定のヒエラルキーの下に、「あるべき自分」を位置づけて、希望を失っていくプロセスなのだと批判していました。

小沢さんは今回の講演で、同じことがイギリスのコミュニティアートにも起きているといいます。

セラピストが皆、気持ち悪いくらい落ち着いた低い声で、その患者たちをシステム内に柔らかく取り込むように、コミュニティアートも、誰にでも受け入れられるような、丸っこく優しくゆるーいアートを媒介にして、貧しい人達が「暴発」しないよう、その力、希望をソフトに去勢して、システム内に取り込んでいる、と批判しているのです。

イギリスではソーシャル・インクルージョンを目的にすると企画書に書けば、補助金が比較的容易に降りるということもあって、この言葉が大氾濫しているそうです。

そして、実際に許可して一年で700億円もの金を分配している男は、アートのことなど何も分からない小役人で、アートを通じて、貧乏人の心に野心を高めさせ、燃えたぎらせ、優秀さへの野望を常に胸に抱いて他人を出し抜こうとする嗜好など、ネオ・リベラリストたちが好む欲望を植えつけることをアート政策の目標にしているのです。

小沢さんは、こうしたイギリスの取り組みが「コピペ」されて実施されたのが、大阪ではないか。世界と地域はつながっているのだと主張されます。

The Economistとかいったネオリベの雑誌を好んで読み、「アーツとビジネスの融合した創造性豊かな都市をめざす「創造都市戦略」を掲げた」(ウィキペディアから)關淳一第17代大阪市長を名指しで批判している最中で、なぜかスカイプの音声が乱れ、もう時間ですからと急かされて、最後は駆け足気味の話になって終了。

小沢さんは1時間の講演を予定していたようで、話を止められた後、両手を頭に組んで仰け反っていた姿から、もう少し語りたいことがあったように見えましたが、私の気のせいでしょうか。

それにしても、これほど過激な、これほど尖りまくった講演は聞いたことがありません。

下手すると、企画の趣旨を全てぶち壊すような、シンポジウム関係者を激怒させ、二度とお呼びにかからないようなリスクをあえて冒して、小沢健二さんは自らが信じることを堂々と語ったのです。資料を持つ手は微かに震えていたとしても。

「アートの力を信じる」というシンポジウムで、「アートという罠:アートではなく」という、まるでちゃぶ台をひっくり返すような講演をやる蛮勇さ。なんという毅然さ、なんという美しさだろう。私はただただ感動していました。

小沢さんは、どこにも帰属せず利害関係を超越した場所から、誰も反論しようがないお行儀のよい正論をぶつだけのイデアリストではありませんでした。

アートしている人たちの苦労を理解した上で、行政からのお金であっても貰えるものならば、貰っていたほうが良いとはっきり言われました。

しかし、彼らの意思、権力作用を十分理解しながらも、それを逆手にとって、何か思いも掛けないあらぬ方向に投げ返してやること、突拍子もない事件を呼び起こすこと、例えば、親のカネを使って自由に遊ぶ頭のいい不良少年、内から食い破るエイリアンのように振る舞うこと、

これは私の解釈ですが、そんな但書きを小沢さんは付けたかったのではないかと推測しました。
==引用ここまで==





日本で貧しい地区でのアート振興、そんなことがあったりすると、もろ手を挙げて、「いいじゃん」とか言っちゃいそうな自分がいる。日本ではそんな話は聞いたことないし。大阪では公的な資金を使って「貧しい地区」でのアート振興が行われてるのだろうか?

===
セラピストが皆、気持ち悪いくらい落ち着いた低い声で、その患者たちをシステム内に柔らかく取り込むように、コミュニティアートも、誰にでも受け入れられるような、丸っこく優しくゆるーいアートを媒介にして、貧しい人達が「暴発」しないよう、その力、希望をソフトに去勢して、システム内に取り込んでいる、と批判している
===
と書かれている。アートにそんな使われ方があり、アートの使い方によって、それが力を削ぐ力を持つのかと思う。ありうる話だと感じる一方で、どういうプロジェクトが実際にあるのかちょっと想像できない。

ここまで書いてきて、「待てよ」と思う。具体的にどんなアート振興が行われているのかぼくは知らない。そのことを抜きに、ぼくがイギリスでのこの政策について語るのはちょっと間違っていそうだ。もしかしたら、この講演で中身の説明もあったかもしれない。

いずれにせよ、基本的にはアート振興というときの中身の問題であることは間違いない。確かにここで指摘されているように行政側には「アートを媒介にして、貧しい人たちが暴動を起こさないよう社会の中に取り込もうと」する意図もあるかもしれない。そのことを喚起することは重要かも知れない。

また、役所ではできないさまざまな文化の振興が「市民」の力で役人の数を減らして行われつつあるのは日本でも見慣れた光景になっているかもしれない。ぼくの住む大田区でも、区の施設である「文化の森」の運営は公募も含む運営協議会にまかされている。男女平等センターの施設管理・運営もそのために作られたNPOが担っている。また、図書館の業務を委託されているNPOもある。

ぼくはそのこと自体を否定しようとは思わない。しかし、そこでの有償労働と無償労働の切り分けはとてもきわどい問題を残す。まず、大きな問題はそこで働くフルタイムワーカーにディーセントな賃金が払われていないことだ。また、定期的に行われる契約の更新のなかで、継続した雇用も保証されない。そのあたりは区の対応の仕方しだいでかなり改善の余地はあると思うのだが、予算のカットにしか目が向かなければなかなか改善されない。

あら、話がそれた。そう、アートを媒介に「暴発」しそうな人をシステムに取り込む話だ。というわけで、イギリスで行われているというその具体的な中身についてぼくは何の知識も持たないが、そのことを前提としていえることもあるかもしれないので少し考えてみる。

まず、ここに挙げられている目的について
===
行政的にはその答えは明瞭で、

第一に、ローカル経済を活性化させるためであり、
第二に、職を作るためであり、
第三に、セルフ・エスティームを高くするためであり、
第四に、(精神的に)人を健康にするためであり、
第五に、個人に競争力をつけさせるためであり、
第六に、再犯を防止するため
===

1と2については、アート振興でローカル経済を活性化させられたり、職をつくったりできるのかと思う。ま、振興を図る側の職は作られるだろうが、振興プロジェクトの結果として職が作られるとは考えにくいなぁ。少なくとも、そんなに簡単にはいかない。

そういえば、ベネズエラのオーケストラの話があったのを思い出した。
シモンボリバル・ユース・オーケストラ
http://www.youtube.com/watch?v=VS1tRoCAr-Q
ぼくはこれが大好きだ。これが好きな人多いと思う。
こんなのもある。
http://www.youtube.com/watch?v=I2PtLBYMo68&
(のだめにでてくるオケの元ネタもこんなとこにあったわけだ)

そう、これは貧しい地域のアート振興がうまくいってる話で、それが職をつくることにも成功してる例ではあるが、それでローカル経済が活性化できたかどうかは知らない。。

3については、そういうことはあるかもしれないと思う。4も、もしかしたら、あるかもしれないが、アートは人を病気にすることもあるかも。。
5の視点は確かにネオリベ的ではあるが、そのこと自体が否定されるべきではないだろう。6についても、アート振興でいわゆる「犯罪」を繰り返すことが防止されるなら、まあ、それはいいじゃないかと思う。

そう、最初にぼくが <もろ手を挙げて、「いいじゃん」とか言っちゃいそう> と書いたのは、まず、貧しい地域でのアート振興というような事業に公的なお金が使われるというようなことが想像できなかったからだ。そう言えば、このブログ記事の始めのほうにでてくる上田假奈代さんがやってることは貧しい地域でのアート振興と少し重なるかも知れない。それは優しいアートという部分はあるのだと思うけれども、そのことが人々の反抗する力を削いでいるとは思えない。


ここまで書いてきて、やっと、それがどんなシンポジウムだったのか気になって調べてみた。(遅い!!)

http://www.cocoroom.org/project/oca/symposium.html
に記載されてた。

また、このイベントで発表された谷川俊太郎の詩の部分が朝日新聞に掲載されている。
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201001240023.html
この谷川さんの詩の全編も読んでみたい。でも、この部分だけ読むと、釜が崎で暮らしてる人には不評かも知れないと思う。書かれてることはわからないわけじゃないし、1日だけ釜が崎にいて、こんな風に感じる感受性も捨てたもんじゃないかもしれない。だけど、違和感は大きいだろうなぁ。ま、78歳のじいさんの詩だから、大目に見てくれる人もいないわけじゃないかなぁ。

ともあれ、そうか、こんなイベントだったのかと思う。上田たちさんがやってることが前提の話だったのだ。だからこそ、「アートしている人たちの苦労を理解した上で、行政からのお金であっても貰えるものならば、貰っていたほうが良いとはっきり言われ」たりもするわけだ。  でも、ここで、そんな話をしたのかと思う。手も震えるだろうなぁ。
小沢さんがどんな語り口で何を話したのか、聞いてみたかったと思う。

金曜日にその話を含めたうさぎ会があるらしい。
すごく行きたいけど、孫の子守の日だ。どうする。

あ〜、まとまんない話になった。「ま、いいか」と今日も思う。




追記
大切なことを見落としていた。
で、オザワくんはアートでなく、「何だ」っていいたいんだろう。
ここはやっぱり社会運動っていうことにしておこうと思う。





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釜ケ崎歩き、1編の詩 詩人・谷川俊太郎さん
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201001240023.html
2010年1月24日


 詩人の谷川俊太郎さん(78)が、日雇い労働者が集まる大阪市西成区のあいりん地区(釜ケ崎)をテーマに、「路上」と題した新しい詩を作り、23日、発表した。

 谷川さんは昨年11月、西成区を拠点に表現活動するNPO法人「ココルーム」の代表理事で詩人、上田假奈代(かなよ)さん(40)から招かれ、初めて同地区を訪れた。上田さんは「貧困や格差に苦しみ続けてきた釜ケ崎を見てもらい、詩を通じて何かを発信できるのではと思った」と話す。

 谷川さんは、労働者が集まる「あいりん総合センター」や、野宿者が暮らす通称「三角公園」などを上田さんと半日かけて回り、労働者から話を聞いたり、写真を撮ったりした。「どこか安心できる空気があった」という。

 「ココルーム」が企画して同市浪速区で23日にあった、地域社会とアートの関係について考えるシンポジウムで、谷川さんが自ら新作の詩を朗読。「釜ケ崎の人は経済的に見れば弱者だが、人に傷つけられ人を愛し、いつか『死すべき人』としては、ほかの人と同じ。区別はしたくない」と話した。(金指光宏)

   ◇

 「路上」(部分抜粋)

 ここに座って
 なんにもしないでいると
 咲いてる花のココロになる
 ただ咲いてるだけと
 ただ座ってるだけ
 似たもの同士
 それがいのち
 もしかするともうおれ
 人間じゃないかも
 でもいのち
 月を見て
 雲に抱かれて
 いつか死ぬまで
 この世にいる
 あの世はどんなとこかなー
 それ お楽しみに
 とっておく

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