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zoom RSS 「清浄なる精神」(第三章)メモ

<<   作成日時 : 2010/02/11 13:58   >>

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前回のメモ
http://tu-ta.at.webry.info/201002/article_3.html
の続き。


そう、前には書いていないような気がするんだけど、この本のタイトル「清浄なる精神」って、どうかと思う。なんかスピ系の本みたいだ。書かれていることはもっと広範に読まれるべきなのに、違うタイトルのつけかたはなかったんだろうか。これで損してると思う。
ちなみに表紙の側にでてるカバーのキャッチコピーもちょっとなぁと思う。


とはいうものの、いい本なので気を取り直してメモの続き。


第三章 多層的精神

昭和の戦争は二つの質の異なる戦争(侵略戦争と帝国主義戦争)であったにもかかわらず、その違いを直視せず「ファシズム対民主主義」の戦いだったという論理を受け入れてしまったことが、戦後日本のあり方に禍根を残したというのが内山さんの見方。「そうか」と思う。こんな風な説明もある。
===
…、第一になぜ日本が侵略戦争を重ねていったのかを、日本人自身の手で明確にし、責任を明らかにする努力を欠くことになった。第二に主として日米戦争として展開した帝国主義戦争の本質を明らかにし、この戦争に対する日米双方の責任を追及する努力も欠いてしまった。どちらの戦争をも日本の人々の手で裁くことなく、アメリカという戦勝国の論理を受け入れてしまったのである。
 このような視点にたてば、戦後の日本は「いかがわしさを内包した民主国家」として出発したといってもよい。
===
と書く。正しい指摘だと思う。しかし、これまでの帝国主義戦争で帝国主義国家あるいはその国民の多数が戦勝国の論理を受け入れず、自ら帝国主義戦争の本質を明らかにした例をぼくは知らない。そんなことを実行できた国家があれば、戦後史は少し違ったものになりえたのではないかと思う。

社会主義国家を自称したソビエト連邦も、その帝国主義戦争に参戦したために、帝国主義戦争について、主体的に反省できた国家が不在だっただけでなく、当時においては、そのように主張した政治勢力もないに等しいというか、あったとしても非常に微弱な勢力でしかなかったのではないか。

そういう意味では、この内山さんの主張は正しいけれども、ないものねだりじゃないかという感じがしないでもない。ただ、これはこれからでもできることであり、やらなければならない話として存在している、とも思う。



この二つの戦争の話から、内山さんがここで導いているのは「個が確立していない日本人」論についてだ。こんな風に書いている。
===
昭和の戦争は民主主義とファシズムの戦いだったという戦勝国の論理を受け入れたとき、「日本はなぜファシズム化したのか、
それは日本人が個を確立しておらず体制順応的だったからだ」という論法を生みだしたのである。72p
===

順は前後するが、この章の冒頭で内山さんは、この論理を否定している。
===
人間はいつの時代、どんな社会の中で生きていても、一面では個人として生きているし、他面では共同の世界のなかで生きている。その両面をもちながら暮らしているのが人間である。とすれば、日本人だけが個人として確立していない、などということもありえない。70p
===

敗戦処理のエピソードは、そのように言われるようになった背景として語られている。

そして、この「個が確立していない日本人」論も最近は聞かれなくなったと書く。その理由として、現代における共同性の喪失、そして、昭和の戦争の風化があげられている。この状態を「あまり居心地がよくない」と内山さんはいう。そして日本人の手で昭和の戦争を裁いていないから、あやしげな「新しい日本づくり」が絶えず提案されつづける、それへの有効な批判もできない状況だ、としている。この「新しい日本づくり」を提唱するあやしげな教科書がいまでもわずかな地域ではあるが採択されたりしている。

内山さんはこの状況を超える為に「日本の人間観、社会観とは何だったのか、それが近代以降どのように変わり、昭和の戦争にむかったのか解いてみたい」「日本の伝統的な民衆思想の側から、日本の近代を裁いてみようと思う」と書く。

その例として、「多層的心理」ということがいわれる。「真理」はひとつと考えてきた欧州の人たちと違い、日本では複数の「真理」があると考えられているのではないか。そこで日本では「折り合いのつけかた」が問題になる。「折り合い」は昔は「居り合い」と書いていたと指摘される。それが村で暮らす上で必要だったのだ。複数の真理が同居できる村を破壊し、「真理」はひとつという欧米流の発想を定着させていったのが日本の近代化だった。

(ここで内山さんは「真理」という言葉に徹底して「」をつけているが、その理由は明示されていないっていうか、ぼくには見つけられなかった。ま、想像することはできるが。

ともあれ、この多層的な精神が成立してくる「場」としての村とは何かということをつかみなおす必要がいわれる。村を軸とした社会を創造することは困難だとしても、なぜ、そのような村が生まれたのかをつかみなおせというのだった。そして、こんな風に書く
===
 村の人々にとって自然とは何だったのか。人間とは、共同体とは何だったのか。生とは、死とは何だったのか。それらをつかみなおすことをとおして、私は、一元的な価値観のもとで暴走する今の時代に対抗したい。93p
===


さらに、日本的な発想が自分たちが暮らす絶対的な村があったからこそ成立する、そこに注目する必要を強調した上で、日本の民衆思想を学ぶことの意味について書いている。
==
日本の民衆思想を学ぶとは、どういう条件を基盤にしてそれが生まれたのかを学ぶことなのである。そのことをとおして、現代の社会において、私たちの社会をどうつくり変えたらよいのかを探りだす。そこに思想の課題があるのだと私は思っている。96p
==


そして、第三章の最後の節、タイトルは「近代的自由」

まず「共生」について以下のようにいう。
===
共に生きていこうとすれば、そこからある種の「わざらわしさ」が発生することも確かだろう。共に生きるためには他者を尊重しなければならない。そのことによって自分の行動も制約を受ける。勝手気儘というわけにはいかないのである。97p
===

また、伝統社会における祭りや行事の多さや、そのような社会での精神の多層性のことを書いた後で、こんな風に書く。
==
近代社会の成立によって人々が手にしたものは、このような生き方からの「自由」だった。共に生きる「わずらわしさ」から、次第に人間は自由になっていった。
 (略)
 忘れてはならないことは、近代社会が形成されていく過程は、ヨーロッパ諸国が植民地をもった時代だったことである。植民地からの収奪こそが、近代社会の形成を可能にしたといってよい。
 (略)
 結論を述べれば次のようになる。近代社会とは植民地をもつという「歴史的不正」によって、本国の人たちがある種の「豊かさ」を手に入れ。そのことによってそれ以前の社会のなかにあった「わずらわしさ」から自由になった。(略)
 このかたちは、形式を変えながら現代でも維持された。98-99p
==

そして、内山さんは「このような社会は続くのか、あるいは続けるべきなのか」と問う。そして、少なくとも《近代社会がもっている「自由さ」を絶対化することはできないだろう》と書く。さらに「これから私たちはともに生きる人間のあり方をみつけなおさなければいけないのだと思う」と書く。その場合の共に生きる対象はローカルな自然や共同体の話だけではなく、世界の自然や人々だ。そのとき勝手気儘というわけにはいかない。その「わずらわしさ」を引き受ける必要があり、そのようにして人間は社会性を取り戻すのだと私は思っている、という。これがこの章の結語だ。

そう、「こうじゃない世界」では、ある程度のわずらわしさはひきうけるしかないという内山さんの結語を受けて、「あっ、言っちゃった」という感想を抱く。それはそうならざるを得ないのだろう。だから、そこに至る過程では、コンフリクトも少なからず生じるはずだ。しかし、この「わずらわしさ」は単なるマイナスではないのだとも思う。それなしにはありえない豊かな関係がそこにあるはずだから。

とはいうものの、じゃあ、近代の持つリベラルな価値が全部捨てられるかという話でもない。その微妙なバランスをどこでとればいいのか、そこは試行錯誤しながら合意できる部分、まさに内山さんがいうところの「居り合い」がつく場所を探すしかないのだと思う。

ただ、これだけではちょっと言い足りていないようにも思う。近代的な価値と呼ばれるものと共生をひきうけるときのわずらわしさの関係について、もう少し言えることはあるんじゃないか。いまのぼくがすぐ書くことはできないんだけど。


この本のメモ、まだ100pまでしかきていない。全部で357pあるのに。



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