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zoom RSS 「母よ!殺すな そして、母を殺すな!」

<<   作成日時 : 2010/03/15 02:54   >>

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「母よ!殺すな そして、母を殺すな」というタイトルはインパクトがあるんじゃないかと思って書いてみた。しかし、よく考えたら、ジェンダー的にはかなり問題がありそうだ。どうして母だけが俎上にあげられなければならなかったのか。日本における母子関係の特殊性という問題なのか、それとも国境を越えた問題なのか。「母よ!殺すな」は復刻されるほど話題の本なので誰かが、あるいは著者自身がなにか書いているかもしれない。買ったまま積んでいるこの本をそろそろ読んでもいい頃だ。

とかいうタイトルの問題はとりあえず置いて、

spitzibaraさんが書いている
親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59289641.html
にタッチされるところがあってコメントを書いたら、字数制限にかかった。だから、エディタに移したのだけど、やっぱり分割してコメント欄に書き込んだ。
とはいうものの、書いたことを忘れそうだし、分割して移し忘れた部分もあったので自分のブログにも残しておこうと思う。多少「てにおは」は直すが脈絡のない展開はそのまま。


最後にこれを掲載した後に、再び読み返した後の感想を書こうとして、結局、そこから大きく離れて運動と怒りとか、怒りをどうするという話に飛躍したのも付け足しておく。


====

ぼくも上の方と同様に心を動かされた記事でした。spitzibaraさんも書かれているように話はそんなに単純ではない部分も多いと思います。

先日、大田区であった障害者関係の集まりにいったのですが、そこではまるで「母よ殺すな!」で始まった障害者運動の歴史などまったくなかったような話が展開されていました。養護学校に子どもを通わせている素敵なお母さんが私も普通に楽しみたいんです、でも、いまでもまだそんな風にもできない現状があるみたいなことを言って、みんな共感していました。ぼくも共感しました。spitzibaraさんみたいに感じる人はすごく少数派になっている現実も一方であるのだと思います。

母親が(あるいは父親が)、障害者が一人で生きようとしたとき、「あんたには無理」みたいな形で立ちふさがることも昔に比べたら少なくなっているのかも知れませんが、まだまだ残っていると思います。

そう、だからspitzibaraさんがいうように障害者が自分らしく生きていくために母親も共同でそのことに向かっていけるような環境が作られる必要があるのだと思います。

そして母(あるいは父)も自分らしく生きる権利があるはずです。

「母よ殺すな」という叫びと共に、母が子どもに手をかけざるを得なかったような状況をどう変えていくのかという運動が必要なのだと思います。 まさにspitzibaraさんがアシュレイのケースで訴えているのがそういうことなのではないかと思うのです。

この投稿、ぜひ障害学のMLにも投げてください。


「母よ殺すな」そして「母も殺すな」と思うのです。

ALSの子どもを殺した母親が父親に自分を殺すことを頼み、それを実行した父親の裁判が先日ありましたよね。複雑な話です。

つい数年前も子どもを殺した親の助命嘆願っていうか執行猶予を求めるような運動がありました。その話も本になっています。ぼくがHPに書いたものも掲載されてて驚いたんですが。(確かリボン社の本だったか、ぼくはその存在を偶然、友人に教えてもらったので、出版社に送ってもらってうちにあるはずなんですが)。
(ブログでの補足『「減刑バンザイ」に異議あり』)

 助命嘆願運動のあとに、子どもを殺さざるをえない状況を変えていく運動が始まるのなら、少しは理解できるかもしれないとも思うのですが、しかし、その嘆願が聞き入れられるや、その運動主体はさっさと消えてしまいました。そのことにぼくはすごくがっかりしました。

そう、だからこそ「父よ殺すな」と同時に「親も殺すな」呼びかけているspitzibaraさんのスタンスはとても大切だとぼくは思います。

そうさっき<「母よ殺すな」そして「母も殺すな」>と書いたのですが、これ、かなりジェンダーにまみれたスローガンです。そのことにやっと気づかされました。このあたりの男としてのにぶさもまた考えられなければならないのだと思います。

なんか、思いついたことを書き出したら止まらなくなってしまって、まとまりのない話をダラダラ書いちゃいました。ごめんなさい


=========

読み返して感じたこと。
ぼくが脊髄反射のような形で、このコメントを書きたくなった理由を考えてみた。

ぼくがここで触発されたのはspitzibaraさんの思いが伝わったからという側面もあるのだが、それ以上に、最近は告発型の運動が衰退して「親の抑圧性」というようなことが言われなくなっているのではないかという思いがあったからだと思う。

そういう中でもspitzibaraさんが「親の抑圧性」というようなことを受け止めて、かつ、それを超えようとしていることは重く考えたい。


教育でも、地域生活でも、政策が巧妙になり、そこに差別的な分離があったり、家族への犠牲の強制があり、また、障害者本人には家族からの抑圧があったりすることが見えにくくなっている現実もあるのではないかと思う。

何か与えられた枠の中でしか、解決が探られていないのではないかとという気がする。うまく言語化できないのだが、置かれている状況への怒りはもっと表出される必要があるのかもしれないと思う。


国家や行政の立ち居振る舞いがスマートになることは悪いことではないと思うのだが、その中で本来怒るべき話に怒れなくなったり、見えてしまう実行不可能性を許容してしまうことの悪い影響もあるのではないか。


怒りが消えたときに、あきらめが忍び寄ってくるのではないかと思う。

自らの怒りを自覚できるのであれば、それでいいと思うのだ。怒りは自然な感情であり、それをなくすなんていうことのほうが不自然なのではないだろうか。ぼくの好きなサティシュは怒りは不要だというようなことを言っていたが、そこは違うと思う。

「怒り」という感情を殺さずにコントロールするというのも、確かに難しい話ではある。しかし、怒りの感情に流されてしまうことも失うものは多いように思う。怒りの感情を持っている自分を自覚し、しかし、その感情だけに流されてしまわないようにしながら、それを保持するというのは、困難だけども、いつでも不可能というわけではないようにも思う。

もちろん、いろんなことにカッとする瞬間はある。そこはできるだけ踏みとどまって、その感情と少し距離を置く、というようなトレーニングは必要かも知れない。しかし、距離をおいて考えて、それがやはり不当でしかなければ、怒りは保持すればいいと思う。怒りを消す必要はないはずだ。


怒りだけが前に出ている社会運動はうんざりだけれども、怒りがない社会運動もまたダメだとぼくは思う。

そのあたりのさじ加減は微妙で難しい。

あっ、ずいぶん話がそれてしまった。障害者運動における怒りが希薄になっているのではないかとちょっと感じることがあり、この投稿の本題から遠く離れてしまったけど考えたことを書き残しておこう。





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ぼくが触発されたもとの文章は
http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara/59289641.html
で、読んで欲しいのですが、念のためにこっちにも転載。




親の立場から、障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと

* 2010/3/12(金) 午前 11:22
* 子の権利・親の権利
* 倫理学


Ashley事件を知った時から、事件や周辺の諸々を追いかけながら考え続けているのだけど
複雑だったり微妙だったりして、なかなか言葉にならなくて、
これまで思い切って書く勇気が持てずにきたことがあります。
今でもまだ、誤解を受けずに伝わるように書ける自信があるわけではないのですが、

また新たにAngelaちゃんの子宮摘出が認められてしまったニュースに
それなりに闘ってきたつもりだった3年間を振り返って悔し涙がこぼれてしまうわ、
ああ、もう、これは、どうにもできない勢いなんだ、止められないんだ……と
絶望しそうな気分にはなるわ……を経て、あの奇怪な判決文を読んだとたんに
今度は憤りで逆に頭が冴え返ってみたら、

じゃぁ、「この勢い」って、いったい何の勢いなんだ……? ということを考え始めて、
そしたら書いてみないではいられない気分になったので。

Ashley事件に象徴される、「この勢い」の一端にあるのは、
科学とテクノロジーで可能になった諸々を背景にして
大人が子どもに、親が子どもに及ぼす支配力の強まりと広がり。

遺伝子診断や救済者兄弟をはじめとするデザイナーベビーもそうだし、
障害新生児の治療拒否もそうだし、ロングフルバース訴訟とか、慈悲殺擁護論の高まりも
そこに含まれるのではないでしょうか。

そして、親から子への支配を科学とテクノによって強めていく方向へと
強力に世の中を変容させていこうとする、この、ものすごい勢いは、
「親の愛と献身」という、これまでも散々使い古されてきた神話を盾に、
ゴリ押しで突き進もうとしているかのように感じられます。

そういうことを今回のオーストラリアの事件で改めて考えると、私の思いが戻っていくのは、

07年のAshley事件が、なぜ私をこんなにも捉えて離さないのか。
なぜ、あの事件が私には、どうしても目をそむけて通れないほど、重く、大きいのか、という問題。

3年前Ashleyの身に起こったことを知り、衝撃を受け、身体を震わせて憤った、あの時に、
私自身が、障害のある子どもを持つ親として、ずっと目をそむけてきた事実と直面させられたのだと思う。

障害児・者と親(家族)との間には、本当は避けがたい利益の衝突があり、
実はそこにあるのが支配―被支配の関係だという事実と、です。

我が子を施設に入れることを選択した自分にAshleyの親を批判する資格があるのか、と
この3年間、Ashley事件と向き合う中で、私はずっと自問し続けてきました。

たまたま事件のウラに気付いたのが私で、それを実証してくれる人が他にいなかったから
他に何の武器も持たない私が、こういう形でやるしかなかっただけだし、
資格があろうとなかろうと、とにかく黙っていられなかっただけでもあるのだけれど、

施設に入れることを選択してしまった親がAshley事件を批判することの意味を
ずっと考え続けることによって、私は批判する資格を得ようとしていたような気がします。
このあたりのことは、まだ、うまく表現できません。また改めて言葉にしたいと思います。

ともあれ、そういう問題意識のあり方でAshley事件を追いかけてきた私が、今、Angela事件で
親から子への支配を強めようとする力がとめようもない勢いになろうとしていることを思う時、

障害学や障害者運動の人たちにお願いしたいと思うのは、こういう時だからこそ、
障害児・者と親の関係を「親は敵だ」といった対立関係で考えることを
いったん、外してみてもらえませんか、ということです。

うちの娘にとって自分は一番の敵なのだと、私は本当に、痛切に、そう思います。

施設に入れた決断だってそうだし、今だって、娘は自分があそこで暮らしたくて、施設にいるわけじゃない。
自分が帰りたいと思った時に家に帰ることを許されるわけでもない。

管理でガチガチの師長が許せなくて、施設中を大騒ぎにして闘って、
自分では「子どもたちの生活を守った」つもりだったこともあったけど、
いろんな意味で娘は結局、私の闘いの一番の被害者だったのかもしれない。

他人との暮らしで母親よりもよっぽど世知にたけたオトナになって
「もう、この子は一人で生きていけるよ」と言われるほど成長しているのに、
それでも「今の世の中に残して逝けるものだろうか……」と勝手に気をもんでいる私が
彼女の敵でなくて何だろう、と、心底、思う。

でも、それは「娘にとって私は一番の敵だという面は確かにある」ということであって、
「全面的に敵である」ということでも「敵でしかない」ということでもないと思うのです。

言い訳でしかないのかもしれないけど、
20年前の日本に、レスパイトサービスがあり、ヘルパーさんがいてくれたら、
私たち親子には、もしかしたら、別の暮らし方もあったのかもしれない、と思う。

全身を火の玉のようにした、すさまじい号泣に夜通しさらされて
汗だくになって、必死で抱き、あやし、ゆすり、夜中の町を車で走り続けて、
ろくに眠れないまま仕事に行く日が続いていた頃に、
もしも週に1晩だけでも娘を安心して預けられるところがあったら
私たち夫婦は、おそらく、その一晩の眠りを支えに、他の日を頑張り続けることができたような気がする。

寝込んでばかりいる幼児期の娘と一緒に狭い家に連日閉じ込められて、
ろくに手伝ってもくれない人たちから責められ続けて、
私の心がじわじわと病みつつあった娘の幼児期に、
もしも、誰かが家事だけでも手伝いに来てくれたら、
「私を助けにきてくれる人がいる」という、ただ、そのことだけで、
私にはものすごく大きな救いになったような気がする。
そしたら、私たち親子の生活にも他の形があり得たのかもしれない、と思うのです。

私には「親が一番の敵だ」という障害学や障害者運動の人たちの主張が、ものすごく痛い。

去年も、ある雑誌の記事の中で、施設に入れるのは家族が決めることだ、と訴える障害当事者の方が
「家族が一番の敵だ」いわれたのを読みました。

活字を目にした瞬間に、小さな矢でも受けたように本当に目に痛みが走るほど、痛いです。

それは、本当にそうだと思うし、逃げようがない真実だから痛いのだけれど、
同時に、「でも、それだけじゃない」と、その痛さの中から、どうしても言いたいこともある。

「親は施設に入れるから敵だ」という言葉の裏には、しかし、
親なら施設になど入れず、支援が十分なくたって、どんなに自分がボロボロになっても
介護するのが当たり前だろう、という無意識が隠れてはいないでしょうか。

障害を社会モデルで捉えるように、
親の様々な思いや行動もまた、社会モデルで捉えてもらうことはできないでしょうか。

「親は一番の敵だ」で親をなじって終わるのではなく、
「親が一番の敵にならざるを得ない社会」に共に目を向けてもらうことはできないでしょうか。

私は、Ashley療法に象徴されるような形で
親の支配を強化してこうとする「この勢い」に抗うためには
障害を挟んで親と子が対立関係から抜け出す意識的な努力が必要なのでは、と
まだうまく表現できませんが、この3年間で考えるようになりました。

Ashley事件では「ここまでする親の愛」vs「イデオロギー利用を狙って邪魔立てする障害者」という
対立の構図が意図的に描かれて、世論誘導に使われました。

「重症児は、自己主張できるような障害者とは違う」「親と障害者運動との断絶の大きさには唖然とする」
「障害者運動の活動家の方が親以上に子どものことを分かっているとでもいうのか」と
Diekema医師は繰り返しました。

確かに、親と子どもとの間には利益の対立と支配―被支配の関係があり、
障害がある子どもでは、その対立と支配の脅威は圧倒的に大きいと思います。

しかし、
利害の対立があり、支配―被支配の関係が避けがたいことを認識したうえで、
それでもなお、そこを乗り越えていくために、同じ側に立って、共に考える、ということも
可能なのではないでしょうか。

「この勢い」に対して「それは違う」と、
同じ側に立って、共に声を挙げていくことも可能なのではないでしょうか。

私がこの3年間で考えるようになったのは、「どんなに重度な障害がある子どもでも、
一定の年齢になったら親元から独立して、それぞれにふさわしい支援を受けながら、
それぞれの形で自立して暮らしていける社会」を共に求めていくことはできないだろうか、ということです。

AshleyやAngelaやウチの娘のような重症児や、
今、行き場がなくなってベッドふさぎのように言われ始めている超重症児も線引きすることなしに。
もちろん、なるべくなら、家族や友人のいる地域で。

そういう社会を目指す支援があれば、親も少しずつ子どもを抱きかばう腕を解いて
他人に託してみるという経験をすることができる。そして、
「ああ、それでも、この子は大丈夫なんだ」と発見するステップを
上手に踏んでいける社会であれば、親もいつまでも抱え込まなくて済む。
親が抱え込んだあげくに連れて死ぬしかないと思いつめる悲劇も減るのではないでしょうか。

「親が一番の敵」という対立の構図から、
「親が子の敵にならないでも済む社会」「子も親も自然に親離れ子離れができるような支援のあり方」という
新たな広がりのある地平へと、一歩を踏み出して、親とも一緒になって
差別や人権侵害と闘う障害学とか障害者運動というものが、

英米から科学とテクノと、その御用学問である生命倫理との包囲網が
こんなにも激しい勢いで狭められていく今の時代に抗うために、ありえたらいいなと、

障害のある我が子にとって自分が一番の敵だという面があることを自覚したからこそ、
むしろAshley療法を批判し、それを通して訴えたいことが山のようにある、
そういう私には、たぶん、正面からAshleyの親を批判する資格があるはずだと、
やっと思え始めている親の一人から、

今の段階では、まだ、こういう言葉でしか表現できない
「障害学や障害者運動の人たちにお願いしてみたいこと」でした。

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内 容 ニックネーム/日時
怒りについて追加された部分、またいろいろ考えさせられています。怒りは、静かに燃え続ける種火として、心の奥底で絶やさぬよう、時にごうっと燃え盛って周囲の人を焼いてしまうことをくれぐれも自戒しつつ……この後の方が私には特に難しいのですが。

いろいろ、ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
spitzibara
2010/03/15 09:05

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