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zoom RSS 「日 本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」メモ

<<   作成日時 : 2010/04/10 13:29   >>

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「日 本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(内山節著)の読書メモ


菅野さんが
http://lavo.jp/kakinotane/lavo.php?p=log&lid=168999
でキツネにばかされる話を書いていたので、前から気になっていたこの本を借りて読んだ。図書館の本には利点がある。返さなければいけないので、それまでにメモを書こうという義務が生まれるからだ。自分の本の読書メモはいつでも書けると思って、そのままになったり途中で終わることが多いからだ。このブログを少し覗くと、その例はたくさん見つけることができる。

ときどき書いてるが、主観に満ちていて誤読も多いかもしれない自分用の読書メモです。記述も脈絡はあまりなく、転々とします。

間違いなど指摘してもらえるとうれしいです。



日 本人はなぜキツネにだまされなくなったのか(内山節著2007講談社現代新書)


ぼくが読んだ内山さんの本にしてはわかりにくい部分もある。(最後のほうの他の人の思想を紹介しているところなど)
手軽そうなタイトルに騙されて読むと、なかなか手強い。

さて、この本の中で1965年を境にたくさんあったキツネにばかされる話が発生しなくなった、それも全国ほぼいっせいにという。この本はその問いから始まる。

そして、表題には記載されていないが、内山さんはこの本を「歴史哲学序説」という副題のものとで書いたという。「歴史とは何か」というのが、この本の底流にある問題意識。この本が<「私たちの現在」を考える一助になれば幸い>と内山さんはまえがきに書いている。

歴史学ではなく、歴史哲学というところがひとつのポイントだ。



食事について、日本では伝統的な食事のマナーは楽しくではなく、静かに厳粛に。それは自分のために犠牲になる生命への感謝、日本では食事は神から与えられた糧ではなく、生命的世界・霊的世界から与えられた糧だった。だから、食事の祈りの対象は神ではなく、霊的世界。19p

ざっくり書くと、こんな説明を内山さんはするのだが、こういう伝統的な食事観がどれくらい日本に残っているだろう。こんな感謝をこどもに伝えることに成功している家はもう少数派なのだと思う。もちろん他人事ではない。

でも、同時に楽しい食事もいいと思う。生命的世界から与えられた糧として、いただくときに、楽しんでいいのだと思う。宴はいうまでもないが、日々の食事も、そんなに浮かれる必要はないのだけれども小さな楽しみであって欲しいと思う。別に毎日何か特別なものが欲しいわけじゃない。例えば、玄米と漬物と味噌汁を感謝しながら楽しく食べるというようなことがあるのだと思う。(ぼくは肉も好きだけどね)


で、この本の本体部分の1965年を境にした日本社会の変化の話は飛ばして、最後に近いところに飛ぶ。

以下に少し抜書き
====
 日本の人々がキツネにだまされていた時代とは何か。その時代に人々はどのような精神構造をもち、どのように自然とコミュニケーションをとりながら、暮らしていたのか。そのような問いをたてるとき、ここにはかなり深い考察課題があることに気づく。現代の私たちの精神世界で「キツネにだまされた」という言葉を用いれば、それはあやしげな話にすぎない。しかし現代の私たちとは大きく異なる精神世界で生きてきた人々にとっては、キツネはどのようなものとして私たちの横に存在してきたのか。今日の私たちの精神では到達できないものがそこにあったことを、私たちは確認しておいたほうがいい。107p
====

ここまでに、この話の具体例がいくつかでている。



で、別の話に移る。

個体としての生命と全体としての生命の話だ。

「それぞれに固有の生命があり、全体的世界を個体の生命の集合体としてとらえる」というようなとらえかたは近代の産物だったのではないかと内山さんは書く。一面ではもちろんそうなのだが、伝統的精神世界のなかで生きた人々にとってはそれはすべてではなかったというのだ。「もうひとつ、生命とは全体の結びつきのなかで、そのひとつの役割を演じている、という生命観があった」「個体としての生命と全体としての生命というふたつの生命観が重なり合って展開してきたのが、日本の伝統社会だったのではないか」
 これを木と森を例に説明する。
 そして、人間もまた結び合った生命世界で、それと切り離すことのできない個体であり、伝統的な共同体の生命とはそういうものだったと内山さんは書く。
 しかし、人間は「自我」や「私」をもっているので、共同体的生命世界からはずれた精神や行動もとる。
===
 だからこそ共同体の世界は、地域文化が、つまり地域の人々が共有する文化が必要であった、それが通過儀礼であり、年中行事であり、それをとおして人々は、自然とも、自然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ばれることによって自分の個体の生命もあることを、再生産してきた。
 このような生命世界の中で人がキツネにだまされてきたのだとしたら、キツネにだまされる人間の能力とは、単なる個体的能力ではなく、共有された生命世界の能力であった。112p
===

上記はこの本の3章の結語だ。


以下、以降の興味深い部分のまとめ&抜書き

=========
『古事記』も『日本書紀』も古代王朝という「中央」が成立することによって書かれた歴史。それは古代王朝に限らず、どの時代も中央の「正史」はあった。それは「正史」としての「私史」。その「私史」が「日本史」になり「国民の歴史」とされていった。そのように「国民の歴史」が書かれるようになると共通するひとつの性格が付与される。それは「現在を過去の発展したかたちで描く」という性格。

そのようにして見れば、過去は必ず克服された「遅れた社会」。

それは現在の価値基準からはとらえられないものを、みえない ものにしていく。たとえば、自然との結びつきのなかに歴史が展開するというような歴史は「みえない歴史」に変わる。そして、キツネにだまされながら形成されてきた歴史も、過去の人々の微笑ましい物語にしかならない。

===

・・・『発展』というイデオロギーこそが、人々を「国民」として統合し、

その「国民」は「中央の歴史」を共有しているという擬制を成立させるために必要だったからである。「国民」としての達成感が、この歴史の基底になければならなかった。 133p

===

四章の133pまでのまとめ&抜書きここまで


ここまでの論理の展開にぼくは強く同意し、すごく面白かったのだけれども以下の記述で少し躓く。

===
実際には、歴史がそのすべてにおいて進歩・発展していくことなどありえない。何かの進歩は、必ず別の何かの後退を招くと考えたほうが妥当。
===

ここでは、やはり「進歩・発展」はやはり何か「よきもの」とそて記述されているように感じる。本当にそうなのか、という論点がここまでに記述されてきたのではなかっただろうか。

そして、環境問題は自然環境という視点からみれば歴史が『後退』であった。とあえて書く。たぶん内山さんは進歩史観に対抗して、あえて『後退』という言葉を使うのだが、あえて使っているにしても、『前進』とか『後退』とかいう歴史の見方自体が捉え返さなければならないというのが、彼の主張でもあったと思うのだが、どうなんだろうと思う。


第五章は「歴史哲学とキツネの物語」というタイトルがつけられているが、ここで生命についての記述がある。

以下のようにショーペンハウエルが引用される。
「死とともに意識はたしかに消滅してしまうのである。これに反して、それまで意識を生み出してきていたところのそのものは決して消滅することはない」

この「意識を生みだすもの」に仮託するかたちで、人間の根源的な生命のあり様を語らせている、と内山さんは書く。

また、ベルグソンの引用もある。
「直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。知性は物質を生みだした過程にまねた過程がそこに切りだしたものにすぎないのだ。…知性からはけっして直観に移されないであろう」
そして、ここでは「直観」に仮託されるかたちで生命のあり方を語らせている、という。

そして、「根源的なものとしての生命は、つねに何かに仮託することによってしか語ることができないものなのである」とし、鈴木大拙はそれを「霊性」という言葉に仮託した、と書く。 153-154p


このように「仮託してしか語ることのできない生命」を含めて、知性では見えないものの存在がここで問題になる。

知性によってつまみとられた現象としての自分の存在と、全体の自分の存在の乖離。

「この乖離こそが今日の私たちの状況をつくりだしているような気がする」
という。

近代の思想は基本的に知性への信頼を基本にしている。そのことが歴史を発達として描かせた大きな要素だったのではないかと思うという指摘がある。

以下のように書かれている。
===
知性は現在の問題意識に依りながら、歴史はどのように形成されてきたのかを知ろうとする。どのような原因があり、どのようなプロセスを経てその時代は形成されたのかを合理的に知ろうとするのである。発生史的な、あるいは発達史的な歴史の把握の誕生である。156p
===

自分を省みて「現在の問題意識に依りながら、歴史はどのように形成されてきたのかを知ろうとする。どのような原因があり、どのようなプロセスを経てその時代は形成されたのかを合理的に知ろうと」してきたと思う。しかし、ここまではそんなに問題ないのではないか。そのことと発達史的な歴史の把握が直線的につながっているとは思えないのだが、どうなのだろう。内山さんの「見えないものを」という主張はそうだと思うのだが、このあたりとのバランスをどうとっていくのかということが問題なのではないか。


そのあたりの複雑な話がこの直後にある。
===
「物質的な豊かさから心の豊かさへ」などという人がいるけれど、問題はそんなに簡単ではない。なぜなら発達史的な歴史のなかで実現されたものは、けっして「物質的な豊かさ」にとどまらないのである。
===
その例として、自由な旅行、情報収集、言論・出版、思想の自由など。
それらはこの歴史の中で実現されたものだ。

にもかかわらず乏しい充足感。
身体の充足感、生命の充足感、が例示される。157p

次にあげられる充足感が興味深い。
<現在の問題意識から切断されているがゆえに「みえなくなった知性」の充足感>

この「」の位置がよくわからない。これで正しいのだろうか。<みえなくなった「知性の充足感」>ならわかるような気がするが。

ここまでに「みえなくなった知性」のことが書かれていたのかもしれない。しかし、ぼくはそれに気づいていない。なんだか、急にでてきて足元をすくわれた感じだ。とはいうものの、本を返す期限なので、当分もう読み返すことはないだろう。



次に「みえない歴史」をどうつかむか、という話だ。
それは非知性の領域においてしかつかむことができない。
合理的な説明はできないけれども「わかる」こと、「納得できる」こと、「諒解できる」こと。知性ではなく、身体の記憶や生命の記憶に照らしたとき、それはよく「わかる」ものとして現れる、という。


再び引用(まとめるのが大変になってきた)
===
 …、知性による歴史の認識は歴史に合理性を求める。何らかの因果関係によって歴史は形成されてきた、その意味で歴史は発展してきたととらえさせる。時間に発展を要求するといってよい。つねに時間は直線的に過ぎ去っていって、その過ぎ去る時間のなかに合理的な因果関係が内蔵されているという感覚。それは知性の自己錯覚とうまく結びつく。なぜなら知性は、自分自身をたえず過去から現在、未来へと動く合理性のなかでとらえさせるからである。そのような錯覚された世界のなかに自らを置くことによって、知性は現在の知性自身を肯定する。なぜなら現在の知性は、合理的な発展のうえに成立したと錯覚されるからである。

 ところが身体や生命の世界はそういうものではない。身体や生命もさまざまな記憶を蓄積していくけれど、その記憶はたえず受け継いでくれる人々を探す。その受け継ぎは「発展」という形式ではなく、むしろひとつの循環である。


「発展していく歴史」は知性が歴史に合理性を求めた求めたことによって、そのようなものとしてみえてきた歴史であって、それだけでは身体や生命を介した歴史はつかむことができないのである。


 現代の私たちは、知性によってとらえられたものを絶対視して生きている。その結果、知性を介するととらえられなくなってしまうものを、つかむことが苦手になった。人間がキツネにだまされた物語が生まれなくなっていくという変化も、このことのなかで生じてきたのである。

====

以上が5章の結語になる。


そして終章、第6章の結語を引用しよう。
==
この生命性の歴史が感じとられ、納得され、諒解されていた時代に、人々はキツネにだまされていたという物語である。しかしそれは創作された話ではない。自然と人間の生命の歴史のなかでみいだされていたものが語られた。

 それは生命性の歴史を衰弱させた私たちには、もはやみえなくなった歴史である。
===


時代がリニアに進むわけではない、ということはその通りだと思う。循環型の社会がいろんな意味で必要になっている。他方で、知性によってものごとを見ていくことの重要性もまた忘れられてはならない。そのバランスをどこでとっていくのか、どこまでを知性の歴史で認識し、どこからを生命性の歴史でとらえるのか、そこのところが問われているように思う。



以下は菅野さんのブログへのコメントを少しだけいぢって掲載


「あとがき」の内山さんはこんな風に書く。
====
 書き終わってみると、なおさら私は日本の近代化とは何だったのだろうという気持ちになってくる。それが良かったのか、悪かったのかという価値判断は、まだ後の課題にしておいてもよい。それ以前のこととして、日本の近代化によって生じた変化がまだ明らかになっていない。そんな気持ちである。
 本書のテーマであるキツネと人間の物語にしてもそうである。なぜ人はキツネにだまされなくなったのか。ここには人間たちの自然観の変化も、信仰観や死生観の変化も、そして当の人間観の変化もある。私たちを私たちたらしめている要素のすべてが変わったといってもよい。
====

こんな風にあとがきに書かれていますが、この本では近代化がもたらした変化にかなりていねいにせまっていると思います。もちろん、それは否定的なことばかりではありません。近代化による喪失と、それがもたらした利便性や桎梏からの自由をどのように秤にかけるべきなのかということは、内山さんが書いているように、まだ後の課題でいいのかもしれません。でも、ここは現代のオルタナティブを考えるときの大きなテーマでもあります。そんなに先ではなく、この問題への答えを探すことも求められているのだと思います。






====
疲れた。




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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
狐がいなくなっただけなのではないかな。
そのかわり、UFOとか、電波とかに、だまされる。
あび
2010/04/10 17:56
あびさん、コメントありがとうございます。

キツネが減ってるのかどうか、ぼくは知りません。
確かに、電波にだまされてるっていうのはあります。

ただ、この内山さんの、「キツネにだまされる」という現象をとらえる視点はとても面白いと思ったのでした。

歴史をリニアに見る視点からは、そんなバカなという話ですが、違う視点から見ると、そこが近代を捉え返す出発点になっていくわけです。
tu-ta
2010/04/11 07:58
 私は、この本を紹介していただいて感謝しています。ただただ、キツネやタヌキやムジナに騙されたお話がなくなっただけのことを、探ると凄いことなんやなって思いました。・・・・ただ、私の年代より若い人が読んだらどういう感想なんでしょうかね・・・とも思いました。
 実は、私も市の図書館に無くって、県立図書館から取り寄せていただきましたので、ずいぶん抜書きさせていただきました。

 難しい宗教、人間性、集団社会、自然の変化、には憂いはしますが、私には難し過ぎてどうしようもないっていうのが本音です。 でも、読んでよかったです。
 あの本に出会ってから一ヶ月位ですが、あるお婆さんから「タヌキに騙されたお話」を、3つも聞くことが出来ました。 
 あの本を読んでいなかったら「それからどうなったの?」って、尋ねることも無かったと思います。

 まだまだ、そのお婆さんから何度も聞かないと、文章にできませんが、残しておきたいなって思っています。
このお婆さんって、実は私の大正琴の先生なんです。
先生が子どもの頃に、自分のお父さんやお爺さんが体験したことなんですって・・・。
 「先生、そういうお話は1965年以来日本の国から消えているんですって。そのお話を文に書いてください。きっと、もう誰もそういうお話ができる人は居ませんよ」と、お願いはしているんですけどね。
山さくら
2010/04/17 12:09
山さくらさん、遅れたレスポンスでごめんなさい。
その先生の話、ぜひ、まとまったら紹介してください。
楽しみにしています。
tu-ta
2010/04/22 18:38

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