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zoom RSS オルタナティブな社会をめざすことと障害者の問題の連関について

<<   作成日時 : 2010/07/27 05:05   >>

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表記のタイトルでMLに投げたものをこっちにも残すことにした。

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現在、ピープルズ・プラン研究所というところにかかわっていて、そこが呼びかけて、オルタナティブ社会への提言というのを作っています。

興味がある人は以下へ
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/altplan/index.php?page=menu
ここにかなりの量の資料があります。

現状で全体がわかりやすいのは
どのようなオルタナティブ提言を作成するのか(メモ) 
2010年2月6日
白川真澄
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/altplan/index.php?content_id=29
だと思います。


この秋にも、その最初の成果が明らかになると思うのですが、そこで障害者分野から見たオルタナティブに関して書きました。

総論の部分を紹介しないとわかりにくい部分もあると思うのですが、総論はすでに3回目のドラフトがでていますが、議論の最中でまだ公表されていません。

ぼくがここで紹介しようと思っているのは、その障害者分野に関する最初のドラフト。

この最後にも書いたのですが「思いついたことをあまり脈略なく列記してみた」だけです。また「とても大切なことで抜け落ちていることや、間違っていることもあるかも」しれません。


MLでも、DMでもかまいませんから、意見をもらえたら幸いです。


==========
 障害者問題全体に関してトータルなオルタナティブを提示することはぼくの手に余るのだが、総論とのからみで障害者問題を提起することで、総論の抽象性をもう少しだけ具体的なものにしていきたい。それは近代社会への根元的な問いを明示することにもなると思う。障害者政策は近代を支えてきた原理との決別を明示するものにもなりえるかもしれないという直観を抱きながら、以下を書く。

社会を変える主体としての「障害者」。

 いままでの歴史の中で「障害者」は社会を変える主体としてカウントされてこなかった。彼らは援助を必要とするもの、何かをしてあげる存在としてしか語られてこなかった。オルタナティブ社会を実現する主体に「障害者」とされる彼女や彼、一人ひとりが含まれなければならないというのは耳障りのいい原則だ。しかし、そのための努力が現在、どれだけ行えているかといえばとても心もとない。そのために必要なことは物理的な問題から「知的障害」「精神障害」とされる人への配慮まで非常に広範に存在する。そして、本当は待っているだけではだめなのだろう。すべての人がそのプロセスに関わるため「合理的な配慮」が必要だし、その「合理的な配慮」とは何かという議論が必要だ。


「障害者」の課題は多様性の承認の問題としてだけあるのか。

 確かにそういう側面もある。しかし、それだけでは決定的に欠落しているように思う。障害者政策を考えることは近代と決別するオルタナティブな社会を考える一つの機軸になえるはずだというのは冒頭に書いた話でもある。そこで重要だと思えるのが「生存権の無条件の承認」。これを「存在の無条件の承認」と呼んでもいいだろう。「何かをすること」とりわけ「生産」「開発」することに意味があるとされた資本主義近代から、ただ存在すること、「あること」「生きていること」が大切にされる社会への転換が問われているように思う。

例えばALSの人は

 障害者はどのような場合に生存権が保証されていないのか。例えばALS(筋萎縮性側索硬化症)患者が置かれている状況は障害を持った人を生きさせない現状を明示している。ALSの症状について、医学書などでは3年から5年で死にいたると記述されていて、いま(2010年7月19日)Wikiでもそのように記述されている(ぼくが書き換えたものはかなり戻され捻じ曲げられた)。しかし、現実には人工呼吸器の装着によって生存を維持することは可能になっており、介助者を入れることで尊厳のある暮らしを実現している人は増えている。にもかかわらず、人工呼吸器を装着して生存することを選ぶのが困難な状況が続いている。それは、そのケアの体制を作ることにいろいろな壁があるからであり、人工呼吸器を使用しながら尊厳ある生を送ることができることが理解されてこなかったからだ。その結果として、ALS患者やその家族に人工呼吸器を使用して尊厳ある生を送るという選択肢が提示されてこなかった。(これらは5年ほど前のデータであり、現状がどのようになっているかは知らない)。つまり、ALSの人は生存を無条件に保障されることなく、死を選択させられている。ALSでだんだん動けなくなっていく人の「呼吸器を外す権利」についてはここでは保留するが、少なくと尊厳ある生を送ることが可能であるという状態が準備される必要があるのだと思う。

それなりの税収が必要

 また、社会がどこまで「障害者」の生存を支えることができるのかというのは社会の成熟度のひとつの指標として使えるかも知れない。生産力至上主義の否定がポスト近代の課題ではあるが、そこには一定の「生産力」は必要になるかもしれない。現状では産業化「先進」国であることが、重度の障害者の生存の条件になってしまうことは否定できない。必要ないくつかの制度を維持するためにそれなりの生産力と税収は必要になる。今後、世界が、そして、この列島がどの方向に技術や資源を使っていくのかということが問われているように思う。

手間ひまのかかる民主主義の徹底

 このように、こうあって欲しいと思えるオルタナティブな社会を形成するために一定のコストも払うことが必要となる。そのためのコンセンサスをどのように形成していくのかというのも課題だ。
 つい先日のことだが、障害者自立支援法(以下、自立支援法)の「改正案」が上程された。民主党は野党時代、この自立支援法に真っ向から反対し、障害者運動と協力関係を結んで反対運動を支援していた。その結果、政権交代直後、内閣府に障がい者制度改革会議とその推進室が置かれ、当事者が過半数の制度改革のためのシステムが組まれた。推進室長には障害者当事者のそれなりにラディカルな運動を推進してきたDPI(障害者インターナショナル)日本会議のメンバーの東弁護士が選任された。それは湯浅誠さんによると社会運動の成果を政策に生かしていくために現在考えられるもっともベターな仕組みだった。
 政府が制度設計を依頼したその委員会で、どのような制度が作られなければならないかという議論を行っているまさにそのときに、その委員会には何のことわりもなく、民主党は自民党と公明党が政権交代の前に出した障害者自立支援法の改正案を丸呑みし、それが国会の委員会で採択された。幸いにも鳩山辞任のどたばたでぎりぎり本会議にかけられることは回避できた(もちろん、採択させないための運動も形成されたが)。
 この問題から見えてくることがいくつかある。まず第一に社会運動が獲得した成果のもろさだ。社会運動は獲得した成果の上に安住することなく、常に権力と緊張関係を持つことが必要なことが明らかになった。
 その上で、なぜこのようなひどい裏切りが行われたのか想像してみた。その背景には手間ひまのかかる、当事者中心の民主主義への拒絶があったといえるのではないだろうか。
 現状の自立支援法の問題を一刻も早く何とかして欲しいと願う障害者は確かにいる。しかし、当事者の声を聞くプロセスや、その上で合意を図るプロセスには時間がかかる。私たちの中には、手間ひまのかかる民主主義よりも「良い独裁」を求める声が確かに存在する。ゆっくりでも時間がかかっても当事者の声を聞くプロセスや、その上で合意を図るプロセスが必要なのだというコンセンサスが形成されなければならないと思う。「ゆっくり」は近代の生産力主義に毒された私たちに、時には苦痛となる。しかし、苦痛を多少がまんしても「ゆっくり」が必要なことがある。

「存在の無条件の承認」は社会モデル

 「障害学」という学問が1990年代の後半に日本で紹介された。それは障害者運動を背景に生まれた学問だ。以下のような説明もある。
===
障害学とは、「従来の医療、社会福祉の視点から障害、障害者をとらえ」ようとするのではなく、むしろ、逆に「個人のインペアメント(損傷)の治療を至上命題とする医療、『障害者すなわち障害者福祉の対象』という枠組みからの脱却を目指す試み」のこと
障害と身体の社会学
――障害学における〈身体〉の復権をめざして――
西村高宏
http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/OJ2-2/nishimura.htm
===
問われているのは医療やリハビリで障害者を変えることではなく、障害者が「普通に」生きるのを妨げている社会を変えることだ。それは「障害者」がそのまま生存すること、その生存権が無条件で承認されることでもある。

「障害者にされてしまった」という問題

 また、それは戦争や公害で「障害者」にされたことをどう見ていくのかという話にもつながる。戦争や公害が原因で「障害者」にされた人がさまざまな場面で、無力でかわいそうな被害の象徴として描かれてきた。そして、それは反戦や反公害闘争、あるいは放射能被害への告発の運動の中で多用されてきた。傷つけられたものの視線で戦争や公害を引き起こした加害者が告発されなければならないのは当然だが、その障害者が尊厳をもった生を送ることができる社会、そして手立てがまず用意されなければならない。彼女や彼が告発のシンボルになりえるとしたら、それは単に被害を受けたかわいそうな存在として描かれるのではなく、彼女や彼が尊厳を持って生きようとするその意志を賞賛するような形であって欲しい。
 このことがどのようにオルタナティブ社会と関係するのかと思われるかもしれない。オルタナティブな社会では被害者にされた障害者がただかわいそうな存在だとされないような関係性が求められていると思う。こうあって欲しいと思えるような関係を創出するための制度設計が問われている。


結語にかえて
 以上、障害者政策とオルタナティブについて、思いついたことをあまり脈略なく列記してみた。とても大切なことで抜け落ちていることや、間違っていることもあるかもしれない。しかし、これをオルタナティブ社会について障害者という視点から見ていくための、とりあえずの議論の出発点として提示したいと思う。


=========

いま、読み返してみると、社会モデルって小見出しに使いながら、社会モデルの説明をしてなかったり、抜けてるところは多いそうです。


意見をもらえたら、幸いです。

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