今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』メモ その2

<<   作成日時 : 2010/10/16 12:37   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』メモ
http://tu-ta.at.webry.info/201010/article_4.html
の続き  63ページからのメモ

「価値」の言語で語ることの問題については本体のインタビュー部分に詳しく出てくるのでここでは、そのような主張があるということだけメモしておく。

そして、80年代以降、イリッチが世の中からほとんど省みられなくなった事態と彼の『公式ペルソナをめぐる混乱』はその死まで続いたとケイリーはとても無念な感じだ。ある新聞の追悼記事では「著名な社会学者」またほかでは「文化評論家」、さらに「挑発的宗教的急進主義者」とか「解放の神学のパイオニア」というものもあったという。この最後の紹介についてケイリーは「イリイチは実際には、教会がいかなるタイプの政治にも活動の余地を持たないと信じていたにもかかわらずである」という。これはぼくも誤解していた。しかし、イリッチのように思想と宗教が密接に関連しているような人でも、そうなのか、と思うし、政治に近づくべきでないというのも一つの政治的なスタンスじゃないかと思う。


そして、興味深いのが「キリスト教信仰の裏切りとしての現代西欧」という節
このあたりがこの本でイリッチが語っていることでもある。

この序論の著者のデイヴィッド・ケイリーは以下のように書く
===
イリイチが独創的であるのは、自分の救済のために他者を操作するという特徴的な試みで定義されたものとしての現代の西欧が、キリスト信仰の倒錯であるいう思想である。69p
==

で、この本で練り上げられるテーゼでもあるという1987年のイリッチの話が引用されている。
===
 わたしはあなた方と共に、わたしが西欧、わたしの身体と魂、肉と血を形作った西欧にとっての本質的な構成要素と考える現象を解明したいと思うのです。この西欧の中心的な現実は古いラテン語のフレーズにすばらしい表現を見いだしています。・・・(最善の堕落は最悪)――神の受肉が逆立ちされ、転倒させられる歴史的過程です。わたしは、わたしたちの世を含む神秘的な召命から逆説的に帰結した悪魔的な夜の闇について語りたいのです。わたしの主題は信仰の神秘、わたしたちに啓示された偉大な真理なくしてはこの深甚な悪も生じようがなかったという神秘です。70p
===

これをタイプして、読み返して、やはり、この本で練り上げられたテーゼがちゃんと理解できていないことに気づく。これに続けて、ケイリーは、これを理解するために、どうして「わたしたちに啓示された偉大な真理」が、まさにそうであるが故にユニークな形で堕落しやすいのか見なければならないと書く。

これをイリッチはルカによる福音書の外国人であり差別されていたサマリア人だけが路傍の瀕死のユダヤ人を助けた話で説明している。

ぼくのおおざっぱな理解だが、従来、民族の中の承認された人の間でだけ適用されるルールであった倫理をイエスはその制約をとりはらって無制限に拡大した。すべての人に愛を向けなければならないと。その「自由」ついて、ケイリーはいう。イリイチは諸々の制限から一切解き放たれたこの自由を宣言するときの儚さを認識している。「なぜなら、この自由がおよそそれ自身、規則の主題となるのであれば、無制限ということは、真に恐るべき仕方で人間生活を侵食するであろうからである」72p

この最初のキリスト教の個人的召命としての隣人愛が4世紀の教会の形成と権威化によって事態が変化していくという。ここはこんな風に書かれる。
===
信仰、希望、そして隣人愛に向かう気質は制度として確立された宗教となり、司教たちは人を裁く権力を授けられ、教会はその社会的地位を慈善の制度を創出することで固め始めた。これがイリイチの、最善の堕落が最悪となる歴史の発端である。76p
===

そして、この節の最後にケイリーは「つまり、信仰が集中しなければならなかったはずの自己批判と自己認識へと人を鼓舞することを放棄することで、教会はみずからの投げた影に対して責任をとろうとしなかったのだ」77pという。


で、その教会だが、「教会が世俗権力を持ち、・・・正しい信仰とキリスト教の隣人愛の実行に対してこうした世俗の権力を与えようとする教会の試みは必ずしも非キリスト教的なものではない、というのも、(最善の堕落は最悪という)この仮説の一部」78p う〜ん、どこまでも両義的だ。

この先、神秘的身体とか福音とか出てきて、非キリスト者のぼくにはますますわからない感じなので飛ばす。


ちょっと面白かったのが司祭が「現代のサービス産業に従事する専門家の先駆者」というイリッチの主張。81p なぜ、面白かったかというと、昨日、尊敬してる牧師さんをmixiで見つけて、彼女の職業欄が「サービス業」となっていて、そういえばそうかとちょうど納得してたところだったから。


イリッチの信仰とは何か
===
 信仰は……わたしが信頼しているだれかの言葉に確実性を抱かせ、信頼に基礎をおいたこの知を、わたしが理性で知りうることよりももっと根本的なものにします。
===
ここまでだと、ぼくの抱いている「こうじゃない社会はありえる」ということを信じているという信仰もそうだ。しかし、イリッチの信仰に関する説明はここであわるわけではない。これに以下のように続く
===
これはもちろん、神の言葉がわたしに及ぶということをわたしが信じる場合においてのみ可能となります。(中略)それはまた、わたしの他者に対する関係からも汚れを削ぎ落とします。それはわたしに人々と直に向かい合うよう努力させ、快く、わたしが彼らについて知っている何かとして理解するのではなく、彼らが彼ら自身明らかにしてくれる何かとして――したがって彼らの言葉で――理解するよう努力させます。81p
==
話としては面白いのだが、信仰を語りながら、それを説明するときに他者理解の話につながるその脈絡がわかりにくい。これは何に書かれたものなんだろう。引用元がわからない。


===
1970年代末、イリイチは、彼が力説したラディカルな方向転換が可能であったかもしれない時節が過ぎてしまったことを認識した。・・(略)・・彼はまた1980年代のはじめには徐々に、世界が驚くべき状態変化を被ろうとしているのを認識していた。新たな諸システムの時代が到来し、人々が徐々に「新たに生まれた、幅も厚みもない無次元的サイバネティックス空間」に住む時代が来ようとしているのである。86p
===
イリッチがこんな時代認識を持っていたのを知らなかった。



===
・・・。現代西欧社会は、いかなる意味においてもポスト・キリスト教とは言えず、むしろキリスト教の倒錯した形態を構成しているのだとイリイチが主張するとき、彼は世俗人という神話をはるかに説得的に分析しているとわたしは思う。彼は本書で、・・・現代的観念の全体的布置は・・・すべて、キリスト教というオリジナルの歪曲であると語る。・・・
 イリイチは隠しようもない戦(おのの)きでこの光景を「黙示録的」と呼ぶ。・・・ 90p
===

ポスト・キリスト教っていうのが、よくわかんない。

===
しかし、個々人は、自分たちをシステムの牢獄に閉じ込める諸々の固定観念を拒否する自由も、友情と個人的行為が可能であり続けるシステムの隙間を見つけ出す自由も、保持している。イリイチはそれを「勇気ある、鍛錬を受けた、自己批判的で、人と共同で行われる断念」と呼んだ。そして最後の年月、彼はしばしば、拘束のない世界で人ははじめて倫理的に行動できるのだという幻想を断念し、喜んで彼の取るスタンスに加わる人々を見出した。
===
 その後、ケイリーはイリッチがただ「友」であろうとしたというのだが、イリッチはその断念や隙間から、どこに向かおうとしていたのか、ケイリーはこの書物になぜ「希望」というタイトルをつけたのか。そこもなかなか見えてこないまま、この序論は閉じられる。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』メモ その3
けっこう疲れたので、再び読み返さずにUP ...続きを見る
今日、考えたこと
2010/10/19 04:26

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』メモ その2 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる