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zoom RSS 『生きる希望 イバン・イリイチの遺言』メモ その3

<<   作成日時 : 2010/10/19 04:26   >>

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けっこう疲れたので、再び読み返さずにUP


ここからイリッチがインタビューに答えた部分

抜書き、要約、書き換え、いろいろあり。文脈も抜いているので、気になったら自分であたってみてください。今回は本を早く返さなくちゃいけない関係で、自分の見解は少なくて、ほとんどが本から。

第一部 最善の堕落は最悪


1 福音

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懐胎のイメージは「受肉がなんらかの意味で必要だった」とか「前もって決定されてた」とか「不可避だった」とかの意味で読まれるべきでない。それは純粋な屈託のない自由な仕事。そのことの理解が現代人には難しい。わたしたちに生じることは、偶然か因果関係の必然かのどちらか。この両方の間に、無償の行為、贈り物の領域がある。それは決定論的な因果関係ではなく、ある呼びかけに応じて存在するもの。「無償の行為」という言葉がその感覚の喪失を露にしている。・・・福音書が読者に、それが提示しているのは必要でも偶然でもなく、自由に受け取る人に自由に与えられるあり余る贈り物であることの認識を要求。 98-99p
==
懐胎とか受肉のイメージとかいうのはわからんが、偶然と因果関係のあいだにあるものというのはわかる気がする。

http://tu-ta.at.webry.info/201010/article_6.html  でちょっと紹介した外国人であり差別されていたサマリア人だけが路傍の瀕死のユダヤ人を助けた話だが、これを理解する唯一の方法についてイリッチは「傷ついたユダヤ人を介抱するパレスチナ人と想像することだ」いう。

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新約聖書のいう罪とは、ありうべき赦しの光にあててはっきり照らし出される何か。罪の存在を信じるとは、人は赦されるという事実の賛美。悔い改めは、サマリア人の証する新たな人間関係、自由で、それゆえ欠点もあり、脆弱でもあるが、しかし、自然がやはり癒しの過程で常に働いていると考えられるように、いつでも癒すことのできる人間関係の甘美な賛美 106p
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聖書ってちゃんと読んだことがないのだが、一方には、裏切るものに対して容赦ない感じもあり、こんな赦しのイメージもある。ここもまた両義的。

中国のある改宗者が第二次世界大戦の直前に、ローマまで徒歩で巡礼することを決心した話については、中山元さんがきれいにまとめているので、こっちを引用。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2010/07/post_106.html
===
 隣人愛のテーマについて、イリイチは面白い物語を語る。中国のある改宗者が第二次世界大戦の直前に、ローマまで徒歩で巡礼することを決心した。そのときにどのようにして宿を確保したかという話である。「中国では、自分が聖地に向かって歩く巡礼者であることさえ分からせれば、食物を貰え、施しを受け、寝る場所を与えられた」(p.108)という。人々の道義心と習慣だけで通用するのである。

 ところがギリシア正教の地域に入ると、少し事情が変わる。「教区の運営する家にベッドが一つ空いているから行くようにとか、あるいは牧師の家に行くように」(同)とか言われる。制度化が始まるのである。カトリックの国であるポーランドに入ると、「彼を安ホテルに押し込めるために気前よくお金をくれる」(同)ようになる。寝る場所のない人々には、「特殊な簡易宿泊所があるべきだといるのは、栄光に満ちたキリスト教西欧の観念」なのである。制度がシステムに成長しているのである。

 イリイチはこのことについて「困っている人々すべてに開かれた試みが、客人に厚誼を与える気持ちの低下とケアを与える制度によって置き換えられる」(同)と指摘する。ケアの制度にはもちろん好ましい要素がある。「栄光」の現れでもある。しかしそこで失われるものがあるのだ。「現代の福祉社会が、客をもてなすキリスト教徒の習慣を堅固なものとして拡張する試みであることには、何ら疑いの余地はありません。他方、それはたちまち倒錯しました。誰がわたしの他者であるのかを選ぶ個人の自由は、サービスを提供するための権力と金の行使に形を変えました」(p.109)。まさにその通りである。
===

『自由とは愚かさ』

「信仰の倒錯は単に悪なのではありません」111pとイリッチはいうのだが、ここでいう信仰の倒錯とは、気持ちが権力と金の行使に換えられることだろうか。そして、その後、こんなふうにつなげてある。「それは何かもっとそれ以上のもの。それは罪。なぜなら罪とは、この世の権力に従属している何かを信じようとする決断だから」

「信仰は知識からなっているが、この知識もそれ自体、この世での経験や知性の資源に依拠しているわけではない」「信頼に基礎をおいたこの知を、わたしが理性で知りうることよりもっと根本的なものにする」

「精神分析は・・もっとも魅惑的な分析形式であると同時に、もっとも些末で下品な形式」112p

「西欧キリスト教の歴史を理解する方法の一つは、キリストがわたしたちの規範であり、証人であるような、自由とは愚かさであるという感覚の漸次的喪失。西方教会は、この自由を制度化するのにもっとも真摯な努力を払い、この究極の愚かさを、まず望ましいとされる義務に、それから立法化された義務へと変えた」「あのサマリア人のようなやりかたは愚かしい――愚かしさの極み」113p

「福音によって可能となったこの途轍もない愚かしさの転倒は、悪の神秘を表象」114p
福音によって可能となったのは、愚かしさなのか、その転倒なのか、前者だと思うが愚か者にはわかりにくい訳だ



2 神秘

初期の教会から西方教会へ変わる推移の中で神秘が教会の教えやその構成員の関心事から消えた。時折それは再び姿をあらわすがローマ教会はこの存在に大きな信を置かず、改革教会の大部分もそう。これは驚くべきこと。
===

ぼくはミサや聖餐式を始めて見たときはそれなりに神秘的だと思っていたのだけど、だんだん、そうでもなくなるかも。しかし、「神秘」、いまだに科学が万能の現代社会では確かに評判が悪い


イリッチはもっとも金持ち350人の収入と世界の下層65%の収入が同じということで、もっとも心配なことはその不均衡ではなく、65%の人がお金がなければ生活を営むことができなくなっていることだ、30年前はそうではなかったのに、という。 ・・・ 
 ・・・福音が制度化され、愛がサービスの要求に転倒されてしまうとき、わたしたちの前に立ちはだかっているのは、尋常な悪ではなく、最善の堕落という最悪の悪。118p


目は日の光を捉えるために作られたのだということ、そしてそれは、視覚的効果をたまたま登録する生物学的カメラではないという自明の確実性を喪失。121p

目はわたしにとって価値がある、なぜならそれは見ることを可能にし、世界の中で方向を選んで位置を決めることを可能にするから、などと言ったとたん、わたしたちは新しい扉を開いてしまったというべき・・・。価値観念で善を置換することは・・・永遠に成長を続ける経済学的領域で姿を現す。この領域でわたしの生活は善いものを追求するというより、価値の追求になるのだが、(そこでは)わたしは誰かある別の人間になる。・・・善悪の観念を価値と非価値でと置換することが、それまで罪を根拠付けていた基盤を破壊・・・。122p


少し飛ぶ

10 学校

人間は生まれながらにして学校教育を受ける欲求をもっているという奇妙な起源が、ことさら説明を要するとは誰も思わなかった。241p

神話を創出する儀礼としての学校や福祉媒体。儀礼とはそれに参加するものをある確かな信仰へ導く。儀礼はローカルだったが、学校化は世界中に普及。この儀礼ほど大成功のうちに拡張したものはない。
開発を必要とみなされた場所に学校や現代医療を持ち込むことは、避けがたく否定的な効果を生み出した。これを持ち込んだ人は学校化を、効率で査定されるべき技術と考えた。わたしは学校化は儀礼として分析されなければならないと提案。そうしてのみ、これらの制度の主要な効果が、人々に、彼らが達成しようと考える事例の必要性と良さを信じ込ませることにあるのだということを明白に示しうるから。242-244p

しかし、これらの現代の神話があまりに安易に、あまりに迅速に、民俗学で習うような過去の神話や儀礼に類似したものだとされてはならない。・・・。1950 年代、・・・わたしは歴史の分水嶺を凝視していた。今では歴史家の大方が歴史の分水嶺という言い方を使うが、わたしが意図する分水嶺はより深いもの。その起源が、個人の召命――各自への呼び声――として始まったものを横領し、それに世俗的な堅固さと永続性を与えることで、それを管理し、保証しようとする教会の試みにあるのは間違いないとわたし(イリイチ)は考えている。250p


13 システムの時代

 ・・・60年代、70年代に書いたものの中で、クライエントの現代化、ないしは専門化について触れている。クライエントが、学校システムを内面化することで(と簡単に言うが)いかに自己認識を形成するのかを示そうとした。自分を分類し、ある曲線の中で自分がたまたまそこに当たる点に応じて、他者によってなされた分類に従う。同様に診察、鎮痛、予防介護、そして医療化された死を要求することで、ヘルスケアへの需要を内面化する。車浸しの生活で自分の足をダメにし、スーパーマーケットに行くにも運転席に跳び込む。
 しかし、1980年代のある時点で、わたしはこれらのことについての考え方を変え始めた。人々はわたしが最初に考えていたような程度を遥かに超えてシステムに吸収され、統合されていることがよくわかった。例えば、成績のいい大学生をシステムの課す想定を飲み込むのが早い人間として語っていれば、それは自分自身を知識の生産者兼消費者として語っていて、ある意味では、市民としての特権を認識し、その特権を行使する権利を主張することで、誰に対してもそれを拡張するための根拠を提供するような市民として語っていた。(このたとえば以下、超ややこしい。この前後にもこの部分の説明は続くが略)・・・1960年代にはわたしはまだ「希望の世俗化」を語ることができた。良き社会、望ましい未来は地平線の彼方に横たわっていて、まだ熱い希望を誘っていた。人々はまだいくらかの力が漲るのを感じていた。力の可能性もないのに責任について語るのはナンセンス。なぜなら道徳的責任についての語りが及ぶのは、何らかの形で自分の力が及ぶ限りでのことだから。・・・60年代の責任についての強度の漲る語りはすべて制度の力と、制度への参加に対する、完璧に熱狂的な信仰の反映。力漲る人々は世俗化された希望を楽しむことができた。発展(開発?括弧内引用者)と改革と進歩への信仰の形態の希望。(勝手に段落代え)
 新時代が到来し、特徴的な人、この数年に頻繁に出会ったタイプの人は、社会システムの伸ばす触手の1本1本によって寄せ集められ、呑み込まれた人。そのような人にとって、希望された何かをもたらすことを分かち合うこの可能性は雲散霧消。システムに吞み込まれて彼は、自分を従属システムと考えたり、免疫システムと考えたりする。ここで免疫が意味するのは、環境の条件に応じて変化する代わりに暫定的な自己バランスを保つこと。生命をその直接的な環境を最大限に活用する能力を備えた従属システムとして見る空想的な語り―例えばガイア仮説―は、それがすでにシステムによって吞み込まれた人が自己意識を表現するために使用されると、おぞましい意味を呈し始める。
 ブランドものの衣類を子どもが欲しがるのか、想像するのが難しいとあなた(ケイリーだろう)が言っていた。アイコンのついたTシャツを着ること。(この部分、誤訳じゃないかと思うほどわかりにくい)、わたしにとって、これが(ここで語られていることが特にわかりにくい)表現力に富んだ方法に思える。
 
276-278p

あんまりわかりにくいので、間違いじゃないかと思って、思わず藤原書店にメールを投げようとして、読み返して、やっと意味が取れた。


でも、悔しいので、そのままメールした。内容は以下
==以下、藤原書店へのメール転載==
278pの
 「ブランドものの衣類を子どもが欲しがるのか、想像するのが難しいとあなたが言っていた」以下の部分、誤訳じゃないかと思うほどわかりにくかったです。全体的にわざと難しく書いてるような感じと漢字(「鞏固」とか)もありましたが。

====
わたしにとって、これは・・・表現力に富んだ方法に思えるのです。
====
という文章です。頭があまりよくないので、何度も読み返してやっと意味がつかめました。しかし、同じ内容を書くにしても、もう少しわかりやすい書き方があるのではないでしょうか。わざと読者を遠ざけているように思えます。

例えば、句読点の位置を、「わたしにとってこれは、」とするだけでずいぶん読みやすくなると思います。

原文を読んでいないので、なんとも言えないのですが。
==転載ここまで==


話を戻そう。このすぐ後で「エゴがイコンに達していないロマンティックな空想的社会改良家」という表現がでてくる、この「エゴがイコンに達していない」という形容もわかるようでわからない形容なんだが、なんだか自分のことのようにも思う。イリッチはそういう「ロマンティックな空想的社会改良家」を当節風の人と比べて評価しているようでもある。



14 結び

最もキリスト教的な現代
ここまで、近代は教会史の延長として研究できるという仮説をもとに討議してきた。現在の世界は福音の倒錯としてのみ理解されうることを示そうとしてきた。現代はポスト・キリスト教の時代ではなく黙示録的な世界。287p

預言者の時代は終わったよ。わたしたちが召命を受ける唯一のチャンスは、友人の呼び声だ。これが新しい社会への希望が広がりうる方法だと思う。そしてその実践は、言葉を通してというよりは、愚か者の断念という些細な行為を介してではないだろうか。289p


第二部 反復


20 コンスピラツィオ

この聞きなれない言葉「平和のキス、コンスピラツィオ」についての説明を求められたイリッチは、「『市民』という語を使って答えさせてください」と説明を始める。

アテナイを例に、単に都市に住むもの(後で入ってきたものを含む)が市民ではなく、その子宮の形をした都市に生まれ、その都市の必要に応じて行動するという明らかな目標を持つ同胞、「われわれ」に帰属するのが「市民」であり、自分自身の意思で確立したものではなかった。しかし、ローマ時代の後期にその都市へ帰化することが可能になり、その帰化人のひとりがパウロだった。

市民という概念を辿ろうと試みた人は多かったが、そこでしばしば見落とされたのがそのキリスト教的来歴。キリスト教の最初の1世紀の聖体拝領の集まりは、「わたし」の新たな複数形を打ち立てることを明確に主張していた。この「わたしたち」はこの世に属しているものではない。この聖体拝領におけるクライマックスのひとつがコンスピラツィオ。もうひとつのクライマックスが〔共食儀式〕。358-360p

(このあと、コンスピラツィオの説明らしき文章が続くが要約不可。ともあれ、聖体拝礼に先立つ抱擁とか身体接触に関することらしい、で、現在は司祭の祭壇へのキスという形で残っている儀式)


==
ここまではなんとなくついていけたのだが、市民という概念の由来とそのキリスト教的来歴の関係についてはこの後に「それが市民とどういう関係があるのか」と説明されるが、それを読んでもぼくにはわからない。「この儀礼はその参加者に、コミュニティは、彼らがそこに生まれたがために法的な義務を果たすコミュニティの外側で、存在を開始するのだという観念を告げています」 とされる。その先も引用しようかとも思ったが、やっぱりわかんないのでやめておく
==


21 分水嶺を越えて

ここ数十年の間、わたしがなしえる最も重要な仕事は、わたしがこのような世界に生きていることをわかってもらうことだった。「だまされるな、病院や学校をヒューマニズムで見ようとするな。そうではなくて、ただ問うのだ。この瞬間、この1回的な今、此処で、いまわたしがいるこの今・此処で、自分には何ができるか。この欲求充足の世界から超脱するために。」・・・。(以下、正確に引用して見よう。どれだけわかりにくい悪文かとぼくは思うんだけど、わかりにくく読みにくくして、考えさせるという戦略なのだろうか、だとしたら、その戦略にはまってるかも?) 

わたしには、多くの人々が、ほんの20年前には責任を感じていた、社会的機関や組織を改革するための様々な試みから撤退してしまったことを、とても理に適ったことと思えます。

(ぼくなら、この文章、どう書くだろう)

ほんの20年前には、多くの人々が、社会的機関や組織を改革するための様々な試みに責任を感じていました。しかし、そこから撤退してしまったことが、とても理に適ったことと、わたしには思えます。

(ともあれ、以下のようにその説明が続く(のだけど、よくわからない))。

彼らは、彼らにできる精一杯のことは、否定的判断基準に立って、この責任という観念のもつ環境への衝撃力と拘束力を減少させる努力であることを知ったのです。それは人間が自分の生まれた都市のために行動するのではなく、彼が他者から、それに反応する可能性を贈り物として受け取ったがために行動する人間存在として、ますます自由に、無・政府主義 an-archially に振舞うためなのです。

 市民や責任、権力、平等、必要、権限といったものに依拠しているこの世界の信頼性――そのために人が命を献げる甲斐のある理想としてのこれらの概念の信頼性です――は、揺らいでいます。それも・・・非常に急速に。大部分の人はそれを深刻な危機と見ていて、実際、デモクラシーの秩序の存在にってはその通り。わたしはそれを・・・ある時代の終わりとして見ることも可能であるといいたい。それはコンスピラツィオの世界に向かって動き出していく信頼と安心の気配。
369-370p

(ともあれ、おそらくイリッチはこの数十年というスパンで見て、人々が社会運動から撤退してるということを肯定的にコメントしてるということなのだろうか。また、ここにある、社会へのレスポンシビリティと他者へのレスポンシビリティの違いは微妙だと思う。で、「それはコンスピラツィオの世界に向かって動き出していく信頼と安心の気配」といわれても、やっぱりさっぱりわからない。


22 無償性

ここでイリッチは「当為」によって導かれるようなありかた、道具の時代を否定し、無償性を賞賛している。「無償」について、以下のように説明する。

===
あるものがなされるのは、それが美しいから、それが善であるから、それがフィットするからであって、それが達成したり、構築したり、変革したり、管理したりを意味するからではないといった、無目的な行為を言い表すのに、これほどふさわしい言葉があるでしょうか。

・・・

 現代の一つの相は無償性の喪失である、というのがわたしの強い確信。375p
===

イリッチの希望は無償性の回復。

そういえば、テゼの歌に「ただでくれたのだから、ただで返しなさい」っていうのがあったように思う。これがイリッチが主張する倒錯する前の最善のキリスト教の姿ということになるのだろう。

結語に近いところで、イリッチは「わたしはこの世界で、自分が愛する人々と共に生きること以上に素晴らしい状況があるとは思えません」という。そこにあるのは「当為」の行為ではなく、無償性。それが賞賛されている。
「無償性」の章でこの本は閉じられる。もし、ここまで付き合ってくれた人がいたら、ありがとう。
ぼくは自分でもこれを読み返す気がしないのに。

最後にイリッチは「もっと答えをお持ちですか」というケイリーの問いに、こう答える。
「わたしが話したことが答えだなどとは、誰にも思ってほしくありません」

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