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zoom RSS 『希望難民ご一行様』メモ

<<   作成日時 : 2010/10/23 03:34   >>

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希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想 (光文社新書) - 読んだ直後の読書メーターの感想
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本田由紀さんの反論を掲載するような絶妙なバランス感覚。で、古市君にはあきらめつつあきらめない手法だってあるって言いたい。で、古市君も「あきらめろよ」と書きながら、ほんとうはどこかでひっかかっているようでもある。ともあれ、ピースボートでこんなにもとをとったのは30年近い歴史の中でも屈指だろうなぁと思う。
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すごく読みやすく数時間で読めてしまうのだが、いろいろ勉強にもなった。例によって付箋がついたところを抜書き&感想メモ

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流動化する社会への処方箋として複数の論者が新しい共同体の可能性を提示。。
「安全性と帰属を与える根源」
 Delanty 2003=2006(『コミュニティ:グローバル化と社会理論の変容』)なんと山之内さんが訳している。

アクセル・ホネット
社会的承認の安定した供給がますます難しくなっている現代社会で、その欠如を補償する為の「リスペクト・カウンターカルチャー」。例えば、スキンヘッドカルチャー

ほか、「承認の共同体」の可能性を示唆する日本人の議論も簡潔にたくさん紹介している。
中西新太郎2002.2009、広田照幸2003.2008、湯浅誠・仁平典宏2007、樫村愛子2007、鈴木謙介2008。 41-44p
また、その危険性や問題を説く論者としては以下。
Young『後期近代の眩暈:排除から過剰包摂へ』(45p)。これはちがやクンが訳者だ。ほかに佐々木隆治2009。

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「承認の共同体」に何ができて、何ができないのか、それをピースボートを例に実際に調べたのが本書。
その結論(仮説)は《「共同体」が「目的性」を「冷却」させてしまうのではないか》というもの。46p

括弧が多いのは「共同体」と「目的性」についてはホネットを参照し、「冷却」についてはゴフマンやブレデューを参照してるからだろう。それらの定義も47-48pで紹介されている。

ここまで1章

4章に飛ぶ
著者は小熊を参照し、ピースボートを全共闘運動と比較する。そして、小熊の論を適格だとして(当事者の小熊批判を読んだ上でらしいが)、両方とも「自分探し」(自己の存在確認)だが、
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両者の違いは、理念という「目的性」や、その実現に向けた母体となる「共同性」があらかじめ構築され、「制度化」されたものに参入したかどうか 147p
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だという。

そして、ピースボート(以下、PB)は「承認の共同体」の「商品化」だというのが著者の評価だ。

だとしたら、PBの掲げる政治的な表現はじゃまにならないかと問い、心と政治の問題に言及する。

再び小熊が引用される。ここでの小熊の紹介に笑った。(この本、学者のひとことでの形容が秀逸というのは「反論」で本田由紀も言及してる)
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 ここで再び疲労困憊の小熊英二に出てきてもらおう。小熊(2009)は、現代の日本で政治運動に人が集まらないのは、「心」「生きている実感」「アイデンティティ」といった問題を、社会や政治と切り離して論じる言説が浸透したためであると推測する。
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60年代当時はそれを切り離す習慣がなかったので、心やアイデンティティを考えようとすれば、どうして「政治」の言葉で運動をおこすしかなかったと小熊の論を要約する。
 それと比較して、現代では心の問題を考えるための材料は政治の外側にたくさん用意されている、だからだ、というわけだ。149p

次にPBが運動の目的を「想い」に還元する傾向があることを指摘する。政治と想いをつなげること、PBの政治理念と「ポップ心理学」や自己啓発本の提供する言説資源、その親和性がPBが多くの若者から支持されている理由とされているようでもある。151-152p



そして、5章では乗船した若者の調査から、《憲法9条も「自分探し」の問題に収斂する》と指摘している。189p

また、栗原彬の「やさしさ」を参照しながらも、彼がPBを肯定的に参照していることに反論し、PBは
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制度やシステムを変えるというよりも自分たちの「世界」に自閉するという点で、栗原の理想とは対極にある心情的で閉鎖的な「やさしさ」に近い。215p
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と指摘する。これは運動圏の近くにいるぼくにもなんとなく思い当たることがある話ではあるが、逆に言えば、その閉鎖性をどう突破していくのかということがPBの課題でもあるといえるかもしれない。そして、PBが若者から支持されることと、閉鎖性を抜け出ていくことということの二律背反的な面もあるかもしれないが、そこを突破することは不可能ではないようにも思う。

著者は自分探しとPBをつなげるのだが、同時にPBが不確かなアイデンティティを補完するための共同体にはならなかったとも指摘する。227p

次に7章について。この章のタイトルは「だからあなたはあきらめて」。これはちょっと笑える。

260pあたりでは若者支援団体の「居場所」機能が運動の目的を冷却するという話だ。単純な話で、仲間がいて楽しければ、もう社会変革とかはどうでもいい、ということ。すべてがそうだとは言えないが、それが困難なことをPBの事例が示しているというわけだ。だけど、目的に向かって動くところに楽しさがあるんじゃないかとぼくの年代だと思ってしまうのだが、若い人は違うんだろうか。

そして、著者は「目的性」が必ず「共同性」に冷却されるわけではない、としながらも、PBの例は「居場所」でありながら社会を変えるようなプロジェクトの困難性を示している、と断言する。

さらに、そこから「若者の右傾化」も怖くないという話が導かれる。仮に「左傾化」があったとしても、それも同様に。261p

そして、それらはファシリテーターが狡猾か有能だった場合のみ危険だったり、成功率が上がるという。「プロジェクトの成功は有能な幹部にかかっているというのは、社会運動を含めた様々な組織に共通する原理だと思う」

たいしたことが書かれているわけではないと思うものの、ここですこし気になるのは、彼がファシリテータと幹部という言葉を使い分けていること。

ちなみに「ギャルサー」「イベサー」という言葉がわかんないのは世代の問題なのか。思わずグーグルで調べてしまった。

確かにプロジェクトの成功が組織する側の能力に左右されるという話は、当たり前といえば当たり前の話なんだが、ここで思い出したのはあのヴェーバーの有名な箇所だ。

 「人間の行為を直接的に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍機(ターンテーブルのルビ)として軌道を決定し、その軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。」

山之内靖さんの言葉を借りれば「世界像革命」。この世界像の変革については、この本ではおそらく位置づかない。


著者の古市くんは、ぼくの若い知り合いの一人であるKくんのクラス友だちというのを聞いて、驚いたんだけど、その古市くんがPBは「体制側から見たら、こんなにいいことはない」という話(若者が感じている「現代的不幸」が社会変革に向かわずに自分たちのコミュニティで充足してくれるから)を読んで、ぼくは逆に、とりあえず3ヶ月も仕事しないで船に乗れるという特権を行使できる若者のみんなが社会運動の活動家になることなんて、ありえないわけで、普通に船に乗った若者が普通に陸に上がって、普通の若者に戻ったというだけの話しじゃないかと思う。

おそらく、そこから活動家が生まれる比率は、普通の若者の中から活動家が生まれる比率よりは高いはずだと思う。

で、話は戻るが、いままで著者と書いていたがKくんの友だちと聞いた途端に古市くんと呼びたくなるんだけど、その古市くんは、この本の発見として3つにまとめる(264p)。そこに《「承認の共同体」の限界》という小見出しが振ってあるから、そのことについてというのが略されているのだろう。とにかく紹介してみる。

(1)「共同性」だけを軸にした「目的性」のない共同体が存在すること。

 これって、あたりまえの話じゃないか、と思う。と同時に、承認を求めるだけのための共同体とか楽しさだけを追求する共同体も、そういう目的(「目的性」)があるじゃないかと思って、48pの定義に戻ってみると、《「目的性」とは「何か特別の理念や政治的関心がある」程度の意味だ》と書いてある。ただ和むとかいうのが目的にならないというのはどうなんだろう。


(2)その「ポスト・モダン・コミュィニティ」(Delanty)は社会統合の基礎になり得ないし、社会運動との接続性を担保するものではないこと。

 ここについては山之内さんが訳して2006年に出ている本を読まないと、なんともいえないなぁ。山之内さん、2004年に「受苦者のまなざし」を書いた後に、こんな翻訳をしているのを知らなかった。2006年といえば、ちょうど山之内さんが《「マルクスとヴェーバー」からハイデガーへ》というのを発表したあたりなのに。(そのあたりのことはhttp://tu-ta.at.webry.info/200812/article_19.html参照)。「社会運動との接続性を担保するものではない」というのは、前に書いたように、あたりまえ過ぎるような話じゃないかと思う。


(3)それは承認の正義(Fraser 1997=2003)を担保する共同体ではあるものの、「目的性」の「冷却」によって経済的再配分を求める闘争に転化するわけではないこと。

このまとめもぼくにはわかりにくかったんだが、《「目的性」の「冷却」によって経済的再配分を求める闘争に転化するわけではない》という部分の意味が《「目的性」の「冷却」が経済的再配分を求める闘争への転化を妨害する》という意味ならわかる。でも、どうなんだろう。(ちなみに『中断された正義:「ポスト社会主義的」条件をめぐる批判的考察』(Fraser 1997=2003)もタイトルだけでちょっと面白そうだと思う。)


そして、これらから、《「承認の共同体」は労働市場や体制から見れば「良い駒」に過ぎない》というひとつの結論が導かれ、このことを「若者に居場所が必要だ」といってる人は自覚してるのだろうか、と古市くんは、ちょっと「上から目線」になる。

古市くん、社会運動の経験はあまりなさそうなんだが、ぼくは社会運動にかかわるためにも自分なりの根っこっていうか「根拠地」みたいなものは必要だと思う。それは「承認の共同体」とずれるところもあるかもしれないが、重なる部分もあると思う。


ともあれ、この「承認の共同体」の限界を彼なりに指摘した後で、かれは「じゃあ。一体どうしたらいいのか」と話を続ける。この態度はなかなか親切。Kくんの友だちというのが肯ける。265p

7章3節のタイトルは「ハシゴのない国で生きる僕たち」

で、この節の最初の小見出しは《「やればできる」って言うな!》ここでの勝間和代の紹介も笑えるけど、パス。

そして、次の小見出しはこの章のタイトルでもある《だからあなたはあきらめて》。ここで古市くんは「キャリアラダー(キャリアを上るはしごのことかと思う)の十分にない社会で夢を追うことはリスクがありすぎる」から社会運動や自己啓発に励むよりバーベキューやWiiで楽しんだほうがいいじゃないか、というのだが、ぼくの世代だと、キャリアラダーの罠、だれでもがそこを上れるわけではないことが社会運動のひとつの要因だったのだけど、そうは考えないところにジェネレーションギャップがあるんだろうか。

ぼくは、この本でも引用されている赤木の「希望は戦争」について、鎌田慧だけが有効なレスポンスをしてると思っていて、彼はフリーターについて、「どうせもともと首みなたいなもんなんだから、首を恐れないでちゃんと言べきことを主張して資本とぶつかればいいじゃないか、ひとりで入れる組合もあるし」みたいなことを言っていたと思う。

負けてもともと、とかいう感じでカジュアルに社会運動に参加してくれればいいのにと思うんだけど、どうなんだろ。

で、古市くんは、自分にだって社会の矛盾は見えていると指摘した後で、《じゃあ、誰が「あきらめない」で社会を変えればいいのだろうか》と問い。《それはあきらめられない人が勝手にすればいい》という。まあ、確かに勝手にやってるわけで、それはそうなんだけど、そこがあとで本田由紀につっこまれる部分にもなる。あと、もう少し言わせてもらえば、ぼくなんか1980年から社会運動にかかわっていて、ある意味、負け続けてるわけで、「あきらめないで社会を変える」ためにというより、「半ば、あきらめつつ社会運動に参加」してるようなところはあるなぁ。でも、「こんなひどい社会だけど、それは変わらない」ってあきらめて生きるより「変わるかどうかわかんないけど、いつかは変わるかもしれない、もうそれは信仰の領域だ」と開き直ってるほうが、ぼくは好きだ。

で、古市くんはこの本の本文の最後にヴェーバーを引用する。
===
・・・、現実の世の中が――自分の立場からみて――どんなに愚かで卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」(デンノッホのルビ)と言い切る自信のある人間、そういう人間だけが政治への「天職」(ベルーフ)を持つ。(『職業としての政治』)
===
274p

これはずるいと思う。っていうのは、そんな風にはなれないから、政治には口出しできないって逃げでしょ。で、ここはヴェーバーは間違ってる(はず)。挫けない人間なんていないとぼくは思うし、自分は挫けないと思ってる奴ほど危ない。そんな奴に政治はやらせたくないなぁ。「挫けるかもしれないけど、挫けたら休むけど、運よく立ち直れたら、また参加するから」ってことでいいじゃないか。こんなに高いハードルをわざわざ持ち出して、自分が関われない理由にする必要はないよ。あと、「政治」ってさまざまなレベルでの参加の仕方があって、一生それだけやってるっていうのも、ちょっと歪んでるんじゃないかと思うな。



と長々とメモを書きたくなるだけの本ではあった。それから、ぼくが「共同性」と「目的性」は両立できるんじゃないか、と思った部分については、ちゃんと注25(285p)で両立の可能性に言及してあった。


本田由紀の反論も紹介しようと思ったが、ぼくが書いてるようなことをあっちが先に書いてるし、よく考えたら、ぼくはそれを読んでから、これを書いてるわけだ。一言だけ書くとしたら、彼女が日常の古市くんを紹介してる部分。このスマートさ。日常はそんな風にふるまってるけど、PBに喧嘩を売るつもりはないって言いながら、注17の「小学生か」とかいうコメント、結構プロヴォーキング。確かにここだけ読むと、ぼくも「小学生か」とは思うけどね。

メモはここで終える。


===
P.S.
Kくんが古市くんを呼んで研究会をという提案をしていて、ぼくは面白いと思う。
ぼくにとって、PBの話は、まあどうでもいい。でも、「共同体の可能性」とかそのあたりことは聞いてみたいと思う。

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スピリチュアリティとコミュニティ
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内 容 ニックネーム/日時
ここの書評と↓を読んで、ほぼ内容とポイントがわかりました。どうも有難うございます。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/takahara/archives/2010/10/post_11.html

ついでに、高原氏のファンありませんが、赤木論文の解説?は、「戦争」発言をストレートに受け止めてしまった鎌田氏らが地雷を踏まされた後の「論座」の方(07年7月号)をお薦めします。萱野・高原・中島岳志らの応答がそれぞれ興味深いです。機会があればぜひご一読ください。
アレモン
2010/10/24 21:04

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