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zoom RSS 「不自由の沼のこと」(こうの史代)について、ふたたび(というか三度め)

<<   作成日時 : 2010/11/29 19:23   >>

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こうの史代さんの「不自由の沼のこと」というコラムについて、最初に書いたのが2010/10/27  2010/11/15に大幅に書き直して、その翌日から、再び書き足していた。そして、しばらく放置。

いま、http://tu-ta.at.webry.info/201010/article_10.htmlに残っているのは2010/11/15に大幅に書き直したもの。やっぱりわけがわからないので、また書き直してみる。2010/11/15に書いたのは残しておこう。

この短いコラムが、なんだかすごく気になる。そういう意味では考えさせるいいコラムなのだと思う。結論とか論の進め方に違和感はあるのだけど。

一応、再び書いておこう。このコラムは『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』高橋哲哉・斎藤貴男編・著(日本評論社2006年7月)に収録されている。


子ども時代のクラスでのいじめの話から始まって、結語部分には、以下のように書かれている。
===
 戦争を描いた作品や体験談に、じつは私はときどき違和感を覚えてきました。最近ようやくそのわけがつかめてきました。戦争をした人はみんな、とても口にできないような加害と被害の「不自由」な記憶を抱えているのです。それでも、空襲で奪われた日常を「何の罪もなかった人たちの日常」としか説明できない時代を生きた人たちなのです。私たちは彼らの言葉の裏を察し、これからの世代に伝わりやすいように補い、それを正しいかどうか本人たちに確認をとれる、ほぼ最後の世代です。戦争のすべてなど、私たちだけでなく彼らだって永遠に知りえません。だから超えられない壁を勝手に設定して目をそらすのはやめようと思います。(最後、少し略)
===

先日もここについてのコメントを書き直したが、また違う感想を抱く。


(1)《戦争をした人はとても口にできないような加害と被害の「不自由」な記憶を抱えている》
しかし、
(2)《空襲で奪われた日常を「何の罪もなかった人たちの日常」としか説明できない時代を生きた人たち》

ぼくのようにあまり頭がよくない人間には、いまだにこの二つの文章をちゃんと読みこなすことができない。

まず、(1)の文章をどこで切るのかを間違っていたと思う。2010/11/16、つまり書き直したものをUPした翌日、これを読み始めたとき、、《口にできないような加害》と《被害の「不自由」な記憶》に分けて考えてしまった。しかし、ゆっくり読み直すと「加害と被害」をワンセットにして考えるのが読み方としては自然だと気づく。

つまり「とても口にできないような」という形容は「加害」だけでなく、「被害」にもかかり、「不自由」な記憶はそれが両方あることで不自由な記憶になる。

最初このメモを書いた時は《加害と被害の「不自由」な記憶を抱えている》という部分だけを切り取って「当たり前といえば当たり前の話」と書いてしまった。しかし、よく考えるとここは当たり前と書けるような部分じゃない。

空襲が例に出されているが、とりわけ一般家屋に向けた空襲という戦争行為は、一方的な加害・被害の関係が成立する。つまり、空襲する側が加害で、被害を受ける側は純粋な被害者。そこには力の圧倒的な非対称がある。しかし、こうのさんはそこでの被害者もまた、被害の記憶だけでなく、加害の記憶をも抱えていると書く。単なる被害者としてしか見られなかった人々の加害性に注目する。人間、そして戦争に対する平板ではない重層的な理解。

こうのさんの「この世界の片隅に」には、確かに、一般的には戦争被害者と呼ばれる人の、平板ではない重層的なありようが描かれていたと思う。その話の中には《とても口にできないような加害と被害の「不自由」な記憶》が描かれていたのかと今になって思う。


また、《空襲で奪われた日常を「何の罪もなかった人たちの日常」としか説明できない時代》ということについて考えてみる。

その時代はいつからいつまでだろう。何がそうさせたのだろう。

さきほど重層的な理解と書き、また同時に空襲被害者というのは客観的には純粋な被害者だと書いた。とくに、空襲を行った米国がそのことをなんの反省もしていない中で、その加害−被害関係の中での被害者性はもっと強調されていいかもしれないとさえ思う。そこには加害者がいたのだ。丸木スマは「ピカは人が落とさにゃ、落ちてこん」といったが、空襲は天災ではない。そして、とりわけ当時の空襲の多くは広い地域に無差別に降り注いだ。そういう意味では「空襲で奪われた日常」は「何の罪もなかった人たちの日常」と呼んでもいいようにも思う。勝者の戦争犯罪がもっと明確にされる必要がある。

しかし、同時にその被害者の多くは戦争の開始と継続を支持していたというのも事実だろう。反戦・厭戦的な言辞が厳しく取り締まられていたというのも事実だが、積極的に軍国少女、軍国少年、あるいは「軍国成人」「銃後の女性」として戦争の継続、勝利的展開を願って推進してきたものも少なくないはずだ。その時代を生きた人の多くは、そういう意味では戦争の継続に加担した人々、ということになる。

それが「罪」なのかどうか。「罪のない人間なんていない」という観点から言えば、それは罪なのだろう。とはいうもののそれは、空襲という形で罰せられなければならないような罪ではないはずだ。それが無差別爆撃を正当化することはできない。



こうのさんは《空襲で奪われた日常は「何の罪もなかった人たちの日常」としか説明できない時代を生きた人たちなのです》というときのその時代とはどんな時代なのか。それはいまでも続いているのか、そして、そのようにいうことで何を表現したかったのか。

戦後しばらくしてから、比較的長い期間、そんな時代は続いていた、あるいはいまも続いているように思う。

戦争文学(原爆文学もふくむ)の中には、被害と加害をわかりやすく描いたものも少なくないかもしれないが、すぐれた戦争文学はひとりひとりの中にある加害性と被害性を重層的に単純ではないように描き、戦争の真実を描こうとしている。

そのように一筋縄ではいかないありようをまだ生き残っている人たちから、インタビューで引き出すのは容易ではないだろうと思う。しかし、そのような営為もまた求められている。

どう考えてもそんな時代に戻って欲しくはないとぼくは思うが、その戦争の侵略性と激しい暴力性を隠蔽し、「南京事件は小さかった」「戦時性奴隷のほとんどは自発的な商行為だった」といいつのる人は少なくない。日本の戦争犯罪に向き合うのがどうしてもいやだとしか思えない一群の人々。自らの誤りを認めて、反省しようとすると「自虐史観だ」と言い立てる人々。そこにも平板な歴史認識があるように思える。その逆にも自戒は必要かもしれないが。

戦争に参加したほとんどのステイクホルダーが、さまざまな位相で被害と加害、両方の側面を含み持っていたということもできるかもしれない。

どうすれば、その悲惨な歴史を繰り返さないことが可能になるのかということが問われている。

まっとうなありかたとして、自分や自分につながる人たちの問題や犯罪性、暴力性をちゃんと見るということがその前提になるのではないか。自らの見たくない部分に眼をふさぐことは、犯した過ちを繰り返すことにつながることになる。

戦争の相手側がさまざまな問題を抱えていたのも事実だろう。しかし、それを言い立てても。自らの間違いを消すことはできない。相手側の問題など見なくていいとは思わないが、まず問われるのは自分や自分につながる人たちが何をしたのか、そのどこに問題があるのか、ということになるはず。


《空襲で奪われた日常を「何の罪もなかった人たちの日常」としか説明できない時代》と呼ぶとき、何がそのような時代を成立させたのだろう。さっきも書いたが、空襲被害は、それだけ見ると、確かにそのようにしか呼べない側面はある。ここで、こうのさんは《何の罪もなかった人たちの日常」としか説明できない》ということの限界や問題を指摘している。



こうのさんは、このコラムのいちばん最後の部分で以下のように書く。
===
私たちにも、いじめなど、知っている不幸の延長上に戦争が存在することなら想像できます。そして、私の心の沼に語りかけ続ければ、20年前のこともこれからのことも、いつかいい解決方法も浮かぶだろうと思ったりするのです。
===

《いじめなど、知っている不幸の延長上に戦争が存在することなら想像できます》 とこうのさんは書く。
確かにそれで想像できる部分はあるだろうし、そのリアリティはとても大切なことのように思える。しかし、それだけでは足りないのもまた、事実だと思う。

ともあれ、これからのために『いい解決方法』は探されなければならない。それは机上ではできないはず。また、こうあって欲しいと思えるそれを実現するためには大規模なパラダイムの転換と、それを可能にする社会運動が必要なのだと思う。(読み返してみて、この部分も愚直な繰り返しだなぁと思うが、ここは繰り返そう)




読むたびに印象が変わるこのコラム。ここからさまざまなイメージが湧いてくる。そして、ぼくの文章はなんだか同じコトを繰り返してる。

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