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zoom RSS 『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(Chim↑Pom他)読書メモ

<<   作成日時 : 2010/12/15 05:50   >>

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『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』読書メモ

直後に読書メーターに書いたメモ
===
11月27日:丸木美術館の学芸員に勧められて借りて読んだ。いろいろなことを考える契機が含まれていることは確かだと思う。ぼくは印刷屋として、この造本と組み版も気になったけど。
===

ブルーのビニール引きの表紙。白い箔押しで文字が記載されている。印刷屋としてはまず、そんな造本が気になる。ビニール引きという表紙は通常、辞書やハンドブックにしか使わない。ハードカバーにクロスを引いた上製本と比較して、どっちが高価だったかは忘れたけど。

このビニールに箔押ししたものを表紙に用いて、見返しとそれを合紙する造本。この本でビニールは飛行機雲の「ピカッ」の地と同様のスカイブルー。そこに飛行機雲と同様の白で箔押しさがなされ、表1のかなり上端に本のタイトルなどが記載され、表1いっぱいを使うように、広島の空に描かれた「ピカッ」という文字が少しデフォルメされ、大きめの点で描かれている。表4には通常の出版物にある二つのバーコードや出版社名などが不恰好なシールで上のほうに張ってある。それはいかにもとってつけた感じだ。

そして、付けられているリボンは普通の本につけられているリボンの倍の幅はありそうなもの。

前後の見返しは全面に千羽鶴の鮮やかなカラー写真が写っている。こんな見返しは見たことがない。

また、本文組版のほとんどはそんなに特徴のないものだが、卯城君の書いた顛末記のみ基本は3段に組まれているが、ところどころ、2段分を1段にした変則の2段組になっている。これも、あまり見たことのない突飛な組版だ。

それが、どのような意図で行われているか、ぼくはわからないし、仮に意図があったとしても、その意図をうまく表現できているかどうかもわからない。しかし、自己主張のあるちょっと「外れた」造本設計であることは間違いない。



この本を読むことになったきっかけは丸木のアートスペースで平川恒太個展『The Never Ending Story』http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2010/2010hirakawa.html
のトークに若手芸術家集団Chim↑Pomのリーダー卯城竜太さん参加したこと。ぼくは行けなかったのだが充実したトークになったそうだ。学芸員の岡村さんに勧められて、若手芸術家集団Chim↑Pomの問題作品、「ピカッ」について書いてあるこの本を読んだ。

「ピカッ」のことは話としては知っていたし、本がでたことも知ってはいた。そして、いつだったかの平和学会で、これについてのポスター発表なども見たことがあったのだが、「ふ〜ん」っていう感じで見過ごしていた。しかし、この本、読んでみたら、なかなかに興味深い。あたりだった。


この件については
Webに掲載されてる
小崎哲哉さんの
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/outoftokyo/bn/ozaki_198/

骰子の眼
原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom─ひろしま展』中止となった問題を考える
http://www.webdice.jp/dice/detail/1103/

もあわせて読むとさらに興味深い。


以下に気になった部分の抜書きとメモ

椹木野衣さんは
==
かつてエノラ・ゲイから見えた「空」
==
という文章を書いている。

そこから引用。
==
実際、過去にヒロシマを扱った数々の作品のなかでも、ここまで薄っぺらで奥行きを欠いたモチーフを採用した美術家を私はついぞ知らない。けれども、逆に言えばだからこそ、このプロジェクトに関心をもたざるを得ないのだ。なぜか、表象不可能な深淵には、中途半端な深みで臨んでもむなしいだけだからだ。「表現の深み」などというものは、言ってしまえばアドルノがアウシュビッツ以後の詩の不可能性を語ったような意味では、ヒロシマ以後にあって、いまだ詩を書こうとする朴訥な行為にすぎない。それどころか、その根源的な表象不可能性にはふれることなく個人の表現をなそうとする愚鈍さにおいて、それは一種の陵辱すら孕んでいる。47p
==

「ピカッ」と「黒い花火」の隔たり

 ・・・Chim↑Pomは・・・非難されるけれども、・・・広島市公認の世界芸術家(蔡國強(ツァイ・グオチャン)のこと)による空の黒い炸裂はなぜ、素晴らしい芸術行為なのかと問う制度論も語られた。蔡のそれは、制度論云々以前に、ヒロシマを表現(鎮魂)に転化しようとするその素朴さにおいて、依然、ヒロシマ芸術の表象不可能性という美術史上、最も困難な問いにはなんら直面していない。・・・
 これに対して、少なくともChim↑Pomの「ピカッ」は、意図したことではなかろうが、彼らが詩にも絵にもけっしてなりえない次元を明確に選択しているということにおいて、ヒロシマを扱った諸芸術のなかでも際立つ側面をもつ。・・・それは造形というより落書きの近似でしかない。・・・「美術」とは到底言いがたい類いのものだ。しかし、再度強調しておけば、それゆえにChim↑Pomがその詩と素朴な表象芸術化(美や崇高)を回避しえていることは確かだ。48-49p

戦後・平和にまつわる困難な問い

 私は先にChim↑Pomの「ピカッ」は広島に投下された原爆を表象するものではなく、原爆投下以後にあらわれた戦後日本の平和を表象するものだということを述べた。・・・そのような平和の表象は、実は日本国の国民の内面がかぎりなくスーパーフラットとなり、「土」を離れ「空」というバーチャルな非・歴史軸に棲むことで、事実上、戦争の加害者たちの内面に重ね合わされるまでになってはじめて可能になるものだ。実際、日本人は誰もが内面において日本を捨てて、アメリカ人になることによって、いまある戦後・平和を獲得した。けれども、それは同時に私たちが好戦主義者になることでもあり、その意味では「平和」を放棄することと同義でもある。あの「ピカッ」が平和の産物だと言うとき、そこにはこのような二重化が存在する。・・・
 この点で、Chim↑Pomの「ピカッ」を一方的に非難できる立場に大方の日本人はいない。・・・いまだにヒロシマを想像する術をもたず、内面を蒸発させて「敗戦という戦勝」を享受することに慣れてしまった日本人たちの内面なき「フラットネス」(「平成」という時代?)を表象していたのではあるまいか。57-58p
===

この椹木野衣さんの文章、Chim↑Pomがどこまで意識して行ったかわからない「ピカッ」という表現が安易であるがゆえに面白いという、その部分をうまく表現しているように思う。このようなテキストがつけられて、はじめてその表現が何らかの意味を持つような、そんな「ピカッ」という作品だということもできるかも。しかし、椹木さんの、この「日本国の国民の内面」というアプローチの方法には違和感が残る。なぜここで、あえて、「日本国の国民」という問題の立て方が必要なのか。確かにスーパーフラットな「日本国の国民の内面」は気持ち悪いが、逆に凹凸のある「日本国の国民の内面」という想定は成り立つのだろうか。その内面にさまざまなグラデーションがあるのだとすれば「日本国の国民」というような限定は不要なのではないか。



次にメモしたくなったのが東琢磨さんの
==
「ピカッ」という〈出来事〉
―不快に感じたのは「ヒロシマ」の誰なのか
==
東さんは両義的に「くだらね!」という。
Chim↑Pomに対しては肯定的に呆れながら脱帽して。
否定的なほうは、彼の表現を借りると、《広島ならではの閉鎖的な「くだらなさ」》に対して。

その結語では、以下のように書く。
===
「怒りのヒロシマ」はいつもまにか、「和解」と「復興」を売り物に、どこかものわかりがいい、しかしながら、その内側に強圧的なものを隠し持った街となってしまった。「ピカッ」はその姿をも照らし出してくれたのかもしれない。「ピカッ」という出来事はいまだ進行中である。より自由で闊達な対話の場としての広島を再建するきっかけとして捉えるべきだと、私も広島の多くの友人たちも望んでいることを最後に記して筆を擱きたい。
===



次は
福住廉さん
==
軽やかに、無邪気に、そして一気に
――新たな「原爆美術」に向けて
==
偶然にも、この件で無人島プロダクションから連絡があったとき、丸木美術館にいたという話から始まる文章。
原爆の図に関して「初発の動機としては被爆の事実を正確に伝えることにあったわけです」と断言しているが、そういう側面はあったとしても、それだけをとりあげて「初発の動機」と呼ぶのは、少し違うような気もする。それはともかく、その文章に続けて以下のように書かれている。
===
しかし、その後「原爆の図」が反核平和運動のうねりのなかで画風を徐々に変化させながら大衆に受容されていく一方で、その大衆性や叙情性を批判的に乗り越える芸術作品が登場したとはいえません[註5]。現代美術はわたしたちの文字通り同時代の表現であるはずですが、その大半はマチエールやらの些事に拘泥するばかりで、原爆や戦争、あるいは天皇制といった、わたしたちの「生」を根底で規定している政治的社会的テーマを、いまも昔も敬遠しているからです。「原爆の図」のほかに、とくに目ぼしい「原爆美術」の成果を残していないという意味で、日本の戦後美術はとてつもなく貧しいのです。
===
この文章のはじめのほうに、丸木を訪れたその日の印象を以下のように書いている。
===
・・・暗い展示室に立ち並んだ一連の地獄絵図に囲まれると、無音の衝撃がわたしの心底にずしりと響いてきます。むせ返るような死の匂いと、時折垣間見える妖しいエロティシズム。これが、噂に聞く「すさまじい寒気」[註1]なのだろうか。
===

「大衆性や叙情性」という言葉、便利だと思う。「原爆の図」を語るときの、ちょっと否定性を込めたキーワードでもある。それが否定的なものとして扱われるべきかどうかは議論があるところ。そういう意味で、「乗り越える」必要があるかどうかも議論が分かれるだろう。しかし、先に描かれたものはあらゆる意味で乗り越えられることはありえる。岡本太郎ファンなら、渋谷駅で受容されていると書いていいのか、異彩を放っていると書いていいのかわからないあの絵(タイトル忘れた)は、それを乗り越えているというかもしれない。

ともあれ、原爆をテーマにしたアートで、社会に対するインパクトとして「原爆の図」に匹敵するものは現在ではあの岡本太郎の壁画くらいしかないというのは事実だろう。そして、あの壁画が核の問題を扱った作品だと知らない人も多い。それは作品のよしあしとは直接的には関係ない話だけど。

また、福住さんはこんな風にも書いている。
===
つまり、わたしたちは戦後の廃墟からの復興を遂げるなかで、その廃墟の原因の一つでもある原爆を内側にとりこみ、いわば血肉化・・・。逆に言えば、だからこそ戦後社会はある一定の復興と繁栄を遂げたのでした。わたしたちの血肉と化してしまった原爆を、政治的イデオロギーに安易に回収されることなく、いかに視覚化することができるのか。この点にこそ、事実の描写と平和への祈りによって成り立つ「原爆の図」には見出すことのできない「原爆美術」の今日的課題があるのではないでしょうか。
===

<事実の描写と平和への祈りによって成り立つ「原爆の図」>という記述もメモしておこう。確かにそのようにいうことができるかもしれない。そして、米国の核戦略のもとにあるいまの日本、あるいは原子力発電の問題も含めて内部化した核の問題という視点も重要だと思う。

しかし、<わたしたちの血肉と化してしまった原爆を、政治的イデオロギーに安易に回収されることなく、いかに視覚化することができるのか>という視点が「原爆の図」にないとは思えない。

署名・焼津というきわめて政治的な作品も、それが「安易に回収されている」かどうかは議論がわかれる部分だろう。

ちなみに
[註1]ではヨシダヨシエさんの「全仕事」が紹介され、
[註5]には以下の作品が紹介されている。
===
・鶴岡政男《人間気化》(1953)
・村上隆《タイムボカン》(1993)《シープリーズ》(1992)
・会田誠《題知らず(戦争画RETURNS)》(1996)
・タノベケンジ《アトム・スーツ》(1997)
その上で、
===
残念ながらいずれも「原爆の図」を上回るマスターピースとして評価されているとはいえない。
===
としている。




会田誠
「スタジオボイス」でのChim↑Pomとの対談、そこで編集者と話していて
===
「大掛かりなニコ動の現実化ともいえ」るという究極のメタファーにたどり着いた。
===

蔡國強
「彼らとは話しましたか」という問いに
==
ええ、・・・けっこう面白い子たちだと思いましたが、以前どういう作品をつくってきたかは知らないし、これから何ができるかもわからないけど、少なくともこの作品には表現力はありましたね。効果もあった。91p
==
私から見ると「ピカッ」はアイデアとして洗練されていて、日本の若者文化を感じます。カタカナで「ピカッ」。マンガな感じは面白いですよ。92p
===

あの「アトミック・サンシャイン沖縄展」で物議をかもしたキュレーターの渡辺真也さんの文章も掲載されている。

丸木の作品や岡部昌生の作品などを例に、「ボルタンスキーの作品を見た時に感じるのと似た、表現上の違和感を感じた」と書いている。160p

また、会田誠のシリーズ「戦争画RETURNS」
の「一日一善」という平山風の今の天皇の絵も紹介している。それに関する会田さんの「平和と慈善をアピールした戦後日本の<保守本流派>が発する独特の匂い、そこに刻印された配線の記憶を、一枚の絵に定着させたかった」というコメントも紹介している。また、イラク戦争が始まる頃、ベン・シャーンの<サッコとバンゼッティの受難>がホイットニー美術館の常設からひっそり消えたことも。

それらのセンスはそんなに悪いとは思えない。ら、だから、渡辺さんもアトミックサンシャイン展の批判にもちゃんと向き合えばいいのにと思う。



長谷川祐子さんの文章「広野のピクニック」から
===
「メッセージではなく刺激でありたかった」
というChim↑Pomリーダー、卯城の言葉は、彼らの立場を明確に物語っている。Chim↑Pomは、テレビや漫画的な視覚刺激に慣れて育ってきた若い世代と旧世代の間のリアリティの相違にふれたのだ。そして、現状の原爆の鎮魂とメモリアルの儀式があまりにスタティックに形式化することによって、とくに若い世代にとって、いまそこにある危機と連動しているリアリティの喚起力に充分ではないと感じたと述べている。169p
===

長谷川祐子さんという人が卯城くんの発言をこのように紹介するのだが、この未完成の「ピカッ」が完成したときに若者のリアリティを喚起することができるかどうか不明。リアリティが喚起されるかどうかは形式の問題よりも、何を扱うかということが大きいのではないか。もちろん、形式の問題がないとは言わないが。

===
 美術館は、非物質的でもろいもの、意志の表明の自由を守り、これをパブリックに伝えていく聖域であるーー。亡きハラルド・ゼーマンの言葉である。・・・。現在、現代美術館のキュレーターは多かれ少なかれ、ゼーマンの意志を共有しているといえよう。174p
===
日本の現代美術館のキュレーターがどれだけこの「ゼーマンの意思」を共有しているか、ちょっとあやしい部分もあるんじゃないかと思う。



光田由里
===
Chim↑Pomの確信度とコミュニケーション過程の自立
===
から

===
 社会面的トピックスは実は言い訳みたいなひっかけ要素でしかなく、彼らの本当のテーマではないように感じます。背後には、違う種類の欲動が作動しているように思えてなりません。いってみればどうしようもなさ、とてもいうのでしょうか、徒手空挙で生きることのリアル、あるいは無策だけど無為ではないときのやけっぱちな勢い。笑えるけど背水の陣なのだと感じさせる、ナンセンスっぽさとセットになった切実ながけっぷち感こそ、彼らの最大の魅力ではないでしょうか。196p
===
・・、近年のプロジェクトとしての作品を遡行しようとするなら、宮川淳が同じ頃に反芸術を論じたときに出した「コミュニケーション過程の自立」という言葉のほうがぴったり来るような気がします。
 宮川がまず指摘したのは、・・・つまり、制作過程そのものが作品の意味を作るのであって、もはや前もってなんらかの意味をあらわすために制作するのではない、というのでした。宮川はこれをスタイルの変化とみなしてはならないとし、「表現概念それ自体の価値転換」なのだと指摘しました。表現の目的や意味は作品に先行しないという現代美術の核心を、彼は「表現過程の自立」という言葉で説明しています。200ー201p
===
 美術館という施設は、「表現概念それ自体の価値転換」が起きるよりずっと以前に成立した制度で、展示施設になります。つまり作り上げられたモノとしての作品を分類、展示、説明・・・。ところがアーティストの制作が「コミュニケーション過程の自立」に向かうとき、展示そのものの意義は少し変わっていかざるを得ない。そのとき美術館施設が従来の仕事を続けるだけでは、安定した美術の現場とはいえなくなる可能性がある。これは現場で常に感じることです。202p
===

これって、何気なく書かれているが、美術館にとっては、とても大きな転換なのではないか。「社会面的トピックスは実は言い訳みたいなひっかけ」というのについては後述。


特別座談会
から

針生一郎
柳幸典
会田誠
卯城竜太

針生 つまりね、原爆の表現には、どうしても抽象の側面があるんだよ。そのひとつとして、「ピカッ」もとてもいいと思うんだよね。なんでお詫びする必要があるのか。表現の自由の圧迫、抑圧だよ。241p
===
===
卯城 ・・・。俺らが戦うべき相手を失っているように見えるのは、対象を限定したくないからなんです。自分にならいいけど、悪意を他者に向けたくない。今回の「ピカッ」もそうだけど、むしろ対象をはっきりさせることがリアリティを失わせる気がする。

柳 ・・・君らは、渋谷のセンター街のときは直感勝負で考えなかったのに、広島では考えちゃったんだよ。ヒロシマってことでね。

卯城 「スーパー☆ラット」も「ピカッ」も同じですよ

柳 結果的にぜんぜん違うよ。表現の主体性において。
 広島への押しかけメッセージより、その後の対応から派生する社会性にこそ、あの「ピカッ」がメッセージを生み出す可能性があるんじゃないかな。類希な行動力で、期せずして戦うべき敵というかヒロシマの問題の所在をあぶり出したのになぁ。美術で社会を動かすことに諦め気味なところがある会田さんも言ったけど、まさしくChim↑Pomはアートが社会を動かす可能性をアーティストが主体性を保てず後手後手の顛末になったのだと思うよ。
====

「悪意を他者に向けたくない」っていうのが、世代の違いなのかと一瞬思った。しかし、そうではないだろう。そうじゃない若者も知ってる。「こいつは許せん」っていうのを右から表明している若者の多いし、新しいアナキスト系の社会運動を作ろうとしている若者にも怒りはそこそこに感じる。でも、一方でこんな風に「悪意を他者に向けたくない」っていうような若者の声も他で聞かないわけでもない。政治的であろうとなかろうと、ぼくの世代にはあまりこんな感情はなかったように思う。「許せない」って思えることはどうしてもあって、そこに悪意を向けないことなんてできるかなぁ、と思う。行為には向けても、人には向けないということなんだろうか。



卯城竜太
==
Chim↑Pomのピカッ騒動記
==
から

Chim↑Pomは「サンキューセレブプロジェクト アイムボカン」(カンボジアで、これぞセレブのたしなみとボランティアに励み、撤去した地雷で高級バッグなどを破壊、破壊したバッグを自主オークションで販売しそのお金を寄付)が2007年広島市現代美術館賞の大賞を受賞してから2年の間に何度も広島に行き、そのフィードバックに忠実な作品を作りたかった、その要点は3つで、世界と広島とChim↑Pomだと卯城さんは書いている。

そして出てきたのが「ヒロシマの空をピカッとさせる」というアイデア。
それは「光らせる」でも「輝かせる」でも「ピカッと光らせる」でもなかった。
1、ヤバそう
2、バカっぽそう
3、意義深そう
だと。

そして、計画・実行・非難・「謝罪」・被爆者団体の人との話し合いの経過がかなり詳しく報告されている。非難については、そのときのメンバーの日記も引用しながら。

印象的なのは彼らと被爆者団体の代表の人たちとの出会い、あるいは出会えなかった記録。これは坪井さんへのインタビューとかの形でもこの本に収録されていたはず。(本は返しちゃったので確認はできないけど)。

その印象を卯城くんは以下のように書く。
===
・・・彼らは「ガチ」で僕達に接してくれた。特に被爆一世のアツさたるやハンパなくて、僕達への叱咤は一周して必死の激励になっていた。・・・
(長い省略)
・・・とにかく団体の人には救われっぱなしだった。何しろ本音で怒ってくれて、笑いと居場所を提供してくれた。・・・おかげで僕達は広島への愛着を持ったまま、この地を後にすることが出来たのだった。277p
===

そして、卯城くんはこの直後にこんな風に書く。
===
騒動を通して「ガチ」で関わってきた、原爆を背負った街、広島。僕はここの重責と世界の矛盾に、思いを馳せずにはいられなかったのだ。漠然とした平和、手応えのない被爆の記憶。そんな僕達にとっては抽象的な現実を、広島は実感をもってずっと世界に語ってきた。しかし世代交代が進み、もうその実感も、想像や教育に引き継がれ・・・
===
《「ガチ」で関わって》初めて見えてくる地平なのだと思う。そうでなければ、「漠然とした平和、手応えのない被爆の記憶。そんな僕達にとっては抽象的な現実を、広島は実感をもってずっと世界に語ってきた」というようなセリフはなかなか言えない。この本にある東さんの文章もまた、実感をもって語ることが出来ずに制度化していくヒロシマに触れられている。


で、他の気になる部分も引用しておこう。
===
 今や多くの日本人にとっては、原爆、核兵器は眼中に入ることもなくなった。原爆は過去のものとして確定し、地雷となって潜在化した。そしてアスファルトで分裂されたその地中に、地雷のように恨めしく、
ひっそりと埋まってしまっていたのだ。
Chim↑Pomが踏んだ地雷は、まさにそれだったんじゃないかと思う。
舗装された道に埋まる地雷―。
(略)
今までもChim↑Pomは…いろんな地雷を踏んできた。
しかし今回は強烈だった。死ぬかと思った。
(以下略)
===

さらにこの卯城クンの文章のなかに囲み記事で2008年に広島市現代美術館に提出した「ヒロシマの空をピカッとさせる」と「リアル千羽鶴」の企画意図を短く再構成したものも掲載されている。「ピカッ」の企画意図の冒頭で「原子爆弾」と「ピカドン」の違いについて書かれている。「天国と地獄ほど隔たりがある」という。そこから一部引用
==
「原子爆弾」は翻訳できても「ピカドン」は翻訳できない。なぜならそれは言葉にならない歴史を背負っているからだ。
==
 日本は「平和」だ。喜びも悲しみも、芸術も政治も、貧困や殺人さえ、すべて「平和」の中だ。「平和」の実感は被爆者の死とともに失われ、僕たちはこの正体不明の「平和」にこれからも依存する。だけど、人類は自ら刻み込んだトラウマに向き合いつづけなければならない。さもなければ「平和」の尊さに気づくことも、それを守ることもできない。
==

この企画意図は囲み記事だけど、すごく小さな文字で組んである。あまり読まれたくないというようにも見えないわけではない。そこから連想したのが、この少し前で紹介した光田さんが書いてる以下。
===
 社会面的トピックスは実は言い訳みたいなひっかけ要素でしかなく、彼らの本当のテーマではないように感じます。背後には、違う種類の欲動が作動しているように思えてなりません。
===
 最後まで読んでみて、この「社会面的」というのが気になる。見方によってはChim↑Pomにとって「社会的トピックスは実は言い訳みたいなひっかけ要素」とも思えるかもしれない。でも、この本を読んで、卯城くんたちは意外と本気で社会に向き合おうとしてるんじゃないかと思えてきた。本気が示す「向き」っていうかベクトルが古い人(ぼくもだけど)には伝わりにくいけど。

光田さんはここでどうして「社会面的」という表現を使ったのだろう。文脈的には「社会的」としたほうがしっくりくるようにも思えなくもないのだけど。読み返すとChim↑Pomもけっこう社会的だと書いているようにも思える。「社会的」と「社会面的」微妙だけど、「面」のあるなしで意味が逆になるような感じさえある。




広島市現代美術館の歴史といまどうなっているのか、というような話や道面さんが書いてるものへのコメントもしたかったんだけど、本を返したので、とりあえず今日もここまで。



P.S.
Chim↑Pomに対抗してMan↑Komっていうのがあるかと思って、グーグルで探したけど、なかった。

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『反アート入門』 読書メモ
以前からずっと読みたいと思っていて、かなり前に借りたのだが、3・11を挟んで、ずっと読めなかったのをやっと読んだ。 でも、かなり興味深かったので、やたら長いメモになった。いつものことながら、自分用のメモなので正確さや品質は保証しません。(きっぱり) ...続きを見る
今日、考えたこと
2011/04/03 22:02

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