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zoom RSS 『移行期的混乱』メモ

<<   作成日時 : 2011/01/06 01:29   >>

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平川克美さん著『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』筑摩書房
読書メモ

もう少しまとめてからアップロードしようと思ったが、面倒になったので、ほとんどまるっきりメモのままアップ。いつものことながら、自分用なのですみません。


大田区の図書館でしばらく順番待ちして借りたのに、いまは順番待ちはなくなっている。それにしても、大田区、この平川さんや内田樹さん、あるいはこの本にも出ている小関智弘さん、そして前から言ってる石垣りんさん、こういう地に足の着いた人たちをもっと資源として使えばいいと思う。



以下、読書メモ


なんだか、ぼくも混乱してざっくり読んだ。
移行期だから許せ。

 息の長い時代背景の変化と、めまぐるしく変わる現象が共同して現在を構成している。第一章「百年単位の時間軸で時代の転換期を読み解く」は、この複合問題を考えるために現在を規定している時代的文脈を解体する試みである。
 いや、本書は全体としてわたしたちの「現在」とは何なのかを問いかけるために書かれた…。…それを知るためにはわたしたちが現在用いている言葉遣いや価値観や金銭観、労働意識といったものが何であるかを知る必要があり、そのためにはそれらを解体する必要があるというのが本書でのわたしの立ち位置… 15p


少なくとも、今後の経済政策や、企業経営の戦略立案の中に、経済停滞あるいは経済縮小における、生存戦略を描いておくことの必要性は誰も否定できないだろう。
 その戦略を描くためには、人口が減少し社会が成熟しきった時代における労働観・価値観の再構築を、あらためて行う必要がある。 43p



沢木耕太郎『危険な宰相』から:池田内閣の参謀、下村治
「…ゼロ成長だからといって悲観ばかりしている必要はありません。経済がゼロ成長に適応してしまえば、不況もなにもない静かな状態が生まれてくることにある。…いまは高度成長に身構えていたものをゼロ成長に対応できるように変えなければならない。そこに混乱が起きる原因があるんです。…膨大にある設備投資関連の産業は整理されていくことに…。しかし、その代わりに、これまで設備投資に向けられていた資源と能力が解放され…。…それを生かして、生活水準の充実や環境条件の整備に…」
本書のテーマのほとんどをこの下村の言葉が簡潔に語っている63-64p


「それが、働くことと生きることが同義であるようなひとびとなのですね」…小関さんから頂いたお手紙のなかに書かれていた言葉を口にした。
 それに対するこたえとして、小関さんはひとつのエピソードを語ってくれた。
 それは、あるとき池上本門寺の近くのテーラーに行ったときの話である。テーラーの親父が、一通り採寸をすませた後で「あなた、ひょっとして旋盤工ですか」と言ったのだという。
「旋盤工は、左肩が下がるんですよ。足もふんばるので、ガニまたになっちゃってね」
 小関さんも凄ければ、この洋服屋もまた凄い。69-70p


渡辺京二は『逝きし世の面影』のなかで、…外国人の目に映った「かつての」日本人の独特な労働エートスを、かれらの証言を通して伝えている。(以下、要約)大森貝塚で有名なモース、日本人港湾労働者が唄を歌いながら作業している光景に不意を打たれる。そして、唄を歌っているときに仕事の手が止まり、むしろ唄が主で仕事が従になっているような時間を、非効率的で時間の浪費のように思う。これに対して渡辺は以下のようにいう。

唄とともに在る、近代観念からすれば非能率極まりないこの労働の形態は、労働を賃金とひきかえに計量化された時間単位の労役たらしめることを拒み、それを精神的肉体的な生命の自己活動たらしめるために習慣化されたのだった。

そして、日当は払われていたのだが、労働が彼らの主体的な生命活動という側面をまだ保ち続けており、全面的に貨幣化され商品化された苦役にはなっていなかった・・・。 75-76p


1985年の吉本・埴谷論争(コムデ・ギャルソン論争)の紹介
吉本はシャンデリア付きの建売住宅や「アンアン」に掲載される最新のファッションを、「高度資本主義」の成果のひとつであるとし、コムデ・ギャルソンのファッションについて「ファッションが人体と釣り合いながらも人体と対立して高次な表現になりうることをはじめて知った」と賞賛。

これに対し、埴谷は日本の産業資本が朝鮮戦争やヴェトナム戦争の血の上に「火事場泥棒」のぼろもうけを重ねて蓄積した富であり、「ぶったくり商品」の低開発地域への「進出」によって成し遂げられたものだと批判。そうした富の上に開花した軽重浮薄な文化は、文化の退廃以外の何ものでもない、と。

この批判に吉本は、このような消費生活をもてるほど豊かになったということであり「これこそは理念神話の解体であり、意識と生活の視えざる革命の進行でなくて何でしょうか」と切り返し、週休二日が賃労働者の解放にほかならないと主張。

この対立について、平川さんは今の若い人にはよく理解できないかもしれないが、自分にも埴谷同様の倫理観があるので、手に取るようにわかるとして、以下のようにいう。
吉本が批判したのは埴谷がおのれの美意識が必然化した「厭世観」を、思想めかして、当時の風俗の光景を独占資本による収奪であると語ったその、思想の立ち位置…


そして、平川さんは、当時は本当の意味がよくわからなかったが、埴谷の政治的主義的な対応に「吉本は主題そのものの次数を繰り上げて、イデオロギーからの決別を告げている、あるいはイデオロギーと生活を同列に論じてあやしまない知識人的な思考タイプへの批判」だと評価する。

この論争の評価に、ぼくは違う視角から政治的な評価を加えたいと思う(もとの論争にあたっていないというひどい話ではあるが)。

そう、植民地主義の視角だ。その視点から見て、埴谷の言い分の正当性を部分的に主張することは可能かもしれないとも思う。

日本の労働者のそれなりの労働条件は、いまだにその上に成立しているという視点は、いまでも欠かすことのできない重要な視点だと思う。デザイナーの名前は忘れたが、コムデ・ギャルソンの服のセンスとは別の次元の話だが、その議論の重層性をちゃんと理解せずに、ここでの平川さんの評価だけを若い人が読むと、読み誤る危険は大きいと指摘しておきたい。

東西の対立はほとんどあとかたもないような現状だが、南北という対立軸は明確に存在しており、この移行期的混乱を分析する上でも欠かせない視点であるはずだ。この本、全体を通して、そこへの配慮が足りないのではないかと、この吉本・埴谷論争に関する部分への評価を考えながら、そのことにいま気づいた。読み終わったときは気づいてなかったということなんだけど。

経済成長の不可能性を平川さんは歴史や人口の観点を含ませつつ経済を中心に読み解くのだが、その不可能性は環境的制約からも主張できるだろうし、それだけでなく、「南」の民衆からの制約という観点をぼくは加えたいと思う。「北」の社会はいままでどおり「南」を犠牲にして生き残ることが不可能になりつつあるということが、そう遠くないこれからの歴史のなかで証明されそうな気がする。

とはいうものの、平川さんが評価する吉本の「週休二日は労働者の解放であり、意識と生活の視えざる革命の進行である」という発想については再考する必要があるかもしれないと思う。

吉本はこの段階で次は週休三日に向かうと予想したことが、あたらなかったことについても、この部分で触れられているが、経済成長の不可能性のもとで、その可能性は再び真剣に検討されなければならないのではないか。

ここでの平川さんの
「休暇を遊興以外の休日の過ごし方というものを想像するためには消費文化とは別のモメントが必要だ。それは休日の農園栽培であったり、知的な生産だったり、地域活動であるならば、それはもうひとつの生産労働であり、余暇を充てるだけでは足りない」 89-95p
という指摘は示唆的であるといえると思う。

賃金が多少下がっても、休みをもう一日増やすということが真剣に検討されるべきなのではないか。そのためには本当にそれが必用だと思えるような動機を人びとが持つことも考える必要があるだろう。

そして、平川さんはこの週休二日がもたらした「勤労者の労働に対する意識の変化」に注目する。

(小関さんが言っていた)「働くことと生きることが同義」であるような意識が、「働くのは単に生きることではなく、人生を楽しむための手段として働くのだ」さらに言えば、「生きるとは働くことでなく、遊ぶことだ」というところまで変化したのである。


ここまで断言されてしまうと、「ちょっと待ってよ」と言いたくなる。そんな風には割り切れないだろう。「働く」という行為には、昔から「苦役」という側面と「自己実現」という側面の両方をあわせもっていたはずだ。その割合が変化しているという話なら、まあ、それはそうだと思うが、そんなにドラスティックな変化が80年代に起きたという風には考えにくいとぼくは思う。とはいうものの、ぼくが学生という身分を捨てて働き出したのが80年代だから、それ以前の空気にはちゃんと触れていないという弱みもあるのだが。

「問題なのは、経済成長戦略がないことではない。成長しなくてもやっていけるための戦略がないことが問題なのだ。」141p


平川さんは現在を形成する自己責任、自己決定、自己実現という新しい生活様式の前に、戦後十年の地域社会は、互酬的な共同体といった性格を色濃く持っていた、という。その互酬性は
「お互いに助け合うといえば聞こえがよいが、それはお互いがお互いを監視するような社会でもあり、お互いがお互いの足を引っ張り合うような社会で、共同体の因習からはみ出そうとすれば、出る杭は打たれるといった空気が共同体全体を支配していた142p
と指摘。

ここから、競争原理に向かう過程と民主化の進展として表現されるのだが、それは「戯画としての民主化のプロセスである」という風に説明される。p144

平川さんが書いていることの先を読めば、このように拘束的でない互酬的な共同体をどう構想できるのか、ということになるのではないか。
新しい時代のパラダイムについては、少し先に記述がある。その段階で触れよう。


 …わたしは高度資本主義が行き着くところまで行った先に、待ち受ける社会に対して絶望よりは希望を抱いているひとりである。…。その考想がひとびとに共有されたとき、人口動態もまた平衡を取り戻すはずである。
 しかし、当分の間は、経済成長待望論者による生産性向上と富の収奪のための様々な試行錯誤と、行き過ぎた金銭信仰のために破壊された労働倫理、そして拡大を続ける格差などによる移行期的な混乱が続くだろう。
 こう考えることはできないか。
 この移行期的な混乱は現在を見つめ直すための必要な混乱であり、その後には歴史過程的な人口調整が終わり、破壊された労働倫理が復活し、定常状態に近い経済均衡がもたらされることにあるだろう。そのときには、現在の価値一元的な競争原理が作ってきた時代のパラダイムとは別の、新しい時代のパラダイムが形成されているはずである。いや、順序は逆かもしれない。あたらしい時代のパラダイムが形成されたとき、歴史的な人口調整が終わり、経済的な均衡がもたらされる……。146p-147p



ここに当分はこの混乱が続くというリアリズムと未来に対するあるべき楽観主義が共存しているように思える。しかし、社会運動の一部でありたいと思うぼくにはちょっと不満な面もある。

この移行期に際して、人びとがただ混乱を受動的に見ている限りは、新しい時代のパラダイムは生まれ得ないのではないか、ということだ。人びとの現状に対する危機感の共有と、新しいパラダイムを形成すべく努力を抜きにして、そのようなものは形成いえないと思う。人びとがただ傍観しているなら、その先にあるのは、今以上に野蛮な弱肉強食の世界になってしまうのではないか。

そして、平川さんと鷲田さんは「危機感」を持つことを否定するけど、ぼくは、今は危機感を持ってもいいんじゃないかと思う。確かに「左翼万年危機説」というのがあって、ぼくが社会運動に関わり始めた80年代にも危機だって言ってた人はおり(確か山川暁夫さんなんかも言ってたと思う。有田芳生さんの師にあたる人だ)、ぼくも影響を受けたけど。環境的制約と経済成長を主張するメインストリームの強さと、それに対抗する主体の弱さ(とりわけ日本での)を考えると、やっぱり危機だとぼくは思う。(田中優さんの『地球温暖化/人類滅亡のシナリオは回避できるか』なんかも参照)

「人びとがただ傍観しているなら、その先にあるのは、今以上に野蛮な弱肉強食の世界になってしまう」という傾向とこの間の排外主義の蔓延を関連付けて考えることもまた、可能になるのではないか。


ともあれ、これに続いて、新しいパラダイムとは何かという話だが、それをひとことでいうことはできない、と平川さんは書く。ただ、どのように考えてはいけないかということは言うことができると。

それは成長段階での思考の延長ではなく、経済成長を前提とした指針で行動してはいけないというある意味、文脈から言えば当然のことが書かれた後で、移行期的混乱のなかにこそ、あたらしい時代のパラダイムを示唆する萌芽もまた宿っている、という。147p

期待を持たせるその萌芽について、この直後では語られない、っていうか、それとして明示的には語られていないようにも思う。直後で語られるのはミレニアムからの10年間に多発した企業によるさまざまな偽装事件のことだ。その理由を平川さんは
「経営者たちは倫理観が喪失していたがゆえに禁じ手を使ったのではなく、市場原理が生み出した経営の倫理(利潤を出すこと)に過大に従順であったがゆえに禁じ手を使ったということである」(156p)


格差ではなく「格差」と表現したのは、いわゆる統計的な格差だけを問題としているのではなく、意識的な「格差」が拡がっているということを問題としているからである。160p


問題の本質とは、社会の中流中層に位置するコアメンバーが、明日はそのコアメンバーから除外され、やがては社会のフルメンバーからも除外されるかもしれないという心理的な不安定さの中に生きており、その心理的不安定さが「格差という物語」を増幅させているということである。164p



平川さんは「格差の問題は格差意識の問題であり、経済成長を待望する限り格差は再生産されていくことになるだろう。しかし、…経済成長が止まった後には、個人にとっての格差意識は後退し、社会にとっては絶対的な貧困の存在をどうするのかという政治課題がクローズアップされることになるはずである」とし、その政治的対処のためには
「納税者ひとりひとりの心理的な土壌が、競争から共生へと変革される必要がある」
という。さらに続けて
他者との「差異性」が主題となるような生き方よりも、他者との「共同性」が主題となるような生き方が規範となる必要がある。166p

という。その変化が必要だとぼくも思う。
それはヴェーバ−=山之内がいうところの「世界像革命」という話にもつながるのだろう。

中小・零細企業が生き残っていく方法は、最低の採算ベースまでダウンサイジングしてゆく以外にはないと思う。177p


これと、雇用の確保をどうつなげるか。家族的な靭帯に支えられてきた中小零細企業での雇用をどうしていくかというのが大きな課題になるのだろう。


平川さんは「増加する30歳代の自殺」というデータを示した後で、その要因は、日本政府が言っているとされるような「セカンドチャンスを許さない社会」というところにはなく、その言葉で説明されるような人間理解にあるという。
「互助的な人間関係ではなく、平等なチャンスを前提とした競争関係」しか見えないことが人を自殺に追い込む。183-187p


そして、ぼくに興味深かったのは以下の記述だ。
いまのまま無理やり経済成長を追い求め、市場原理のなかでの合理性のみを追求していこうとするなら、混乱は一層その混迷の度合いを深めることになるだろう。(ここまでは平川さんがいままで言ってきたことの延長だが、これに続けて)わたしは、所得再分配のシステムを構築せよとは申し上げない。


必要なのは所得再分配ではなく、
「そういった社会の経済的進歩(民主主義、市場経済、フリートレード、人権の拡大をこの前で例示している)と、経済的合理性の及ばない人間的諸活動を分別する知を早急に立ち上げる必要があると申し上げているのである」


そして、その具体性を以下のように説明する。
家族や、共同体、地域社会とその中での、医療、介護、教育、宗教といったことを等価交換の価値観で計量することに、どれほど慎重になるべきかを学ぶべきであり、それらを学ぶ適切な言葉遣いを立ち上げることが今要請されていることだろうと思う。

さらに
そのことによって、移行期的な混乱が解決されるわけではない。…が、少なくとも移行期がおさまるまでの混乱を緩和させることはできるだろう。


199p-200p


対談から興味深かったところなど
平川:「労働とは何か」を原理的に考えると、原始的な贈与経済的な姿にまで遡る。贈与経済とは他者とのコミュニケーション。喜んでもらったり、驚いてもらったり。ギフトはここから発生。労働もギフトであると見なすこともできる。忌むべきもので少ないほどいいという価値観とは対極にある。6〜70年代までは、日本人にそのエートスがある程度残っていたのではないか。同時に「お金は不浄なもの」という観念があり、貧乏自慢があった。

鷲田:贈与経済は等価交換ではなく、コミュニケーション

平川:等価でない交換のほうが循環型の交換が可能になる
232-233p

 採取や採集、あるいは原始的な家事労働のようなものを想像すると、それらはすべて贈与であるといえるかも。それは同時に家族が生きるために不可欠なものでもある。最初の段階では、一体感をもったコミュニティが生き残るために贈与が必要だったといえるだろう。今だって、家族や子どもを食わすために働くというのは贈与ではある。そのことと働くこと自体に意味を見出すということの間には大きなギャップがあるはず。だとすると、《「労働とは何か」を原理的に考えると、原始的な贈与経済的な姿にまで遡る》というのは何か別のことをさしているのだろうか?


平川:多様化の時代と言われるが、ぜんぜん多様な気がしない。全部、収斂するところはお金。そこを諦めるというか、捨てない限り、多様化なんていう言葉はあまり意味を持たない。多様な生き方というのは、一番強大な権力を握っているマネーを捨てることによってしか獲得できない。

鷲田:時間も同じ。産業社会の前には、より速くという感覚だけでなく、「いや、急いだらいかん、ちょっと待て」という感覚があった。その対立する二つの感覚を一人ひとりが持ち合わせていたが、一次産業の衰退とともに、その感覚がどんどんなくなっていった。これを「前傾姿勢」と呼ぶ。

企業の仕事には全部、「Pro」って言葉がつく。プロジェクトを立ち上げるに当たって、プロフィットのプロスペクトがあるかどうかが問われ、いけるということなら、プログラムが作成され、プロデュースに入り、プロモーションをかける。仕事が終われば、約束手形(プロミッソリー・ノート)、利益が上がった会社はプログレスしたと。 で、うまくやった奴には出世(プロモーション)。全部「Pro」(前もって)という接頭語がついている。これが「前傾姿勢」。来年、再来年のトレンドを読んだ企業が勝ち。だから、センスも前のめりになる。この時間感覚を改めて「Pro」という言葉で自分の仕事を語らずに事業を考えるぐらいの覚悟が必要。

平川:「Pro」で考えると現在をないがしろにしてしまう。

鷲田:未来のために現在を犠牲にする発想

平川:大事なのはプロセス。これも「Pro」だけど。
238-241p


そして、平川さんが賞賛している小関さんや、そのテーラーの親父こそが「プロ」フェッショナルなんじゃないかとも思うな。




自立論
鷲田:自立というのは、いざとなったらインター・ディペンデンスの仕組みをいつでも使える状態にあること。

平川:企業社会においても、これからそういう互助的な経済が生まれてくるんじゃないかな。242-243p


このあたりは非常に似ている中村尚司と内田樹の自立論に似ている。

鷲田:「世帯主」と「扶養家族」という言葉は嫌い。243p

ここにもインターディペンデンスが存在しているはず。

リベラル
鷲田:リベラルという言葉を英和辞典を見ると、「自由な」という意味は4番目。1番目は気前がいい。He is lberal of his money で、金を自由にできるということではなく、金離れがいいという意味。2番目は「たっぷりある」3番目は「寛容である」。リベラリティという名詞形があり、気前の良さという意味。
気前のよさの交換みたいなイメージでリベラルという言葉を考えたほうがいい。246-247p


そうかと思う目から鱗的な話。あとで、自分でも辞書で調べてみよう。ネオリベがリベラルとはかなり遠いところにあるという話はそうだと思っていたが、そのリベラルについても思い違いをしてたのだろうか?


危機
平川さん百年に一度の危機ではなく、大きな転換期だという認識を、少なくとも哲学者や経済学者には持って欲しいといい、それを受けて鷲田さんは、「百年どころじゃない、人類始まって以来の危機だぞ」という言い方は、また前のめりを助長する危険があるので気をつけたほうがいい、今を充実させるという観点が必要だということを強調する。

鷲田:「危機」っていう言葉に乗ってはいけないんじゃないかな
平川:そうですね。危機といった瞬間に思考停止になる。
・・・
平川:立ち止まって考えて、見るべきものを見るっていうことなんでしょうね。でも、今の社会ではなかなかそれができないですね。
248-250p



2010年の新成人の数はベビーブームの新成人の約半分。戦争という事態の影響があるとはいえ、トレンドとして子どもは減り続け、急激に長期的に減少している。そこにどんな理由があり、どんな意味が潜んでいるのか。この前代未聞の事実に対して、わたしたちはどのような考え方をしたらいいのか。本書はまさにそのことをひとつの「問い」として立てたことからはじめられた論考を綴ったものだ。その問いが戦後日本人の集合意識の変遷の解明へと向かった。その中心にあるのは日本人の労働に対する意識の変化。何がこの変化をもたらしたのか、と平川さんは書く。252p

その話が現在は経済成長神話の終わりを告げており、「移行期的な混乱」なのだという話になったわけだ。そこのつながりをもうひとつ明示的に解明できていないのではないか、とも思う。ま、読み方の問題もありそうだが。


「本書に結論はないが」という前置きをしたうえで、平川さんが強調するのは「成長ということのピークを超えた現象が、確実にその景観を広げているということ」、「それは歴史の必然的な過程であり、とりたてて騒ぎ立てるほどのことでもない」、「これからのわたしたちの時代に悲劇があるとすれば、それは下り坂に入ったひとつの国家のメンバーがそれに気づかずに成長の夢を見続けることであり、結果として夢と現実が大きく乖離してゆくということ」

そして、以下のような結語に続く
 成長の夢から覚めてみれば、今日と同じような進歩も退化もない平凡な明日が続くことは悲劇でもなんでもない。それが、新しい時代の幕開けであり、それこそがわたしたちが望んでいた社会への転換点であったと気が付く時がくるだろうとわたしは信じているのである。



さっきも書いたのだけど、「『南』の国々が自分たちから収奪するのをやめてくれ」と言い出したときに、日本は平凡な日々を過ごすことが可能だろうか?そのための準備が必要なのだろうとぼくは思う。

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『脱成長の道』読書メモその2 『〈脱成長〉の正義論』について
2011年6月10日 5:17作成 ...続きを見る
今日、考えたこと
2011/06/10 07:39

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内 容 ニックネーム/日時
平川氏がエマニュエル・トッドの視点に立って歴史の必然として、民主主義個人主義社会が社会構造を変え、グローバル化が富の格差、平均的賃金の減少、民主化社会内での社会の内部対立を引き起こされる以上、少子高齢化社会にへの移行のもとで新たなパラダイムを考えるべき時であると主張していることには共感する。我々は、これ以上の無理なグローバル化を追求するのではなく、経済成長の無い社会の中でどのような富の再配分を考えていくかということである。基本的に人口減少は、経済成長なくても個人当たりの富の配分を維持することは可能であり、そのためには子育て手当、企業減税などではなく、人材育成教育と食糧安全保障こそが最も必要とされる人口減少、少子高齢化社会の基本政策である。
ゆめ
2011/01/10 21:51
ゆめさん
コメントありがとうございました。
コメントへの返答が遅れてごめんなさい。

ぼくも平川さんの主張のアウトラインについてはその通りだと思うのです。
確かに新しいパラダイムが必要とされてるはずです。

ゆめさんも似たスタンスですね。
平川さんは富の再配分には否定的みたいですし。

問題はこの時代に即した新しいパラダイムを誰がどのように準備できるのか、ということでもあるように思います。

経済成長神話を超えた新しいパラダイムを作るためのさまざまな場所での努力があります。まだまだ経済成長主義的なメインストリームが大手を振っている社会の中で、そのパラダイムをどのように置き換えることが可能なのか、模索を続けたいと思います。
tu-ta
2011/01/16 04:29

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