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zoom RSS 花崎さんの「田中正造と民衆思想の継承」に関するツイートまとめ

<<   作成日時 : 2011/02/14 19:16   >>

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http://togetter.com/li/97672
で、花崎さんの「田中正造と民衆思想の継承」に関するツイートをまとめています。

ここから、読んだほうが、読みやすいかもしれませんが、ここからテキストデータを抜き出し、重複してる部分をなるべく消して、少しだけ書き足して、以下に転載します。

ほとんどが引用ですが、ほんの少しだけ、コメントをはさんであります。


====


【田中正造と民衆思想の継承】 #bookmeter http://t.co/j4kFnWg via @bookmeter 花崎さんのライフワークともいえる田中正造研究。もうひとつ読みきれない感じが残る

引用:私が思うに、正造が「研究」というとき、彼がなによりもめざしていたのは、研究する対象の群れに入って身体とその感覚をつうじて生活を体験する、その学びのことなのではないか。67p

引用:正造はこうした思想を「学」として世に問おうという意思は毛頭ない。…彼はどこまでも自分の実践から抽出し、練り上げた考えを自分の覚え書きとして書き留めているのである。76p

引用:1909年7月8日田中正造の財産所有に関する考察。財産という名称がつくものがあれば、失うことは避けたくなる。その性質が悪いものは捨てよ。誰にとっても一定程度は必要、という前提。何がその一定の必要か、公益のための運動費、直接他人を救うための費用は必要の限度内。限度よりも多いものは邪魔になり無用、不経済、邪魔なものが増えれば、手数がかかり益なく害になるだけ。一個人が多く所有すれば社会の損。個人所有が限度以上になれば社会は貧困に陥る。これは社会にとって害。それなのに利益だとするのはひどい誤り。/ある人が宝を所有するとする。社会公共の宝でないものは真の宝とするには足りない。宝の尊ぶべきは必要不可欠なものであること。紙筆、墨、膳椀、鍋釜、五穀、塩、薪、衣服、笠、みの、わらじ、…。深く蔵に保存する古器物、書画、書籍は古来を考える宝で高尚なもの。

 この正造の思想を花崎さんはサブシステンスの概念と一致する、と書く。彼のその定義は「生命の存続と再生産のシステムを基準にした生活と社会編成であり、そういう社会の実現を追求する思想。

引用:公共の宝についての考察は、美の領域に。美術は日常生活では必要ないが、人生思想の快楽を治めるもので宝。蔵に隠して公共に常に見せなければ、その宝を地中に埋めることに似て快楽の趣旨も有用も理解しない宝の持ち腐れ。それでは本義を失う宝か宝でないかは公共の利用に開放されているか否かによる。

 花崎さんは「自然が美と公共性の規範であること、真の宝は私有の否定を条件とすることがはっきり述べられている」と書く。「自然が美と公共性の規範である」という部分がもう一つ不明確であるような気がする。

引用:私利私欲を否定して無主、無縁、無所有の公共性を宝とする思想は、彼が基層文化として身につけていた民衆思想…それは儒教を核とした倫理に由来するが、壮年期に政治家としての活動で依拠した自由民権思想によって民衆主体の民主主義へと練り上げられ、…晩年になって、キリストの教えに出会って霊性を重んずる方向へと深まった…。彼は私利私欲の追求と公共の富の独占の害をきびしく批判…その害をのぞく道を、人道の貫徹と憲法の実現という民主主義に求めたが…具体的に実現する政治と社会の理論構築や組織形成には関心を注がなかった 102p

引用:一切の存在に内在してはたらく霊性に真の価値を見いだし、物質上の財や社会的地位や名誉などの欲を否定して、飾らず作らず、あるがままをたのしむこと、それが彼が到達した心境であった。彼が感得した真理とは、天地自然においては美として、人間においては無私、無欲として、社会においては公益と徳義として発現するものであり、そうした真理は、あるがままの存在の常なる姿のうちにあるという洞察であった。111p

 無私だとか欲の否定だとかを強調されるとひいてしまうなぁ

引用:「衆愚ハ愚ニして天ニ愚ならず」 これは正造が谷中の苦学から到達した最も深い真理である。…、彼は世界を、最低の位置から見つめ、思索するようになった。128p このあたりの記述で、正造にも花さんにも「上から目線」を感じる。降りてきて目線を下げるという意思は美しいけど

承前)新井奥邃の田中正造評価が面白い「…一面は快活で子供のよう…実に恭謙で尊貴の人 …政治の大義…微塵も容赦…ない。彼の深い意思は道を求めることであって人に怨恨を抱く人ではない。…氏は常に貧民の中にあり貧民に同情して貧民のために労す。しかし却って貧民にもよろこばれない」150p 

承前)おまけ、新井奥邃という文字を呼び出すためにググったら、『知られざるいのちの思想家: 新井奥邃を読みとく』というグーグルブックがでてきた。ここから全部読めそう。

承前)前田俊彦さんの章から:前田さんは…「挫折の連続」であったと述べている。そして、 「しかしながら、何度も挫折することができたということに意味があるのではなかろうか。むしろ挫折の繰りかえし自体が、私にとっては大きな収穫であったように思えてならない。新しい権力や権威をうちたてようとこころみるもの、あるいはすでにある権力や権威をまもりぬこうとするものにとっては、おそらくただいちどの敗北もあってはならぬだろう。それはかならず権力と権威を敵にするものだけが、敗北をすこしもおそれなくてすむのである」。

承前)前田さんの『通信』から「…脳味噌は、人によって上等であったり下等であったりすることはさけられません。しかし、たかが味噌の問題なのです。いくら上等だといっても程度は知れています。ところが、ハートとなるとそうはいきません。万人においてハートは上等も下等もなく、すべて平等に同一…万人は脳味噌において、あるいは腕力において千差万別であることは明らかですけれども、ハートにいたってはなんらの差別もないということが、わたしどもは万人は平等であると主張する最大の根拠でもあるのです」。177p

承前)花崎さんは前田さんをものすごく評価しているのだが、ただ賛美しているわけでもない。例えば以下のような根本的な批判も。「独自なレトリックを使って、現実を組み立てる前田思想には、避けがたくこじつけが含まれていた」176p

承前)安里清信さん:沖縄は…「しっかりした農業生産基盤をもって、買わんでもいいものは買わずにすませる。そうでないというと、生活のなかにゆとりというものがないはずですよ」「石油基地から入る金などはまぼろしのようなものです。だが、たとえばモズクとなると未来にかけて、これは永遠でしょう

「田中正造と民衆思想の継承」で花崎さんは「田中正造から前田俊彦、安里清信へと、自然を「治める」という同じ思想が流れている」というのだが、この場合の治山、治水、あるいは『治海』というときの『治める』という言葉の意味も独特なものだと思う。

承前引用)安里清信の「生存権」の思想は、今引用した発言からも明らかなように、「いついかなる『世』にかわろうと」、「底辺から、自分たちのもっているよさを発見して」、生存基盤に根を張る生活様式を突き出していくものであり、その生活様式を、たんに所与の条件として受けとめるのではない。それは、沖縄戦を契機に、「ウチナンチューとはなにか、ウチナンチューはどのように生きるべきか」という問いへの答えとして彫りだした実存思想であった。

承前引用)近年、社会学やエコロジー論で、この概念が見なおされ、積極的、肯定的な内容で語られている。すなわち経済活動がひとり歩きをはじめ、他の社会活動に有害な作用を及ぼしている状態を改め、他の社会活動と経済活動が調和するような社会モデルとして「サブシステンス」が取り上げられる。また、先住民族の文化と生活への理論的感心への増大、エコロジカル・フェミニズムの立場からの生産と再生産論でも「サブシステンス」が重視されている。安里清信の「生存基盤に根を張る」という思想は。そうした「サブシステンス」の思想・理論と合致しているといえよう。195p

承前)平良良昭「安里先生晩年の思想」から要約安里は生存権の思想を基礎としてどのような主体的政治思想を打ちたてようとしたか?ダグラス・オリーバーを引用「住民が自分達の住んでいる土地を支配しているか否かは、その地域社会が存続しえるか否かを判断する上で最も主要な指標…」(安里は)「自治権―自決権は、生存権の政治的次元を構成する」を強調しようとしていたのだと、僕は思う。 

承前)『海はひとの母である』(安里)から孫引き:「右から突っつかれたって、左から突っつかれれたって、ぼくらは根っこを動かんぞというところに住民運動のホポイントがなければいかん。そして未来にを自分たちで切り拓くだけの自信をどこでつかみとるか。そうでないと住民運動はグラついてもてあそびものになっちゃう。沖縄の場合、たくさんの支配によって苦しめられてきているから、なおさら簡単な運動であっちゃいかん。自分たちの根っこを張って、屋慶名だけで独立国をつくってもいいんだから」(同書139p、花崎201p)

続き)「…外でつくられた思想というのは、自分たちが見たり聞いたりして体験することを自分のうちに消化していく胃薬のひとつくらいに思えばいいんじゃなかろうか。大事なものは自分のなかにあるね。ウチナンチューとしての内部にあるもの。それが大事なんであって、そこから組み立てていくものが人間として本当なんだ」(安里『海はひとの母である』141p 花崎202p 「革命とか変革ということばも私は好きじゃないんだ。われわれの運動の課題は、底辺の人間たちがいかに現実のなかに充実した生活を構造化しうるかということでなのであって、みずからの生活基盤をがっちりさせておけば、おのずから国策を批判して生きるつよさもできてくるはうです」(同書142p)

 と続けて孫引きしてきたが、「革命や変革」って言葉はやっぱりぼくは好きだなぁ。

承前)…面白い沖縄民衆の言葉を、安里が伝えているので紹介…「シメシッチン、コトシラン」…文字で書いたり読んだりはできても、社会的な事はなにも知らんという意味で、インテリに対する批判…。「キラマミーティン、マチゲミーラン」…慶良間は見えても自分のことはなにも知らんということ

承前)貝澤正さん:「米の味を知ったアイヌは、イモやヒエよりもおいしいもんだから、無理してでも米を食うようになって、食生活が大きく変わったかけであります」。「シャモは米を食い、アイヌはヒエを食うものだという長いしきたり」が変わった。

  と、これを花崎さんは否定的にとらえるのだが、・・・ 
以下、ツイッターでは書かなかった補足。やっぱり誰だっておいしいものを食べたい。そのことを否定するのはすごく困難だと思う。いもから米に変わった地域で芋に戻ることができた地域はないという話を聴いたことがある。その変化は何らかのかたちで強制されない限り不可逆的なものなのではないか。

引用:ピープルネスという新造語を発案した友は、この語が多様な民衆の実相から離れて普遍的な本質を想定する本質主義をともなうと考えて使わなくなってきている。しかし私は…ピープルの根っこを指し示す概念として用いることができると考えている 299p

承前)近代国家という枠組みが、外側からは情報、交通、貿易などの全面的なグローバル化によって、内側からは、構成員の多民族化、多文化化しつつある変化によって、改革をよぎなくされ、別の政治体(たとえばより小規模な自治政府の連合体)を構想する必要が生じている。サブシステンスは、国家を所与の必然的単位とはみなさず、より小さい規模の地域循環が可能な規模の社会を要請する。花崎「田中正造と民衆思想の継承」242p

承前)深澤英隆は、宗教の「ポエティックス」という表現で、その領域を…。(それ)とは、宗教の内部に身を置いて宗教肯定の議論を行うのではなく、宗教の外に立ちながら宗教の思想的実践的ポテンシャルを評価し、…遺産を再解釈し、活かそうとする態度を指す。244p

承前)社会運動とスピリチュアリティというテーマでは、もっと明確に言い切っていいのではないか。「人が人を解放する」とか、なぜ社会運動に参加するのかいうのは理論的帰結などではなく、祈りとか、そういったスピリチュアリティに関連するものとしてあるのではないか。



==引用ここまで==


花崎さんが田中正造から得た視点として、ときどき使う「低みに立つ」というのが、ぼくには「上から目線」だなぁと思えてしまう。っていうのは低いところにたってると、ちょっとは上から見てみたいとか思ってしまうからだ。高いところにいる人だけが、「低みに立つ」とあえていうことができる。

それはすごくまじめな態度だと思うのだが、ヴェーバーがいうように「人はあるレールの上を基本的に利害で動く」のだと、自分も含めて思う。そのレールの方向がパラダイムになるのだろう。

そのあたりの「利害で動く人間」でもあり、しかし、やさしさとかの根っこにはスピリチュアリティもある。そのバランスをどこで、どんな風に考えたらいいのかと思う。

花崎さんのいう「低み」の中に、どうしても、そのずるかったり、いんちきだったりする人間が見えてこないのが気になる部分ではある。


中途半端だけど、とりあえずここまで。

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