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zoom RSS 《粂 和彦(さんの)のメモログ》の 『書評:リハビリの夜 熊谷晋一郎』での熊谷さんのコメントに

<<   作成日時 : 2011/03/21 09:29   >>

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気がついたら、福島原発のことばかり気にして、PCに貼りついている自分がいた。ちょっとまずいんじゃないかと思うけど、なかなか抜けられない。
【災害時のメンタルケア】 http://tu-ta.at.webry.info/201103/article_7.htmlに書き写したことを自分で忘れてる。危ない、危ない。

というわけで、ということでもないんだが、自分のブログのアクセス記録から偶然見つけたのが以下。
===
《粂 和彦(さんの)のメモログ》の
書評:リハビリの夜 熊谷晋一郎
http://sleep.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-3bd3.html
===
この書評も興味深かったが、とりわけここでの熊谷さんのレスポンスがとても興味深い内容だった。

一年以上前のやりとりなんだけど。


この本を読む、補助線としてとても使えると思う。
ま、それだけ、ぼくの読みが浅かったという話でもある。
それにしても、図書館で借りたこの本、やっぱり買ったほうがよかったかなぁ?
必要ならそのとき考えればいいか。


で、この書評の1回目のコメントで熊谷さんは以下のように書いている。
==最初の引用開始=
差別や抑圧を受けて来たことを、社会に対して告発するというときに、自らに胚胎した被虐的な欲望をカムアウトすることは、端的に「戦略ミス」とみなされやすいかと思います。
そのため、運動家たちは、当事者の幾人かが内に秘めたそういった欲望を、PCコードに反するものとして、タブーにしてきた。
もしくは、「われわれ」を抑圧する権力によって「胚胎させられてしまった」というような言葉(本書ではその語り口を、「抑圧解放図式」と表現しました)で、裁いてきてしまったように思います。

でも、たとえそれが権力によって胚胎させられたものだということが事実だとしても、それと同時に、一度胚胎した欲望がそうやすやすと上書きできないということもまた、事実だと思います。
そういう意味での、「可塑性」について、社会構築主義の人たちがうまく語れるようになれば、もっと現実的な言葉になるだろうし、もっと鋭い社会批判になりうるだろうにと思って、この本を書きました。

まだうまく書けていないところや、あざとい表現でお茶を濁しているところが多々ある、未熟なテキストではありますが、多くの人の感想を聞いてみたいと思っています。
==最初の引用ここまで==

この「自らに胚胎した被虐的な欲望」というもの、誰にでも発生するものだろうか。
そんなに一般的に存在するとは思えないのだけれどもどうだろう。
障害者運動の活動家に。この手の欲望はあまりないか、あるいは無意識的に抑圧されているのではないだろうか。

どうも「被虐的な欲望」というのをちゃんと把握できてないんだろうなぁと思い直す。
例えば、「痛気持ちいい」というようなことも、ここに含まれるのだろうか。「痛いけど、気持ちいい」っていうのなら一般的にある。マッサージとかで。
心理的にも、避けてきたことを、グサッと指摘されて、開き直れることもある。これらを「被虐的な欲望」ということができるだろうか。

これを社会批判に転換することは可能だろうか。だとすれば、どのような経路で?

これへの粂さんからのレスポンスがあり、それに対して、熊谷さんは以下のように書く。
==二つ目の引用==
> 「まなざす」には、介入するという意味が内包されていることに気がつき、さらに「まなざす」ことには、「見る」必要さえないんだということに気がつきました。

 あの本の「まなざす」を英語にすると何になるかは、考えていませんでした。そもそも私が、英語のニュアンスについて詳しくないために、これ、という提案も覚束ないのですが、たしかに、「介入」の要素と、「まなざされる相手を、領有できない他者として見ていない」という要素の二つが伝えたいポイントでした。
 ある特定の規範的な評価基準で、相手を「裁く」、あるいは「監視する」という感じですね。超越的な視座でもって監視する、というニュアンスだから、supervise、でしょうか…自信ありません。
==二つ目の引用ここまで=

ここで書かれている《「介入」の要素と、「まなざされる相手を、領有できない他者として見ていない」という要素の二つが伝えたいポイント》というのも、この本を読む上での補助線として、とても有効だと思う。ただ、ぼくもこの本を読んでからしばらくたつので、内容をよく覚えていないのが残念。どんなことが書いてあったかなぁ。

ともあれ、上記の部分に続いて、熊谷さんは以下のように書いている、

==3つめの引用==
> 意志通りに動かない身体だからこそ、「熊谷さんの身体」と「熊谷さん」の間に、明らかな二重構造ができると思いますが、まなざしている側が、その境界を意識しようとすれば、まなざしている側にも、その境界のあいまい化や拡張化が伝わるという救いがあると感じました。

 そのように読んでいただけると、とても嬉しいです。読者のうちにある二重構造や境界の存在が、この本を読むことによって顕在化させられたなら、本を書いた目的のほとんどは達成されたように感じます。

 自らの身体の、制御≒所有しきれない他者性に照準することは、立岩さんの倫理学にも通じる部分だろうと個人的には考えていますが、この本ではそのことを、身体的な実感の次元で書こうとしたといえるかもしれません。
==3つめの引用ここまで==

『言われてみたら、そうか』とちょっと目鱗。

さらに続けてこんな風このコメントは閉じられる。。
==最後の引用==
> 規範からの逸脱のもたらす快感は、規範がなければ存在しないですね。不自由のないところに自由が存在しないのと同じ。マジョリティは、端的にその存在が規範であり権力と言っても良いでしょうか?川口さんとの対談の中で、おしゃってましたが、お二人ともほどけていない部分があって、またマジョリティに属している部分もあるからこそ、部分的な逸脱が「敗北の官能」になるのかもしれないと思います。

 これは本当にそのとおりだと思っています。
「熊谷さんの身体」と「熊谷さん」という二重構造、というときにも、その後者の「熊谷さん」というのが何を表しているかといえば、『規範や権力を根深くインストールしてしまったプログラムとしての自我』のようなものだと思います。
 そして、「敗北の官能」というのも、この二重構造に内在する緊張関係に端を発するものだと思います。

 ですから、敗北の官能は、プログラムとしての自我、を、少しずつ身体や外部環境と調和的なものへと可塑的に修正していくための、ドライブになりうると。

 自らを、一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないかと、考えたのです。
==最後の引用ここまで==

ここに書かれていること、すごく面白い(ような気がする)。とりわけ《一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないか》という部分。
ぼくはずっと社会運動にかかわってきたものとして、当然にも「反権力」意識は強いのだと思うけれども(世間標準との比較でであって、社会運動家内部の比較ではない。で、世間標準との比較で本当に反権力意識が強いかどうかもちょっと覚束ないが)、「反権力」というのは今の権力の代わりに自分が権力を持つことではなく、権力を無化していくようなベクトルをもった運動でなければならないと強く思う、このあたりのことを古いタイプの社会運動は見落としがちだったのではないか。そのように権力を無化すると考えた場合に「敗北の官能」というぼくにはまだまだ正体がなんだかよくわからないものが有効なのかと思った。




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