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zoom RSS 気になる「保守」中島岳志さん(保守だから原発に反対)4/28追記

<<   作成日時 : 2011/04/10 01:38   >>

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少し前の話になるが、マガジン9:http://www.magazine9.jp/で中島岳志さんのコラムを読んだ。これが、ちょっと気になり続けている。

保守派の私が原発に反対してきた理由
http://www.magazine9.jp/hacham/110330/index.php

ここで、彼は
===
メディアの皆さんは一様に「なぜ中島さんは、保守派なのに原発を批判してきたのですか?」と質問されます。「原発批判は左派の占有物」という発想からなのか、保守派に原発を批判する人が極めて少ないからなのか、私の姿勢は不可解なものに見えるようです。しかし、私としては「保守思想を重視するがゆえに原発には批判的」なのです。保守主義者として思考すると、どうしても原発に懐疑的にならざるを得ないというのが、私の立場
===

と書き。続けて保守思想の説明をする。
これがけっこう魅力的だったりもする。
気になる人はぜひ、この全文を読んで欲しい。

で、彼の本をぼくは読んだことがないのだけれども、この保守とか左派の定義を読んで、ちょっと混乱させられた。彼が保守や左派の定義について、やはりマガジン9でインタビューに答えていたので、それも読んでみた。

左右の“バカの壁”を取り払おう
http://www.magazine9.jp/interv/nakajima/index1.php

こっちは自民党政権が敗北する直前に書かれている。

そこでは《戦後日本の政治思想史においてもっとも特徴的な構図は、「保守と革新の対立」》としつつも、戦後、革新はナショナリスティックで、保守と呼ばれてきた自民党は保守ではない場合が多いのではないかと書かれている。


そして、「自民党は保守政党じゃないんですか?」という問いに、「左翼の定義から考えたほうが分かりやすい」と答え、左翼については以下のように定義している。
===
左翼というのは、基本的には人間の理知的な側面、人間の努力によって平等社会がつくれる、進歩が可能だとする考え方です。
===

ほんとにそうだろうか。世の中には左派のクリスチャンは少なくないし、その他の左派の宗教家もいる。彼らのほとんどは「人間の理知的な側面、人間の努力」だけによって、そうあって欲しいと思える社会が可能だとは思っていないはず。

そう、ぼくが書きたいのはそんな話ではない。すごく気になったのは、このマガジン9の「保守派の私が原発に反対してきた理由」での彼の保守の定義。原発のことではなく、この保守の定義について。で、以下のメモ書きを書いてみた。

==以下、引用==
メディアの皆さんは一様に「なぜ中島さんは、保守派なのに原発を批判してきたのですか?」と質問されます。「原発批判は左派の占有物」という発想からなのか、保守派に原発を批判する人が極めて少ないからなのか、私の姿勢は不可解なものに見えるようです。しかし、私としては「保守思想を重視するがゆえに原発には批判的」なのです。保守主義者として思考すると、どうしても原発に懐疑的にならざるを得ないというのが、私の立場です。
===

という前ふりから、保守思想の説明を以下のように書いている。

==引用、その2==
 保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念を保守主義者は共有します。

 保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。だから、保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。神のような絶対者、そして歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。保守派は、多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視し、漸進的な改革を志向します。革命のような極端な変化を志向する背景には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようとします。

 保守派が疑っているのは、設計主義的な合理主義です。一部の人間の合理的な知性によって、完成された社会を設計することができるという発想を根源的に疑います。人間が不完全な存在である以上、人間によって構成される社会は永遠に不完全で、人間の作り出すものにも絶対的な限界が存在します。

 そのため、真の保守主義者は科学技術に対する妄信に冷水をかけようとします。人間が設計するものは普遍的に不完全です。人間の技術と想定には絶対的な限界が存在するため、「100%壊れない」ものなど存在しようがありません。そのようなものは神の領域にのみ存在しうるものです。人間は絶対者ではありません。科学技術の領域で「絶対」を語ることは、人間を絶対者と取り違える危険な思考です。

===


これらは本当に保守主義者の特徴だろうか?という疑問がぬぐえない。


まず、冒頭の《保守思想は「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念》について

自分のことを左派だと自認しているぼくも、この文章の「保守思想は」という主語を除いて、そのあり方にはかなり同意する。ま、だからといって、理想的な社会をあきらめるのではなく、そこに一歩でも近づく努力はしたいと思う。ぼくも理想社会なんか永遠にこないだろうと思う。しかし、どうすればそこに近づくことができるのか、それを求め続けることができるのか。そのプロセスを永続革命と呼んでもいいかもしれないと思う。理想的なクライマックスなど出現しないだろう。クライマックスなんか来てしまったら、その後、どうするのか、と思うのだ。そうすると、ぼくは保守なのか?

左派と保守の大きな違いは、現状のラディカルな変化を求めるかどうか、そこにつきるにもかかわらず、「理性万能主義に対する懐疑」の有無をその根拠にもってきているように思える。このあたりにぼくの違和感の原因があるのだと思う。上記の文章、ぼくなら以下のように言い換えることができるかもしれない。

《左派を自認するぼくが好ましいと思える思想も「理性万能主義に対する懐疑」からスタートします。人間はこれまでも、これからも永遠に不完全な存在で、その人間の理性には決定的な限界があります。どれほど人間が努力しても、永遠に理想社会の構築は難しく、世界の理想的なクライマックスなど出現しないという諦念はありますが、それを持ちつつも、いまの社会をそこに近づける努力は捨てたくはありません。 》



中島さんの次のパラグラフ
《保守主義者は理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌めます。だから、保守派は人間の理性を超えた存在に対する関心を抱きます。神のような絶対者、そして歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。保守派は、多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視し、漸進的な改革を志向します。革命のような極端な変化を志向する背景には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようとします。》

左派だとしても、「理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌め」ることは大事なのではないか。「理性や知性の限界に謙虚に向き合い、人間の能力に対する過信を諌め」るからこそ、現状のラディカルな変化を求めているのだといいたい。そして、左派の人間も「人間の理性を超えた存在に対する関心を抱」く。この関心を抱くのが保守だけだとしたら、花崎皋平さんも保守になる。
 そして「歴史的に構成されてきた伝統や慣習、良識。…多くの人間が蓄積してきた社会的経験知を重視」するのは、脱成長に向けたラディカルな変化を求める人も同様だ。違いがあると思うのは以下の2点。

まず1点目として、その「伝統や慣習、良識」をすべて肯定することはしない。そのなかには尊重すべきものと、唾棄すべきものがある。さらに、それがどの時点から「伝統」などとされてきたのか、その由来を疑うことも忘れてはならないと思う。
2点目は「漸進的な改革を志向」するかどうか。左派にも「漸進的な改革を志向」する人も少なくない。それは改良主義と呼ばれる。
「革命のような極端な変化を志向する背景には、必ず人間の理性・知性に対する驕り・傲慢が潜んでいるため、保守派はそのような立場を賢明に避けようと」すると中島さんは書くが、ここにも違和感が抑えられない。ぼくは「革命のような極端な変化を志向する」が、それは「人間の理性・知性に対する驕り・傲慢」には注意深くありたいと思うからだ。

逆に現在の体制を保守しようとする側に「人間の理性・知性に対する驕り・傲慢」があるのではないか。問題は何を保守するかということだが、従来のメインストリームを保守しようとするものを現状では保守と呼びうるのではないかと思うのだが、それは保守ではないというのが中島さんの定義になるのだろうか。

そもそも保守も革新も戦後のレジームのなかでは「人間が蓄積してきた社会的経験知」を無視し、「成長」「進歩」「開発」「拡大」「高速化」につきすすんできたのではないか。そこへの見直しが問われているのだと思う。そういう意味では、ここで中島さんが主張している「保守」とは、いままで存在しなかったようなものではないか、それを保守と定義するのは、かなり無理があるのではないかと思う。

また、これに続く部分に《私たちは「想定外」内存在だからこそ、希望を持って生きることができるのです。少なくとも保守思想に依拠する人間は、そのような世界観を共有します》というのだが、これだって「保守」の専売物だとは思えない。

想定を超えた変革が起こりうるはずだと思うからこそ、現状でも社会運動を続けることができるのではないかと、ぼくはかなり自虐的に考えたりするのだが、ま、これはあまり一般的な左派の心情とはいえないかもしれない。

===

ここまで、タイトルを除いて最初にアップロードしたときのまま。以下、追記。
「左派と保守の大きな違いは、現状のラディカルな変化を求めるかどうか、そこにつきる」って書いてしまったけど、ラディカルな変化を求めない左派もいるということに、読み返して、いま気がついた。だとすれば、保守と左派の違いはますます不明確になる。困った。


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