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zoom RSS 『脱成長への道』読書メモ その1

<<   作成日時 : 2011/05/27 06:44   >>

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5月7日のPP研のラウンドテーブルに大江さんが持ってきてくれたので購入した本。



脱成長への道
勝俣誠、マルク・アンベール編
2011年コモンズ

目次は
http://www.commonsonline.co.jp/datuseichou.html


何人かの著者が311へのメッセージ
あとがきに編集中に311に遭遇したとして、以下のように書かれている。
===
この未曾有の出来事をどう捉えるかについて書いてほしいというわたしたちの依頼に対し、複数の執筆者が・・・寄稿・・・「よりつましく、より楽しい世界」の実現が決定的に必要な時代がきたと実感した。
===

寄稿した全員が福島=フクシマに言及している。

例えば、

アラン・カイエ
フクシマからコンヴィヴィアリズムへ
===
今回の惨事をとおして日本は、もう後戻りできない形で有限世界の時代に突入したことを教えてくれた最初の国になった。8p
===

ラトゥーシュ
フクシマ原発災害で日本が変わる!?
===
・・・問われるのは、エコ社会主義体制のつましい豊かさに向けてポジティブに脱原発の道を歩んでいくのか、それとも少数エリート政治による民衆に節制を強いる管理政策に任せてしまうのかという点である。9p
===

ここで社会運動が敗北すると、支配の形態がもっと野蛮なものになるか??しかし、強権的で野蛮な支配が長く続くことはないか? いったん、負けても次の戦いを準備するしかないだろう。ただ、早くしなければ、地球環境の条件はより厳しいものになる。「少数エリート政治による民衆に節制を強いる管理政策」に行く危険の指摘は鋭いと思う。


一つの文明の終わり
西川潤
===
福島原発事故は、一つの成長優先文明の終わりを告知する・・・。11p
===

ラトゥーシュの提起と比べると、ちょっと浅いような・・・・。どうすれば、より明確にそれを告知させることができるか?誰がそれをできるのか?人びとはその告知に気がつくのか?


最初の論文はラトゥーシュのもの
やはり彼には目が離せない。以下のメモはこれだけについて。でもとても長いものになってしまった。

この論文のタイトルは
===
<脱成長>の道ーつましくも豊かな社会へ
===
目次にあるように3つの節にわかれている。

1 数量化された最大幸福の破綻
2 共愉にあふれるつましさのなかで再発見される幸福
3 〈脱成長〉の〈道〉


以下、興味深かった点
3重の還元
1、幸福を物質的な生活の充足へ還元
2、物質的な充足は、統計で表される所有、つまりは生産・消費され商品化された財・サービスの数量に還元
3、財、サービスの総量の価値は、単純合計されて割り出される。つまり、財・サービスの生産に必要な自然資産や人工物の喪失は考慮されない 23p


いくつか訳で(と思われる)気になる点があるが、ここに関連する部分では

たとえば、25pに
==
GDPは生産のアウトプット〔総量〕を測定するが、生産がもたらす結果を測定するものではない、と言える。
===
とあるが、この〔総量〕という部分が、なければ正確だと思う。しかし、GDPでは貨幣を生み出さない生産はカウントされないと直前に書いてあるのだから、〔総量〕という記述はだめだと思う。

以下のイリッチからの引用は面白い。たしかにそうかも。「フラストレーションの成長率は生産の成長率を著しく凌駕する」25p、これ、出典はなんなのだろう?

ロバート・E・レーン(エール大)「米国においては、物質的な生活水準が高まるにしたがって、米国人の大多数を実際の幸福感が確実に低下している」26p


NHF(New Economic Fondation)のHPI(Happy planet Index)2006
バヌアツ。コロンビア。コスタリカがTop3
2009年ではコスタリカ、ジャマイカ、ドミニカ共和国
「先進」国ではフランス71位、英国74位、日本75位、米国は114位
===
この逆説は納得ゆくものである。なぜなら、いわゆる「先進」国は、権利や尊厳を剥奪された状況ーーつまり、価値の喪失、「使い捨て」の加速によってごみに変わる商品、社会的排除や不当解雇を被る人びと、失業者に転じる最高責任者(CEO)や経営マネージャー、ホームレス、浮浪者、その他さまざまな「人間の屑」(注12)〔産業社会の脱落者として締め出された人びと〕といった社会全般にわたる退廃ーーの大量生産によって成立しているからである。
27p
注12(から抜粋):「人間の屑」という表現はハンナ・アーレントの著作から借用。「社会から締め出された人びと」という意味で「人間の屑」と形容。43p
===

このようにけっこうな量で数値化した結果を紹介しているにもかかわらず、この少し先では数値化への疑義が提出される。

この話からは少し離れるが、ここに続く部分で興味深かったところを以下に引用。

====
・・・彼が(アダム・スミス)創始した経済学は幸福について語ることはなかった。経済学の世界では、幸福について語ることは、とくにフランスにおいては、不作法であるとさえされてきたのである。
 「より多くの所有」と「生活の質の向上」(ウェル・ビーイング)の同一視は欺瞞である、と述べるノーベル経済学賞受賞者のヤン・ティンバーゲン(〜1994)の提言がまったく考慮されなかった理由のひとつは、おそらくこの点にある。30p
===
「幸せの経済学」は映画にもなっていて、この5月22日には日本国内で120箇所以上で上映されている。また、経済学的にもさまざま俎上に上っているようにも思えるし、そのいくつかはここでも紹介されているのではないかと思うのだが、・・・。

そして、31pの「市民的経済」というのが固有名詞なのか、一般名詞なのか不明。これも訳の問題?(よくわからない) 振り返って、読んでみて28pからの流れで、おそらく固有名詞なのではないかと想像できるが、「市民の経済」派と「みんなの幸せ」派は同じグループの違う名前なのかどうか? また、一般名詞ではないとすれば、それを明示するような表記をしたほうがいいのではないか。もう少し、記憶力の低い人間向けの書き方を要望したい。

で、この31pの「市民的経済が二重の曖昧性をもたらす」という批判が、GDP以外の数値化をもとめるグループ全体に対する批判なのか、イタリアの特定のグループに対する批判なのかが読みとれない。

ともあれ、ラトゥーシュはこの経済学の道(数値化の道?)と反対の道を行けといい、以下のように書く。
===
 節度の感覚の回復は、なによりも測定可能なものへの執着を抜け出し、社会的なものを再発見するために経済に別れを告げることではないだろうか。重要な事柄は考慮されないという事実について述べる異端派経済学者たちよりも大事なことは、ボリビアとエクアドルの先住民が、それぞれの国の新憲法に、スマク・カウサイーーケチュア語で、単純明快に「地域文化に根差して、みんなで充実した生活を送ること」(Buen Vivir)を意味する言葉ーーを目標として盛り込んだことである。
32p
===

作品社から出版されたラトゥーシュの本に続いて、ここでも、いともあっさり簡単に「経済に別れを告げること」が必要だと書く。この「経済に別れを告げる」とはどういうことなのか。市場を廃棄せよということなのか、とも思うが、日本語の前著などを読む限りではそうでもないみたいだ。土地や労働を含めるべきではないという主張はあるが。

ここでは単に「数量化に別れを」という理解でもいいのかもしれないとも思う。だとしたら、そう書いてくれたらわかりやすいのに。


ラトゥーシュは「幸福の再定義」について、以下のように書く
===
幸福を「連帯的な社会におけるつつましい豊かさ」として再定義することは、〈脱成長〉の企てがもたらす〔経済成長優先の社会との〕断絶を意味する。
 幸福概念のこうした再定義は、〔第一に〕欲求と生産物の際限なき創造の悪循環と、この悪循環がもたらすフラストレーションの増大から抜け出すことを意味し、また〔第二には〕、これを補完する形で、均質的な大衆をつくり出すことに還元される個人主義から生じるエゴイズムを静めることを意味する。32ー33p
===

また、ラトゥーシュは以下のようにも書く。
===
ポスト開発学派はオルタグローバリゼーション運動や連帯経済とは一線を画す。つまるところ、ポスト開発学派は、問題の核心を新自由主義に求めたり、市場の世界に求めたりせずに、経済性の本質として把握される経済成長論理の内に求めるのである。33ー34p(一部略)
===

ラトゥーシュの(あるいはもしかしたら、訳者の中野さんにも感じる)こういう言い方は好きじゃない。えらそうな感じがするからだ。

そして、違いを際だたせることで存在を証明しているかのようなスカラー(とりわけ欧米の)にありがちな態度じゃないかと思う。

「仲間が少ない今の状況で意見の違いを言うな」とは言わない。しかし、意見の違いをいうときの文法があるんじゃないかと思う。同じ方向に向かう仲間の意見によりそうこと、また、違う方向に向いていても、その意見をリスペクトしながら、議論を進める作法がなかなか作れない、この社会(外国のことはあまり知らない)で、そのあたりは微妙な困難さがつねにつきまとう。


そして、ここに続く部分で再び「経済から抜け出す」話がでてきて、(以下の表現は前にも読んだような気がするが)「このような主張は一般に理解されるものではない」という。というわけで、ぼくみたいな一般大衆はわからなくても当然、ということかもしれない。

なぜ、理解されないか、以下のように説明される。

《この時代に生きる人びとにとって、経済がある種の宗教であることを理解するのはむずかしいからだ。「厳密に言うならば、われわれは無神論を語るが如く、経済成長に対する信仰から自由になることについて語らなければならない」と私が述べるとき、それは、まさしく経済の宗教性を問題にしているのである。経済成長と経済を信仰の対象にすることを止めなければならない》34p

このようにラトゥーシュは説明するのだが、ぼくにとってはポイントがずれている。経済成長に対する信仰から抜けるべき、というのはぼくにも容易に理解できる。あるいは経済への信仰を捨てるというのも、まったくわからないわけではない。

しかし、そのことと「経済から抜け出す」ということの間には、越えられない溝があるように思うのだ。経済にひざまずいたりはしたくないし、そうしなくてもすむ社会は想像可能だが、経済をなしですませる社会は想像できない。

ポランニーが(たぶん)いっているように経済がすべてを支配するのではなく、経済を社会のあるべき場所に埋め込むことは可能なのではないか。

そうではなく、「経済から抜け出る」という言い方をされてしまうので、ぼくには理解不能になる。

「経済をそのあるべき場所に埋め込む」ということと「経済から抜け出る」ということの違いとその根拠を明確にしてほしいと思う。

さっき、引用した部分には「ポスト開発学派は、問題の核心を新自由主義に求めたり、市場の世界に求めたりせずに、経済性の本質として把握される経済成長論理の内に求めるのである」とある。

書きながら、問題がだんだん明確になってくる。

市場という機能には優れた面があると思う。ただ、それは「生命」や「社会の持続可能性」に縛られるべきだと思うが、・・・。ラトゥーシュは市場について、どのように考えているのだろう。

市場にさまざまな制約を課すことは必要だと思うが、その上でも市場が存続する限り、そこには経済は存在し続けるのではないか。その社会で経済から抜け出すとは何を意味するだろう。

たくさん儲けたいと思う人はいる。しかし、それが一定限度で制限されさえすればいいのではないか。


もうすこしだけ読み進むと、ラトゥーシュも市場を完全に否定していないことがわかる。

イリッチを引用し、「近代のサブシステンス」を説明する中で以下のように書かれている。「人びとが市場への依存を縮小し、欲求製造の専門家たちによって数量化されない/数量化が不可能な使用価値を創造することに技術や道具が真っ先に役立てられるようなインフラストラクチャーを政治的手段を通じて保護することで到達するポスト産業社会における生活様式」

縮小するにしても、そこに市場は残る。だから、経済による支配から抜け出すことは可能だが、「経済から抜け出す」ことは不可能なのではないか。「抜け出す」という語がフランス語でどんな表現になっているのか知らないし、知っても意味がとれないのだが、そのあたりはどうなのだろう。


さらにこの先で、ラトゥーシュは
===
開発・発展および経済成長の想念から抜け出し、それらをアウフヘーベンすることによって、経済領域を社会関係の中に再び組み込まなければならない。35p
===

組み込むということは社会関係の中に残るということだろう、それは経済から抜け出すことではないはずだ。


ここに続いて「経済成長の想念から抜け出す」ことの説明に入る。

その中で「労働・土地・貨幣」の「脱商品化」がいわれる。

これもポランニーが言い出した話だったと思う。中村尚司さんも援用していた。

土地は相続を認めないで、使っている人が使っている間だけ使用できるという風にすることは容易だし、現在もそうしている資本主義国もあるはず。

労働についてはどうか。これを考えるとき、ベーシックインカムを補助線にすれば、問題はみえやすくなるかも。働かなくても生存が保証されるなら、自らの労働を商品として差し出さなければならないというシッコクは薄れるかもしれない。しかし、同時にそれは選択肢としての労働という形で、より商品的な色合いを強めるかも? やはり、わかりにくい補助線だ。商品として買う側の問題があり、高く売りたい労働者の問題もある。つらい労働、あまりみんながやりたがらない労働は商品としての価値を高めるしかないようにも思う。労働市場という考え方を排除して、うまいシステムがあるかどうか不明。現状でも労働市場にはさまざまな規制がある。強化しなければと思える部分は少なくないが、外国人労働者問題などはゆるめるべき部分もあるかも。

必要な労働力を得るためのインセンシブをどうつけていくか。その価値をどう決めていくかということを考えたときに、一定の商品化は避けられないとぼくは思うというか、他に思いつかない。熟議民主主義でその価値を決定できるとはなかなか思えない。

次に貨幣。
国際的な金融取引がさまざまな問題を引き起こしたことは多くの人の記憶に残っているだろう。利ざやを稼ぐための金融取引や株取引、先物取引などが規制されなければならないのは当然だと思う。利益よりも優先されるべきものがある。

使わない、利ざやを稼ぐための財の大量の取引は禁止してもいいように思う。

国際金融取引はその最たるものだ。
attacなどのトービン税構想は、それに規制をかける(その取引に税金をかける)という話であり、それを財源に南の貧困対策にあてるという話だ。

その取引を前提にしているという点で、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジなどには批判されている。まず、それを課税せよ、という話から始めるのは悪くないかもと思う。

だから、それがゴールであってはならないと思う。attacはそういうものだとぼくは
思っている。

だから、貨幣の商品化を禁止せよという主張は理解できなくはないのだが、それでは国際的な交易はどのように行われるべきか、という課題は残るのではないか。

そして、ラトゥーシュは以下のように書く。
===
これら三つの擬制的商品をグローバル化した市場から退却させることは、経済を社会関係に再び入れ直す/再び組み込む出発点となるであろう。したがって、資本主義の精神との闘いを展開すると同時に、贈与の精神と正義の追求が市場の貪欲を鎮静化するような混合的な企業を支援しなければならない。
===

こうなると、ここまで綿々とわからないと書いてきた「経済を抜け出す」という話はどうなってしまったのか、という感じだ。

結局、経済は組み込んで、生き続けるという話ではないか。ま、それでいいんだと思うのだが・・・。

しかし、この「贈与の精神と正義の追求が市場の貪欲を鎮静化するような混合的な企業を支援」って、流行のCSRを本気でやってるところ、とかになるのか。あやしいまがい物風のCSRもいっぱいあるので、本物を探すのに苦労するかもしれない。


そして、ここに続く部分の小見出しは「共愉の場所と贈与の精神」。ここで、《「屑」となった人間たちの再生に関心を注がなければならない》と記載され、そのために最善の方法は、その『屑』を生み出さないこと。社会的排除のない社会が作られなければならない。それはに共愉(コンヴィヴィアリテ)があふれる社会だ、とラトィーシュは主張する。36p

この後、前著でも紹介されていたRで始まる8つの再生プログラムが紹介され、最後の第3節に移る。


この論文は本文が21ページ分なのだが、この最終節の分量は1ページと少し。タイトルは『〈脱成長〉の〈道(タオ)〉』

この道とは老子の〈道(タオ)〉のことであり、禅の〈道(どう)〉だという。そして、こんな風に書かれている。
===
〈脱成長〉の道は知恵の再来であり、知恵の道は幾何学的な理性の道とは異なる。  中略  〈脱成長〉の道は、いまここにあるこの世界に対してこれまでとは異なる視線を投げかけること、つまり、われわれ自身を異なる視線で見つめることでもある。40p
===
ここは理解できる。
しかし、「より公正で、より民主的なエコ社会主義社会――欲求の自主規制に基づく、つましくも豊かな社会――の構築、これこそが〈脱成長〉のプログラムである」(41p)と書かれてしまうと、このエコ社会主義社会とはいったい何だろうと思う。そして、ここに続いて書いてあるこの論文の結語がすごく興味深い。
===
〈脱成長〉は喜びにあふれるものであるだろうし、そうでないかもしれない。〔なぜなら〈脱成長〉は「賭け」であり、結果を約束するものではないからである〕! しかし、おそらくは、われわれが経験している文明の危機は、この道に参加する機会をわれわれに与えずにはおれないだろう。41p
===

ラトゥーシュの『<脱成長>の道ーつましくも豊かな社会へ』までのメモここまで。
続きのメモも書きたいと思っているけど・・・。


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