今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 『チェルノブイリは女たちを変えた』読書メモ その1

<<   作成日時 : 2011/06/18 02:17   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

MMさんが顔本で紹介していた、この本、面白そうだったので図書館で借りて読んだ。
確かに、面白くてプロヴォーキング。
だけど、ぼくとかが面白がったら、誰かに怒られそうかなぁ。

ともあれ、以下に顔本のノートで作成した読書メモをそのまま転載。一部、イニシャルに変更。


====
タイトル変更

「男は汚染を怖がらない/科学から迷信へ」(MMさんのノートを勝手に続ける)

というタイトルだったけど、中身にそぐわないので。

ちなみにMさんのノートは

https://www.facebook.com/note.php?note_id=208371302535396







随時、更新する予定





近藤和子さんの解説から

===

本書のまとめ役ともいえるアネグレート・シュトプチェクは、男文明から降りる」ための構想を示す。

・・・

脱原子力を問うだけでは足りない。約2500年前に家父長的支配形態の制度化とともに始まった思考法から降りなければならないのだ。そして、フェミニズムの視点も、未だ、その思考方式までオルターナティブを生み出すに至っていない。とその限界も指摘する。223p

===



===

さらにシュトプチェクは、「脱男文明」構想として、女たちに「国家」という問題にとりくむ必要性を訴えている。そして、「母親」の意味を改めて問い直している。224p

===











シュトプチェクの該当部分・・・だけ、抜き出そうと思ったが、写経をはじめたら、けっこう面白いので、いろいろ書き写す。近藤さんの解説の「母親」に関する記述はこの後に再び引用しよう。



===

私たちの「西洋文明」総体を構築してきた学問的思考の出発点となったのは、次のような問いであった。すなわち、いかにして自分たちは(ここでいう「自分たち」はとは男性のことである)、すべての目に見えるもの、「産みだされたもの」、生命を支配する力を手に入れることができるか。・・・。この問いこそが私たちの誉れである「西洋文明」の起源を成しているのである。 (少し長い略)  学問のと進歩というヒューマニスティックで偉大な伝統が、現代では生命を脅かすようなものとなってしまった。このような状況においては、カントに始まる「近代のプロジェクトよりもはるかに包括的な「啓蒙のプロジェクト」を始めなければならない。それは、私たちが今すぐにも始めることができる「男性支配から降りる」というプロジェクトであろう。しかしながら、その道は前途遼遠であり、生涯にわたってやりぬく能力が要求されるものであろう。



たしかに、いく人かの女性は(そして男性も)かねてから、生命を維持するためには父権制社会をくつがえすことが必要であると認識していたが、チェルノブイリを契機にこれは緊急に解決を迫られる問題となった。・・・180p



====

原発の廃絶だけでは、ことはすまない。それよりも、新たな生命根絶の可能性が発見され、それが実行されるのを阻止しなければならない。そうした生命支配の道を切望するメンタリティを阻止しなければならない。その際、思考方式が方法論として否応なく科学や技術に決定的影響を与えてしまうが、それだけにとどまらず、思考構造もまた、私たちの知覚、体験、認識、感情、つまり私たちの現実そのものを経験する方法すべてを決定的に組織してしまうという問題に直面している。自分の思考様式と対峙し、できうれば、これを変えるために分析することは、贅沢でもなければ、象牙の塔のお遊びでもない。つきつめれば、多くの女性の頭のなかでもやはり、生命に敵対する考えが支配的である。父権制に批判的なグループが合理性批判をあわてて表明しても、私たちが生存するためには思考様式に規制されているという事実は変わらない。ともかく、私たちが生命をより大切にしようとすることが重要である。この立場で深く考え、闘いを告げよう。181p

====





====

チェルノブイリのあと、東西の陣営を問わず、どの国も「民衆」に対して何と画一的な対応をみせたことか。国家の最初の対応は私たちにすべてを隠すことだった。国家がまず始めに考えたのは、私たちの健康や安全を気づかうことではなく、そ・の・権・力・を維持することであった。国家は国民の生活に不可欠な情報を与えることを拒否しつつ、私たちの「気を鎮めよう」とした。・・・188p

====



福島でもまったく同じことが繰り返されていることに驚く。







====

「女性が支配に関与することにでもなれば、国家の存立は危うくなる」とヘーゲルの懐いていた危惧は正しかった。 (略) もし、女性が国家を支配するならば、母性に従って、いかなる「全体的利益」を追求することもなく、ただ、「個別的利害」を主張することができるだけだろう。だから、女性はけっして「国家観念」を発達させることができない、とヘーゲルはいうのだ。

もし、父親が自分のこどもを愛することができるとしたら、つまり、こどもとともに時間をすごし、配慮、愛情の濃やかさ、怒りなどに個人的エネルギーを費やすようになるとすると、こういう愛情もまた、国家に対する脅威となろう。190p

====



====

伝統的にあらゆる女性の運動が母親であることに対抗して発達してきたのには、必然性があったのであろう。というのは、結局、女性は男性の利害が支配的な社会の中で「こどもか職業か」の選択を強いられているからである。それゆえ、女性の存在を「子宮のみに還元する」ことへの抵抗に成功してきたことや、父権制イデオロギーとしての「母性本能」や「生まれつきの母性」という観念を拒否してきたことも重要である。



しかし、今日ようやく、母親であるということは、前向きで解放的な力をもっていて当然なのだと思われるようになった。というのは、「新しい父親」についてはずいぶん論争が起こったものであるが、「新しい母親」もまた、存在するからである。あたらしい母親とは、夫やこどもによってのみ存在理由が定義されるような女ではなく、自分自身の喜びをあきらめようとしない女である。つまり、もっとも要求水準が高く、過去の自己献身的な母親とは比較もされたくない女性たちである。



アメリカのフェミニストは、ドイツの女性の運動がいまだに「娘」た「姉妹」の段階の運動であるとおかしがり、女性の「成人としての段階」が欠けているという。母親であることもまた、ラディカル・フェミニズムの立場から理解することができりのだ。わが国ではこれまでに「父権制に対する闘い」のための絶対的なパースペクティブから母性をとらえる手がかりはほとんどなかった。わずかに、バーバラ・ジヒターマンが試みているくらいである。196-197p

====



このような記述の後でいくつか説明が試みられるのだが、やはり、どうして母親でなければならないのか、もうひとつわからない。たとえば、以下のような記述。



===

多くの母親たちが生命維持のためにより多く反応し、いわばホットラインをもっていると信じていることはゆえなきことではない。これを女性たちがそのまま受け入れるならば、今日私たちが直面している状況は、もしかしたら一つのチャンスかもしれない。こうした信念を今までのように「イデオロギー」として片づけてしまうのではなく、その根底にあるものを探求するのは意義あることだ。私たちは、男たちの造った死の迷宮から導き出してくれるアリアドネの糸を何本も手にしているようなぜいたくな状況にあるわけではないのだから。 198p

===



この「アリアドネの糸」がわからなかったのでグーグル。で、Wikiによると、ギリシャ神話で

===

迷宮とアリアドネーの糸

アリアドネーはテーセウスに恋をし、彼女をアテーナイへと共に連れ帰り妻とすることを条件に援助を申し出た。テーセウスはこれに同意した。アリアドネーは工人ダイダロスの助言を受けて、迷宮(ラビュリントス)に入った後、無事に脱出するための方法として糸玉を彼にわたし、迷宮の入り口扉に糸を結び、糸玉を繰りつつ迷宮へと入って行くことを教えた。

テーセウスは迷宮の一番端にミーノータウロスを見つけ、これを殺した。糸玉からの糸を伝って彼は無事、迷宮から脱出することができた。アリアドネーは彼とともにクレーテーを脱出した。

===



ミーノータウロスがどうして殺されなければならなかったか、わからないけど、そんなに興味はないのでパス。



==========











再び、近藤さんの解説に戻る。



前にどこかでメモを書いたつもりだったのに消えている。



近藤さんは解説のなかで、反原発運動とフェミニズムについて、雑誌『クリティーク』(12号)を紹介する。



紹介されるのは、例の『まだ、まにあうのなら』の3本の書評。



最初に堤さんの障害者からの母親の反原発批判が紹介される。この問題については最近、林千章さんが興味深い整理をしているにもかかわらず、障害者側からのレスポンスが少ないと思う。



次に加納美紀代さん石原友子さんの書評は「母性」イデオロギーに的が絞られ、とし、加納さんの批判を以下のように紹介する。

===

・・・戦前の天皇制国家の「母性イデオロギー」に動員された「銃後の女たち」、さらには戦後の母親大会の「母性主義」をも批判する。彼女たちの「母性」イデオロギーは、国家のため、天皇制国家に奉仕させられ、「昭和15年戦争」(ママ)の共犯者であった歴史を批判する。 226-227p

===



母性イデオロギーについて、「」のつけかたが微妙に違うことにどんな意味があるんだろう。







そして、近藤さんはその少し後で、以下のように書く。

===

父権制社会にからめとられた「母性」神話、「母性イデオロギー」に私たちは、訣別を告げなければならない。

・・・まだまだ日本でも、家父長制下の「母親」神話は、根強く生きている。

だが、しかし、実際の運動に参加した女たちは、こうした過去の「母親」たちが中心であったろうか。さらに、子連れで参加した女たちが、原発を止めようと、「家」から出た時、彼女たちが真っ先に直面した「敵」はだれであったか。何よりも愛する夫、その人であった。

女たちは、原発に反対しようとすると、まず、男たち、「男社会」とぶつかるのだ。227p

===



これを、いまの運動(あるいは当時のかも)と退避させながら対比しながら考えてみる。

まず、実際に運動に参加してる女、とりわけ母親たちの意識。《過去の「母親」たち》の意識から、どれだけ自由になっているだろうか。確かに、そのままの《家父長制下の「母親」神話》ではないかもしれない。



その微妙なつながりと断絶をどう考えたら、いいのだろう。そのあたりで、この本のヴェールホフの母親を持ち上げる論調にも違和感を禁じえない部分がある。



で、近藤さんはこのあとに、「伊方離婚」を紹介して、以下のように書く。彼女もいろいろ逡巡しているようにも読める。

ちょっと長いが、写経プロジェクトでもあるので、最後まで引用してみよう。



===

こうした状況こそが、原発を支えている男社会そのものではないだろうか。

「母性」をめぐる論争は、過去の戦争にからめとられた「母性」神話そのものが、まだ社会に根強く残っているだけに、難しい問題をはらんでいる。

日本では、女たちは、ようやく「母親」から解放されつつあるのだ。

(引用社注:ほんとうにそうなのか、この母親につけた「」は何なのか)

しかし、チェルノブイリは、世界を変えた。とりわけ女たちを。そこから出てきた女たち、「母親」をどう変えるか。

ヴェールホーフやシュトプチェク(引用者注:ここではシュトプクチェクになってる、どっちだ)は、「母たちの恐怖」を、原発のもつ本質的な危険からとらえている。チェルノブイリの恐怖は、”生”そのものが直撃された恐怖である。

原発事故がもたらす放射能は、地球という全生態系を破壊させるほどの威力をもつということを、チェルノブイリは示している。人類の生殖機能を滅ぼすだけではなく、人類の類的存在を断ち切るものだ。

反原発運動に対する「母性イデオロギー」批判だけでは、原発のもつ本質的な問題には迫れない、とも思われる。

本書で提起された「新しい母親」について、日本でも、女たちの間で議論したいものである。原発問題は、あまりに火急の問題であり、しかも身の回りの生活、関係性すべてを問う、「男社会」の問題であるからだ。 228p

====





近藤さん自身の「新しい母親」についての評価はどうなのだろう。肯定的に引用されているのはわかる。全面的に賛同しているのかどうか明確にはわからない。最近、福島原発事故緊急会議でけっこう同席するので、今度、覚えていたら聞いてみよう。



で、このノートは長くなったので、ここまでにして、次に続けたい、(続けることができれば、だけど。この本でのミースもヴェルホフもまだちゃんと紹介してないものなぁ)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
『チェルノブイリは女たちを変えた』読書メモ その1 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる