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zoom RSS 「べてるの家」のSSTについて

<<   作成日時 : 2011/07/23 09:07   >>

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「べてるの家」のSSTが気になるんだが、5000円の本(『認知行動療法、べてる式』)は買えないし、大田区にないからリクエストしようかと考えているところ。


で、そんなきっかけで、べてるの家の本を読み始めたら、《べてるの家の「非」援助論》「第20章 リハビリテーションからコミュニケーションへ うまくいかないから意味がある」 にけっこう詳しく記述されていた。

最初にこれを読んで、よかったと思う。まずは『べてるSST』入門。


しかし、今頃『べてる』の、それもこんな古い本か、って感じもあると思う。自分でもそう思うし。べてるの話はかなり前から聞いていて、興味はあった。で、面白そうだし、魅力的な取り組みだけど、他人事だなぁと思っていたから、本を手にとろうとしなかったのかもしれない。。

いま、就労継続B型とか、就労移行支援とかの事業を準備する仕事が回ってきて、他人事ではなくなってきた、ということでもある。ま、先日、偶然読んだ「技法以前」でのSSTの記述に触発されて、同じ法人の中で行われているSSTを見学して、このことをもっと知ってみたいと思ったのだった。

で、ここではSSTの話に特化して書こう。
(時間があったら、この本の別の部分についてもメモしよう)

2002に出版されたこの本、精神分裂病という表記になっている。あれっと思って調べたら、ちょうど、この年に統合失調症という名称に変わったのだった。もっとずっと前に変わったのだと思っていた。以下、このメモでは適当に使う予定。



結論的なことを最初に書いちゃうと、めざすべきSSTのひとつのありかたが、ここにあると思う。

ここで向谷地さんはSSTを運転免許講習に例える。

統合失調症を抱えながら暮らすことになる当事者について、従来の働きかけは説明の段階で終わっていて、実際の運転教習をしないで、路上に出すようなものだという。そして、再発という「交通事故」が起きれば、免許をとりあげ、長期入院させられ、地域で暮らすチャンスを失う、と。

その練習がSSTだという。そして、怒鳴られ、叱られの練習では効果がないので、良いところを褒めてもらいながら練習するのがもっとも効果的であるという。それがSSTということらしい。以下のように書かれている。

・・・親子関係の苦労や、べてるの家の特徴である「商売」をめぐるお客さんとの対応や、複雑さを増す職場の人間関係の中で「練習すればいい」という見方の切り替えは、現実の重苦しさを払拭し、ある種ゲーム感覚にも似た気楽さをもたらしてくれるから不思議だ。しかも「練習したい」という当事者による希望の表明には、現実の課題に向き合うような、爽やかで、かつ、したたかな生きる勇気を感じる。
その意味でSSTとは、援助者のための治療・援助の手段ではない。あくまでも、当事者自身の「道具」なのである。思えば、はじめて昆布の買い付け交渉に向かう緊張の場面でも、事前に和気あいあいと「練習」して出かけたのだった。べてるには、SSTと出会う前から「SST」が満ちていたように思う。


そして、向谷地さんはSSTのセッションを行うための土壌、つまり「場の地力」を保つための作業が日常的に必要だと指摘する。SSTの場で、お互いに「***っていうのがよかったねぇ」というようなことを、ちゃんと言い合える関係ということだろうか。

しかし、その直後に「とはいえ、まずは恐れずにSSTという種を蒔いてみることである」と書く。それは期待通りにいかず、枯れそうになるだろうが、それこそが「順調」なプロセスであり、そのことを通して、《現在の「場の地力」を知ることができるのだ》と。

この「場の地力」について、以下のように説明する。

一言でいうならば、「人間としての相互の成長を促す人間関係(コミュニケーション)定着のレベル」とでもいえるかもしれない。場の地力を高めるための第一のポイントは、当事者と職員間のコミュニケーションの一元化の問題である。


つまり、
看護の場であれば、患者を看護するということと、仲間(看護者)を支え励ますということが、援助行為として同じ次元で語られなければならない


という。書くのは簡単だが、実践するのはなかなか難しいと思う。とはいえ、この後で向谷地さんが指摘していることはそんなに難しいことではない。セッション後のカンファレンスではおたがいに欠点や失敗を責め合っているのではおかしいし、セッションでポジティブなコミュニケーションを体験して病棟に帰って、そこで相変わらず管理的で指示的な対応に満ちていれば、効果は半減どころか、混乱と不信感を生むことになる、という指摘だ。

先日メモを書いた
《精神医療論争史 : わが国における「社会復帰」論争批判 》でのSST批判
http://tu-ta.at.webry.info/201107/article_9.html
ここでの批判は、現にこういう医療機関が多く、SSTが形骸化させられているという風にも読み替えることができるのではないか。

また、浦河では入院患者のためのSSTに並行して、PST(プロフェッショナル・スキル・トレーニング)をおこなっていていることが、紹介される。
「オレたちはSSTにすごく助けられてる。看護婦さんだっていろいろ大変だろ?オレたち以上にSSTをやったらいいんでないかい?」
という早坂さんの一言がきっかけになってはじまったとのこと。PSTのやりかたはSSTを踏襲したものだが、テーマを職員の困りごととするところがSSTとの違い。そして、以下のように書かれている。

最近ではPSTに当事者が参加し、患者役を買って出てくれる。さらにはリーダーに挑戦するような場面も見られるようになってきた。コミュニケーションの一元化が進んだ証かもしれない。


こんな風に向谷地さんは書くのだが、前述の《精神医療論争史 : わが国における「社会復帰」論争批判 》でのSST批判の
「患者は―病前からかどうかはともかく―認知に障害を持つ者であるという見方は、得てして患者を自分たちよりも劣った者とする考え方に傾きがちであり、患者に対しては劣等感を抱かせがちである」
という危惧はここではまったく無効だ。

ぼくも先日、同じ法人で行われているSSTに参加して、これ、ぼくにも役に立つというのを実感したばかりだった。

そのようなことを前提に考えると、もうSSTとPSTを分ける必要も希薄化していくのではないかと思えてくる。ここをあえて、分けている理由なども聞いてみたい。5000円の本には書かれているだろうか。

次に場の地力を高めるための第二のポイントが提起されるのだが、これもまた、あっさり書かれているが、「ほんとにそんなことできるかなぁ」と思わせる話だ。

場の地力を高める第二のポイントは、「問題を探したり解決しない」ということである。

これが、ぼくにはなかなか難しいのだけど、SSTって「困ったこと」=問題を探して、テーマにするじゃないか。しかし、「探さない」というのはどういうことなのだろう。

「解決しない」「解決を目指さない」というのはわかる。問題それ自体は、解決しなくても、当座、その場をしのぐ方法とか、誰かが助けてくれたら、なんとかなるという方法を探すということなのだろう。

そして、「問題志向」ではなく「希望志向」だという。

何か事故のようなこととか、問題(プロブレム)が発生したときなどでも、原因(問題)はどこにあったのか、というようにどんどん掘り下げていくのではなく、その「良かったところ」はどこか、「さらに良くするにはどうしたらよいか」という展開を求めるということだろうか。

ふと目に付いたのだけど、次の章でのSSTについて書いている箇所があり、向谷地さんは「問題」という表現を使わずに「苦労したこと」と表現している。193p


そして、向谷地さんは浦河では、べてるの家のミーティングだけでなく、
精神科病棟でのスタッフミーティングまでを含めて、あらゆる話し合いが「良かったところ」の指摘と「さらに良くする点」の提案で実施されていることである。これも場全体を傾きのないコミュニケーションに保ち、二重の基準を生じさせないための工夫なのである。

と書く。「ほんとかなぁ」と思ってしまうのだが、ほんとうなんだろう。これはすごい。。

さらに
第3のポイントは、規制の緩和である。

SSTとは、自分で考え、判断し、行動するというセルフケアを促す手法であるはずだ。ひるがえって、いまの精神科病棟における一般的なケアには、依存を助長し、無気力・無関心を促す指導的かつ管理的要素がまだまだ多い。


という。このあたりが、さっき紹介した《精神医療論争史 : わが国における「社会復帰」論争批判 》でのSST批判の根拠になってる部分だと思う。ということは、そうじゃないSSTはありえる、という風にいうこともできると思う。

そして、続けて以下のように書かれている。

精神障害を体験した人たちのいわゆる社会復帰のむずかしさは、支えの少なさや社会資源の不足だけによるものではない。むしろ「過剰な関与」による弊害のほうが多いのではないだろうか。


医療機関については、そういうことがいえるかもしれないが、どうだろう。地域生活移行後においては、やはり社会資源がまだまだ不足しているのが現状だと思う。

さらに続けて
日々の暮らしの中に、苦労や不安との対立が起きやすい環境をつくっていくこと」と言ってもいいかもしれない。


とも書かれている。「苦労や不安との対立が起きやすい環境」が必要なのは、べてるの本を読めば理解できるのだが、対立の緩衝や逃げ道がほとんどないような地域社会を変えていくという風に読み替えることが必要なのだと思う。だから、正確には「苦労や不安との対立が起きやすく、また、それが受け入れられ生存し続けることができる環境」ということになるのではないだろうか?


そして、この章の最後の節のタイトルは

「弱さ」という可能性……うまくいかないから意味がある

というものだ。こんな風に書きだされる。

ストレスが緩和されて再発を予防できるとか、できなかったことができるようになって自信を回復したというような理由で。私は「SSTはすばらしい」と思うのではない。私がSSTを評価するのは、自分の弱さや人間関係の問題をコミュニケーション上の課題として受容し、仲間の前に示し、たとえうまくできなくてもチャレンジするという「勇気」がそこにはあるからである。そして、仲間の長所を見いだして励ますという「あたたかさ」があるからである。


弱さをわかちあうという風にもいえるだろうか。弱いものが弱いものとして、わかちあい、励ましあい、せいいっぱいの知恵をだす。こういう風に書いてしまうと、すごく美しい物語に回収してしまってるみたいだけど、SSTが「場の地力」を作り、その「場の地力」がSSTを豊かなものにしていくというプロセスはあるのだろうと思う。

それを向谷地さんは早坂潔さんを例に以下のように書いて、この章をまとめる。
SSTを通じて彼が学んだのは、間違わずに理路整然と話すことではなく、わからなくなり混乱したときにも自分を責めたり恥ずかしいと思うのではなく、素直に「緊張しちゃって何がなんだかわからなくなった」と自分をありのままに表現することだったのである。

SSTには、そのような生きる勇気を促し、自己と他者の深い対話を促す手立てとしての可能性を感じる。それは、精神障害をかかえながら生きる当事者の「トータル・リハビリテーション」を超えて、場全体の回復と成長を促す「トータルコミュニケーション(和解のシステム)」の構築という夢の実現なのである。


こんな風に書いちゃったら、少し風呂敷を広げすぎでないかい、と感じないわけでもないが、確かに温かい場の力に包まれたSSTには何かそういうものを予見させる力はあるなぁとぼくも思ったのだった。

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