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zoom RSS 《精神医療論争史》メモ、その3

<<   作成日時 : 2011/07/24 21:17   >>

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http://tu-ta.at.webry.info/201107/article_13.html で、この本、『精神医療論争史』
http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-8265-0316-7.html (版元ドットコム、ここに目次などがある)
第11章●地域リハビリテーションの時代
の2節までのメモを書いた。続けて3節
(3 ● 「訓練指導」か「自主運営」か)以降ののメモ

まず、冒頭で「きょうされん」(この本では漢字で「共作連」と記述、正式名称が、ひらがなになる前の本かも) の作業所の理念が紹介される。
http://www.kyosaren.or.jp/aim.html
このバックボーンとしての「労働による発達保障」などはあまり変わっていないようだ。

しかし、実態はかなり変わっているのだと思う。
前の読書メモについて「今はさすがにそんな風に考える精神科医は少ないと思うけどなあ」と知り合いの精神科医にツイートで教えてもらった。

で、これから書くメモについても、この本の記述が少し古いことを前提に以下



この「労働による発達保障」という考え方に中村正利さんたちの批判を対置する。以下のように書かれている
このような考え方に対して、中村らは「地域活動における病院化傾向」として批判をした。「『社会復帰(就労復帰)』及び訓練というのが強調されたままでいると、過度な期待と役割を作業所に課すことになる。そして作業所は、社会復帰、就労の実現という目標を達成する為に 『訓練生(患者、利用者)』−『指導者(治療者)』という役割関係の強化を図っていく可能性がうまれ、病院という特殊な場で成立した一方的な役割関係の固定化が地域の生活の場にまで貫かれることになり、「病院内『作業療法』がつきあたったと同じ課題に今作業所も直面している」と主張したのである。


そして、この批判が優れているのは、この抽象的な批判だけでなく具体的に利用者が主体になれる4つの条件を提示していることだ。この部分はぜんぜん古くなっていない、いまも気をつけなければならないことだと思う。

1、利用者のイニシアチブによって具体的な作業の工程や行事等が取り組まれること
2、運営の基本的な決定に利用者が関与していること
3、作業所に関わる情報の共有化を行うこと
4、ソーシャルクラブ、友の会等の利用者集団の組織と活動が背後にあること

それに対する黒田隆男さんからの反論が続いて紹介されるのだが、あまり噛み合っていないように思える。引用箇所の問題なのかどうかわからないが、とりあえずタイプしておこう。
「(中村らの主張は)生活技術にみられるさまざまな不得手さという、現実に長時間持続する生活レベルでの障害を、結果的に直視していない」ものであり、「管理・差別構造の中に発病と施設依存の主要因を求めている」ものである。そして、そこで例示されている利用者は「生活上の一般的な自立能力にある程度恵まれ、比較的高学歴で要求水準の高いグループに限られる」


この訓練による「生活障害」の克服という考え方に中村さんは、そんな風に言い出すと、精神障害者は一生訓練を受けるという図式から脱皮することができなくなるというような意味の反論をしている。

さらに寺田一郎さんと前出の高畠さんとのあいだで行われた同質の論争を紹介する。

このあたりの話がこの節のタイトルなのだ。
3 ● 「訓練指導」か「自主運営」か

そして、著者はこの両者の論争が精神病院におけるかつての「生活療法」論争に酷似しているという。この論争はこの本の前半に紹介されている。

この章の最後の節のタイトルが
4 ● 共に生きる
となっている。

冒頭に以下のように書かれている
デイケアや共同作業所などの地域活動がリハビリテーションの場となっているか否かは、要するに、その場が「利用者にとって、主体的に生きられる場か、主人公の役割がとれる場か、社会生活の場となっているかどうか」にかかっていると中村らはいう。


ここで、この中村さんへの違和感が明確になる。どうして、障害者に関する場はリハビリテーションでなければならないのか。それは、この章のタイトルでもある『地域リハビリテーション』という問題の立て方にも通じる。そうして、リハビリテーションでなければならないのか、というのは障害者の国際協力の場面で頻繁にでてくる「CBR]にも感じてきたことだし、この手の批判はいろいろ出てると思う。

このあたりも時代制約という風にもいえるかもしれない。


で、次に紹介される「ガンバロー会」(すごいネーミングだ、褒めてないけど) の仲野実さん書いたものは、そんなことを突き抜けていて面白い。以下に再引用

「精神分裂病とは、もはや、『我々の空間』という近代の全体主義権力秩序に服さなくなった身体のあり方」ではないか・・・したがって、そこからの離脱は「『我々の空間』という権力力秩序に服さなくなった彼の、あるいは私の身体のあり方を、彼と一緒に確認すればいいのであり、彼の身体が、そして私の身体が、彼固有の、私固有の表現を見出してゆくのにつきあえばいいのである」。「もしあなたが、精神科のプロだと自認するのなら、役に立たない無駄な活動を、どれだけうまくできるか見せるべきです。それによって、患者の〔世界との交流、他者との交流〕を、どれだけ深く援助できるのかを見せるべきです。」

ざっくり読んだら、面白かったのだが、タイプしてみると、後半部分は何をいいたいのか、ちょっとわからない(笑)。「役に立たない無駄な活動」と「それによって、患者の〔世界との交流、他者との交流〕を、どれだけ深く援助できるのかを見せるべき」というのを、どのようにつなげて読めばいいんだろう。皮肉なのか、本気なのか?


しかし、この11章の結語は、まあ、ありきたりかもしれないが、大事なことだと思うので、引用しておこう。
 ・・・病者が主体を獲得するには、関わる援助者も主体的でなければならないと私は思う。援助者が主体的であるという意味は、病者と援助者との関係をつねに状況のなかで捉え返していくということである。このように考えれば「主体性とは相互の関係によってお互いが変わりうることを認め合い、しかも変わりあうこと」の謂ではないだろうか。
 私は、そのことをめざす実践を通してはじめて、「共に生きる」方向性が見出せると思うのである。





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