今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 「放射能汚染の現実を超えて」メモ

<<   作成日時 : 2011/09/28 07:57   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

「放射能汚染の現実を超えて」小出裕章著
1991年に発行された本が今年、5月に復刊されたもの。

時間をかけてうだうだ書いたので、いつもに増して、くり返しが多くなってます。公開しますが、自分用のメモです。ご容赦ください。



小出さんの「食べるべき論」の原型がここで展開されている(と思う)。
しかし、これが3・11を経た現在、どのように適応され得るのか、ということが気になる。チェルノブイリ事故への対応としては適当だったことが、当てはまらないような事態が生じているのだと考える。それは東京電力、そして原発を推進してきた政府に補償を求め、責任をとらせる運動を形成しなければならないし、それは始まっているということだ。小出さんがこの本で主張するように、南北のほんとうにいびつな関係がただされなければならないということは論を待たない。反原発運動やあらゆる環境運動、そして環境に限らず全ての社会運動はそのことをちゃんと視野に入れるべきだろう。しかし、原発の恩恵にあずかってきたからという理由で、「年齢に応じて測定した上で食べるべき」という、現在の小出さんが主張していることは妥当しないと思う。


さて、この本、チェルノブイリ後の1991年に出た本だが、雑誌などに掲載された文章がもとになっており、初出はもう少し古い。

チェルノブイリ後の汚染食物輸入禁止について、日本が輸入を禁止しても第三世界の人々が食べさせられるだけなのだから、原発の恩恵にあずかっているわたしたちは輸入を認めて食べるべきだと主張されている。

当時の状況がどうだったかは、ひとまず横に置くとして、この福島第一原発の事故でも、放射能汚染をちゃんと測定して、一定年齢以上の人は食べて農家を支えるべきという主張には違和感を禁じえないということは以前にも書いたし、
http://tu-ta.at.webry.info/201106/article_11.html
いろんなところで批判されている。

例えば、以下。
http://mdebugger.blog88.fc2.com/blog-entry-154.html#comment378

で、この本の先進国の飽食と第三世界の飢餓がつながっているという主張はその通りだと思うし、飢餓を作り出しているのが「先進国」という名の「後退国」だという主張79pにも肯ける。しかし、だからといって、いまの日本で汚染された食べ物も食べるべきという風にはいえないはず。

以下の部分の小出さんの倫理性には敬服すべきものがあると思うと同時に、ちょっとかっこよすぎるのではないかとも思う。
私が原子力に反対しているのは、事故で自分が被害を受けることが恐いからではない。(中略)原子力とは徹底的に他者の搾取と抑圧の上になりたつものである。その姿に私は反対しているのである。15p

ぼくは事故で自分が被害を受けるのも怖いから反対するし、同時に小出さんが指摘するように「他者の搾取と抑圧の上になりたつ」構造の上に立つ、原発にも反対だ。

さらに83pでは、原発は止めなければならないが、弱い人を犠牲にするような形で止めることになってはいけないと主張しているあたりには共感できる。

小出さんは、チェルノブイリ事故の影響の汚染食物の輸入制限に反対しているのだが、いまは汚染されたものを国外に出さないよう、東京電力に買い取らせる努力が必要とされているのだと思う。問題はそれをどのように行うか、のはず。

この本のなかで、小出さんは規制を強化するとともに、汚染食品の飢餓国への輸出拒否の運動が必要という議論に対して、その主張が誤りだとは思わないとした上で、もし、そのような運動があれば、私はこんな主張(日本では輸入禁止にすべきではない)をしなかったという。123p

順が前後するが、V(機種依存文字でローマ数字3)章(この章のタイトルは表題と同じ「放射能汚染の現実を超えて」)の結語は小出さんの思想をよく表している思うので以下に引用。
 反原発運動は、今や非常に大切な試練に立たされている。これまで、その運動を担ってきた住民運動や消費者運動の本質は、端的に言ってしまえば、「いわれなき被害を拒否する」ということであり、被害者としての運動であった。しかし、そうすることが、他の人々に「いわれなき被害」を強制する、つまり、加害者として存在してしまうことになるとき、真に原発を廃絶させる道がどのようなものなのか、もう一度立ち止まって考えてみるべきだと、私は思う。その道は少なくとも日本という国として汚染食料の輸入を拒否するということにはならないと思う。私が国に対して求めることは、規制値を高くすることでも低くすることでもない。そのような規制値にはかかわりなく、正しく汚染の状況を測定し、それを正しく人々に伝えることである。
 宮沢賢治は・・(以下略)108-109p



また、小出さんはW章では、こんな風にも書く。
・・・チェルノブイリ原発事故以来、多くの集会に参加してきて、日本人の大人は汚染食料を食べて下さい、といってきた。しかし、私は、ただ食べて欲しいのではない。大人には真実を噛みしめながら食べて欲しいのである。目をつぶって食べて欲しいのではなく、危険をはっきり視ながら、目を見開いて食べて欲しいのである。そのためにこそ、汚染のデータを公表させることが何よりも必要なのである。
 ・・・私にしても、過去の歴史も未来もなく、ただ放射能を食べたいか食べたくないかと問われれば、もちろん食べたくない。しかし、この件では私は、かねてから思ってきたことがある。それは、ともすると私たちの行為が時間の流れから切り離されて論じられ易いことである。・・・三次元空間に・・・時間という次元が加わっており、私たちは過去の歴史を背負いながら、未来に向かっていま現在を生きているのである。食べるという現実の行為を時間の流れから切り離して、議論することは大きな誤りを犯すことになる。真実を噛みしめながら食べるということは・・・原発を許してしまっている日本人の大人として、明日をどう生きるかということにつながるのである。122-123p


ぼくは小出さんのこの主張をまったく理解できないわけではないが、日本で現実にこのように重大な事故が起きてしまった以上、もうこの議論は成立しないと思う。まず問われるのは東京電力、そして日本政府に責任をとらせることだ。すでに噛みしめながら食べてる場合ではない。現在起きているその運動こそを推進しなければならない。

140pに記載されているようにチェルノブイリのときは汚染食料の「分配」の話だったかもしれないが、今回はそうではない。

しかし、小出さんの主張に視るべきところがないかといえば、現在、考えられなければならない重要なテーマが含まれているとも思う。

この本のなかで、「いずれ破綻はやってくる」と予言し、その結果、この忌まわしい社会が崩壊するとしたら、それは嬉しいことだが、その過程で多くの弱者が犠牲にされることを思えば、運動のありかたを点検しなければならないという。135p

それは自分や自分のこどもが食べる食品の放射能汚染の問題だけを取り上げる傾向についてだ。こどもの生育環境をめぐる多くの運動が生まれている。その気持ちは痛いほどわかるが、運動がそこだけに留まると、自分(あるいは自分の子ども)だけの安全を問題にする排外主義的な運動になってしまうという。

そして、以下の反原発(あるいはそれに限らない)運動への提言についてはちゃんと受けとめる必要がるのだと思う。
・・・運動が「恐い」ということから始まることを、私は否定していない。そうして始まった運動でも、決して忘れてはならない原則があるであろうことを述べているのである。一刻一刻の運動が、真に求めている目標に向かっているかどうか、常に確かめながら運動は進めるべきだと私は思うのである。
 前回の論文(おそらくV章に収録されている「放射能汚染の現実を超えて」のこと)を書いた私に対して、「運動の破壊者」なる批判を寄せた方もおられたし、「運動には運動で応えるべきだ」との指摘を下さった方もいた。私は、それらの批判を私の課題として受けとめ、甘受したい。しかし、私個人への批判とは別に、私が提起した問題については、どうか運動内部で充分に検討して欲しい。135p

20年前、運動内部でどれだけ話し合われたのだろう。ぼくは当時、反原発運動と今より少し離れた場所にいて、横目で眺めるだけだったかなぁ? 

ともあれ、脱原発の運動は、あの6万人の集まりに満足しないで、どこに向かうかという議論をしなければならない。

その議論の中には小出さんの提起する「原発を許してしまっている日本人の大人」としての責任の取り方みたいなことも含まれる必要があるのだと思う。


また、以下のような記述もある。これは現在の状況にもつながるかもしれない。
現在(チェルノブイリ後)の運動の盛り上がり前に、反原発運動に分裂を持ち込みたくないし、盛り上がりに水をさしたくもないとしながら、
しかし、反原発運動が自らの加害者性を不問にしたまま、自らの身を守るという地平にとどまるのであるならば、やはり私はその運動に加われない。なぜなら、そうすることは、搾取され、虐げられたものたちの根源的な連帯に反するからである。そうした運動で仮に得るものがあったとしても、それは本質的な意味では小さなものでしかないと私は思う。
 小倉利丸も言うように、加害者性の認識の必要性は「倫理的な問い詰めとして設定」されるべきではない。そうではなくて、多様な運動を根源的な地平で連帯可能にするためにこそ、その認識が必要になるのである。141p

ここで、小倉さんの名前を見るとは思わなかった。小倉さんと小出さんの対談とか企画できないかなぁと思った。

上記の記述に続く節のタイトルは「汚染測定の醜さと活路」というもの。小出さん自身が放射能汚染の隠匿に対抗して、できるだけ正確な測定と公表を、と主張しているが、汚染を知ってしまえば排除に向かうという湯浅欽史の主張も紹介し、「正直言って私の思いは複雑である」と告白している。

そして、このX章の結びでは、事実を知りえなければ運動も起こらない、とした上で、再び小倉さんの文章が引用される。「数値に対して被害者として向きあうかぎり(中略)罠からのがれられない」さらに、これに続けて以下のように書かれている。
何よりも「加害者」として自らを認識し、加害者として数値に向きあうことから始めたいと思う。「豊かな先進国の人々の願う平和とは〈被害者〉を〈被害者〉のままにしての、〈加害者〉達のための平和以外の何ものでもない」、「もう2〜3発、日本に原爆が投下されればいいんだ、と思っている近隣アジア諸国の人々は意外に多いのだ」という現実が、いま現在、存在している。私たちは私たちの運動を、多様な運動の根源的な連帯という地平で、今一度考え直してみる必要がどうしてもあると私は思う。142p

ぼくは現在の放射能汚染の数値に関して、ぼくたちは基本的には被害者であるという認識でいいようにも思う。しかし、同時に世界の構造を考えると、一人平均の何倍ものエネルギーを消費し、また、生産物を大量に廃棄することを前提の社会に生活しているシステムの中で、加害者の側に立たされているという側面は確かにある。

今回の事故で、新たな加害者性として、そのような構造の上で成立している日本という国家が国策で行ってきたことが世界に大量の放射能汚染を撒き散らしたこと。そして、いまでもこんな危険な原発を世界に売り込むことをあきらめていないこと。

読売新聞は9月7日の社説で、プルトニウム保有による「潜在的な核抑止力」を主張。原発は経済的といえなくなった推進側(主流)はいままで隠していた本音、つまり、いつでも核兵器に転用できる力を持たなければならないといい始めている。

そんななかで、いま、再び大きくなった脱原発の運動。これが、これから、どこへ向かうかが問われている。チェルノブイリ後に、大きくなりつつも結果を残せず収束したことを繰り返してはいけないと思う。今回こそ、原発をどうしても止めたい。そのために必要なことは何かということが考えられなければならない。そして、その考察には、ここで小出さんが提起しているような問題も含める必要があるだろう。

以前も書いたように小出さんの**歳以上食用可というようなタグをつけて販売すべき、というのは実効性がないと思うし、それをすればそのタグを付けられた食品の価格は暴落し、通常の価格との差額が補償されないかぎり、逆に農家を苦しめることになる。

とはいうものの、ここでの小出さんの問題提起には考えなければならない課題も数多く含まれているように感じた。もう、同じことを何度も繰り返してるけど。

脱原発の運動、自らの加害者性の自覚しても、東京電力や日本政府の補償と責任追及を鈍らせてはいけない。

事故の被害の大きさを隠し、逃げなければいけない人に情報を与えず、福島の多くの住民をいまでも被曝させ続けている日本政府の責任は大きい。事故後、「直ちに健康に影響することはない」と主張し、それらのことがちゃんと検証されなければならないと思うし、責任者が処罰され、賠償責任を負わされることが必要だと思う。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
「放射能汚染の現実を超えて」メモ 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる