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zoom RSS 『バリアオーバーコミュニケーション』読書メモ

<<   作成日時 : 2011/10/06 18:03   >>

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先日、偶然いっしょに飲むことになった堀越喜晴さんの2009年の本。

けっこう目から鱗。もちろん、にわかに合意できない部分もないわけではない。ひねりが効きすぎていて、読書メモを書くのにすごく難儀。


「まえがき」には以下のように書かれている。
私は「バリアフリー」を言う前に、「バリアオーバー(バリア超え)ということが真剣に考えられ、実践されなければならないと考える。特に心に関する限り、どうしたってバリアはなくならない。いやむしろ、ある意味では一個の人間として、それぞれにしっかりと心のバリアを持つということは必要不可欠だとさえ言えるかもしれない。・・・15p
バリアという言葉をどう定義するのか、ということにもよると思うが、バリアをなくすのではなく、バリアを越えるという発想はおもしろい。

厳格にいえば、障害者が越えられないバリアはなくす必要があるだろうし、なくならないバリアは越えていく必要があるのだろう。



堀越さんは《私たちの世界は「闇のない世界」だとも言えるわけです》35pと書く。光を知らないのだから、闇もない、と。

また、「どこへ行くんですか?」と聞かれるのが苦手だという。これは「盲点」だった(79p〜)。これ、使っていたなぁと思う。
なぜそれが嫌いかといえば、その問いには、手助けが必要かどうかという確認がないから、というものだ。それを抜きに「手助けしてやろう」という傲慢さを堀越さんはこの問いに感じるらしい。いわれてみたら、そうかと思う。まず、手助けが必要かどうかの確認が必要。

次に苦手な言葉として「勘がいいね」という例が挙げられている。85p〜。
彼は勘を頼りに歩いているわけではないし、その言葉には「別の世界の住人と見なす意識が知らず知らずのうちに混入しているようです」(89p)という。

視角に頼って生きてる身としては、いろいろなことを見ないでやってるのを見ると、単純に「すごい」と思ってしまって、「勘がいい」とか「職人技」とか思ってしまう傾向はぼくのなかにもあると思う。
《その言葉には「別の世界の住人と見なす意識が知らず知らずのうちに混入している》という指摘。ちょっと考えさせられる。しかし、ここで書かれているのとは別の意味かもしれないが、「別の世界」というような認識が必要なこともあるかもしれないと思う。見える世界と見せない世界、それを混同するところからくる誤りを堀越さんは指摘していると思う。これは、その堀越さんの指摘なのだが・・・。

バリアオーバーというとても面白い発想からすると、そこには「別の世界」があるということもできるのではないだろうか。

しかし、現実に生きる世界がひとつしかないことも事実で、そのひとつの世界で生きていかなければならない。

ややこしいのだが、複数の世界とひとつの世界、使い方に気をつける必要がありそうだ。


3つめの苦手な言葉として「かえって」というのが挙げられている。「目の見えないあなたのほうが、かえって・・・ができますね」とか「見える私のほうが、かえって・・・ができないです」とかいう使い方。これはぼくも嫌いだな。でも、何気なく使っちゃてるかもしれない。要注意。


次に「安心して散歩がしてみたいね」という話が紹介される。(94p)これは道が危ないとかいう話しではなく、「どこへ行きたいんですか」と声をかけられ、「ただ散歩してるだけです」と答えると、気が抜けた「はー?」とか、憮然とした「ふん、そう」だったり無言だったりすることが多いという。そんなことがあるのかなぁと思ったら、これは堀越さんだけの経験ではないとのこと。

しかし、それで終わらないのが堀越さんの面白いところだ。そんなときに健常者の申し入れを憮然として断って、健常者を怖がらせ、せっかくの障害者とのコミュニケーションのチャンスを奪ってしまう原因を障害者が作り出してしまうことを危惧する。

そして、親切を受ける親切も必要なのではないかという。最終的にはその申し出を断るにしても、まずはそれを親切として受け入れる余地を障害者の側が持つことが肝要でしょう、と。98p

しかし、それだけではすまない「押しつけ親切の例」もでてくる。
「どこに行くの?」・・・個人情報を開示させられ・・・「じゃ」、さっと私の手を取って・・店の入り口を入るや、いきなり「ごめんくださーい! 目の不自由なお客さんですよー! だれか対応してやってくださーい!!」
親切はコミュニケーションであるはずなのに、コミュニケーションの体を成していないと堀越さんは書く。

堀越さんはある経験から、小学校からの生徒向けの研修依頼があったときに先生に相手に話す時間を求めるようになったという。
ある経験というのが本当にひどい話しなのだが、ここでは略。とにかくその経験から、堀越さんは先生にこそ話をしなければならないと思ったという。そして、こんな話をするとのこと。ここに堀越さんらしさがでていると思う。
要約
こんな風に教えていませんか?

「障害者を見ても驚いてはいけない」
「障害者を見て逃げ出したくなること自体悪いこと」
「進んで声をかけよう、お手伝いをしよう」

では、市民としての、あなたはどうですか?
そんな風にできますか?

先生ができないことをこどもにいっても、こどもの心に根付くことはないでしょう。

もし、どうしてもびっくりしてしまうのなら、とびっきりのびっくりの仕方を教えてあげればいいではありませんか。逃げ出してしまったことがあるのなら、そのときに感じた心の痛みを正直にこどもに語ってあげたらどうでしょう。・・・
こんな話をすると、先生たちの表情が憮然としたものになるのが堀越さんにもわかるというのだが、どうして、この程度のことで憮然とするのだろうと思う。確かに、そんな風に度量の狭い教員がいるのを知らないわけではないけど。


「健常者よ甘えるな」という刺激的なタイトルのコラムもある118p〜。視覚障害者に対して「すごいですねぇ」という健常者。しかし、一方では視覚障害者を前に「お手もとの資料○○ページを見ていただければ・・・」といってあたりまえのように進む会議。そこで、タイトルの「健常者は障害者に甘えている」という評価がでてくるわけだ。
堀越さんはマザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ」というのを「愛の反対はないがしろだ」と読み直したいという。

ちょっと違和感が大きかったのが、ある人から聞いたという以下の部分。165p
「社会福祉の大原則は、ろく『最大多数の最大幸福』といわれる。ところが日本では『最大多数の最小不幸』と解釈される」
これに堀越さんは納得しているのだが、市井三郎は快の拡大ではなく、苦の削減をめざすほうがいいといっていたと思う。
価値観によっていろいろに異なる快ではなく、苦痛を削減することのほうが・・・というようなことだったと思うのだが、あんまり正確には覚えていない。
そいいえば、
http://tu-ta.at.webry.info/201007/article_3.html
に市井三郎の前に、カール・R・ポパーという人が同様の主張をしているということを知ったことを書いている。


167pから始まる部分では、迷惑ボランティアについて言及されていて、今日、仕事の関連で行ってきた「総合リハビリテーション研究大会」で聞いた話を思い出した。
仙台市若林区の障害高齢課 後藤敬二課長が言っていたのだが、
災害時の生活不活発病の多発には、自己満足ボランティアの働きも関係しているとのこと。当事者ができることをボランティアがやってしまうことで、そうなるらしい。この課長の話が面白かったのだが、自分達が想定したストーリーを撮りたがるマスコミの報道が迷惑なボランティアを生み、また、生活不活発病に関する不完全な広報が誤解を産むというような話だった。他都市からの応援職員にもそれに関する知識がないものもいるというようなことも言っていたと思う。

話がそれたが、迷惑ボランティアと同様に迷惑障害者もいると堀越さんは書く。哀れみ同情型のボランティアがいれば、自分は可哀想だと哀れみを売り物にする障害者がいて、押しつけ型のボランティアの反対側には、なんでもやってもらって当たり前という障害者が、というわけだ。
迷惑ボランティアの話はよく聞くし、ありそうな話だと思うのだが、それに対応する「迷惑障害者」という話を書いているのを初めて読んだような気がする。そして、彼は「障害者として見るな、一人の人間として見よ」と主張する自分たちがボランティアを人間として見ないでボランティアとしてみてしまうことに警鐘をならしている。


200pからは「自然」というタイトルのコラム。
ここでは明記されていないが、「自然の」とか「自然な」とかいう形容詞や副詞の問題を書いている。いわゆる自然そのものの話ではない。
ともかく、その「自然」には二つの意味があり、それが混同されているのではないかというのが堀越さんの主張だ。
成り行き任せにしているとそうなるという意味での自然と、本来あるべき姿という意味での自然。

その二つの混同が間違いを産んでいるのではないか、というのが堀越さんの主張だ。

自然な親子関係とか、障害のある人とない人の自然な関係とかいうのが例に出される。

親子関係では、友だちのような自然な関係という言い方の陰で、知らず知らずのうちに(もしかしたら、これ幸いと)、親が当然果たすべき責任や、子どもとじっくり向き合うという努力を避けている面があるのではないかと堀越さんは書く。それが生徒と教師のあいだにもあるのではないかとも。

また、障害者と非障害者の関係ではいままで構えすぎていた反動で馴れ馴れしくしすぎている面もあるのではないか、という。
ちょっと知り合いになったら馴れ馴れしくしすぎている面もあるかもしれないなとちょっとだけ反省。


「感謝」というタイトルのコラムもまた、一筋縄ではいかないひねりが効いている。障害者に安易に感謝を求める風潮を批判しつつも、
「感謝とは決して卑屈な態度などではない、むしろたいへん誇り高い振る舞い」であり「感謝とは本来、情に流されて手もなく言いくるめられているような実のないものなどではなく、人の心や、時として社会さえも動かす力を持った、まことに高貴な実態なのだ」という。


私の障害学215p
では以下のような意見が提出される。
・障害そのものは物理的生理的にはどこまでもマイナスの要素。
・障害者はこれを原材料としてみずから積極的に活かし、自分の「個性」にまで育て上げることができる。

現状では障害者にもっともふさわしい呼称はDischancrd「チャンスを奪われた人々」
「どこまでもマイナス」といういいかたは気になる。プラスとかマイナスとか、そんなことを決める必要はないようにも思う。



運動に巣くいがちな虫「怒り虫」303p
怒りは必要だが、怒り虫に主導権を与えてはいけない、しかし、この虫、気づかないうちに主導権を奪うことについては魔法使い並みに手だれだという。こんな風に書いてある。
・・・。相手の謝罪の言葉の中に誠意がこもっているかどうかを冷静に見抜こうとしなくなってしまっているようなときには、十分に気をつけなければなりません。そんなときには運動の中にこの怒り虫がいつしか発生していて、密かに主導権を握るべく活動を開始しているのです。これをなるべく早いうちに駆除しておかないと、運動はいつしか当初の高潔な「義憤」から、まったく違ったものへと変質してしまうことでしょう。
 ・・・私はなにも、すべての差別撤廃運動や抗議活動の中には潜在的にこの醜い虫が巣くっていて、しょせんは堕落する運命にある、だなんて言っているのではありません!・・・高潔さを失わなかった諸先輩方の尊い運動に支えられて、今の私たちの生活があるのだということは紛れもない事実です。ただ、それと同時に私たちは、義憤に発しながらもこの虫を食い止められなかったがために分裂してしまったり、光を避けるようになってしまったような運動も多々あるという事実から目をそむけてはならない、と言いたいだけなのです。306-7p
「怒りは必要だが、怒りに支配されてはいけない。」というのは順当だと思う。そして、怒りに支配されて運動がゆがめられたり、分裂したりというのは、確かにありそうな話で、自戒が必要な部分だと思う。


また、C.S,ルイス『悪魔の手紙』を引用して
「われわれの一番苦手なものは、バランス感覚と、ユーモアのセンスというやつだ」。だから、人の心にそういうものが兆さないように、常に人をまじめで、熱心で、潔癖な状態にしておけ、と言うのです。310p
「常に人をまじめで、熱心で、潔癖な状態」のぼくは悪魔に狙われやすいなぁ(笑)

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