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zoom RSS 「しあわせの開発学」めも

<<   作成日時 : 2011/12/24 09:54   >>

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画像日時: 2011年11月10日 8:36
というタイムスタンプのノートがフェイスブックに残っていたので、ちょっといじって、こっちにも転載。
某雑誌にぜんぜん書評らしくない書評っていうか、書評を僭称した文章を書いたので、そのうちWebでも読めるようになるかも。



以下、とりあえず、なんの整理もしていないメモ


「しあわせの開発学」めも


『しあわせの開発学 エンゲージド・ブディズム入門』

「ラジカルな保守派」102pを自認するスラックさんの本

このタイトルの「開発」がこの本では二重の意味で使われているだけでなく、読み方も「かいはつ」と「かいほつ」に分けられている。

詳しい意味を知りたい人は読んでください。

早稲田の西川潤さんらが編集した「仏教・開発(かいほつ)・NGO」で、この使い分けを読んだのはずいぶん前だったような気がする。

ともあれ、
http://namakemono.shop-pro.jp/?pid=32854498
上記のページから目次と
〜〜〜
◆スラックさんからのメッセージ 3.11後を生きる日本のみなさんへ
◆訳者あとがき 辻信一「幸せ、開発、エンゲージド・ブディズム」
〜〜〜
を読むことができる。

上記のスラック・シワラックさんのメッセージから抜書き。
私たちは、他者にうち勝つために競争しているバラバラの自我として生きているのではなく、実は、他者に依存し、そのおかげで生きているのです。他者とは、人間ばかりではなく、私たちの周りにある樹木や大地や水や空気です


そして、この本では「根こそぎ」というのがひとつのキーワードになっている。英語でどういうのかは知らないが、ソ・キョンシクさんが最近のNHKの番組で「根こぎ」という言葉を使っていたのを思い出した。


この本では以下のように使われる。
グローバル経済における「開発」とか「経済発展」は、富の格差を拡大し、自然資源を枯渇させ、人々を文化から根こそぎにする。(35p三章の本扉)


これ、本文中では以下のように書かれている。
国家と大企業、そしてその両者の連携によって成り立っているグローバル経済こそが、富の格差を拡大し、自然資源を枯渇させ、人々を文化から根こそぎにする、現代世界の構造的暴力の主な原因なのです。 43p



チベット亡命政府首相 サムドン・リンボチェ による「序言」から
今、地球上の生きとし生けるものが、暴力とテロリズム、経済格差、環境破壊、そして「宗教的不寛容」や「文明の衝突」などと呼ばれるものによって脅かされています。これらの問題はすべて人類によって生み出されたものです。もっと正確に言えば、人間が持っている貪欲や憎悪といった負のエネルギーによって、です。工業化によって、自分たちが必要としないものまで生産できるようになった私たち人間は、市場なるものをつくり出して、モノを売り続け、つくり続けてきました。そして、さらにその市場を拡大するために、人々を教育し、洗脳し、煽り合うようにして互いの貪欲さを膨らませてきたのです。

(中略)

しかし、そんな時代にあっても、エンゲージド・ブディスト(社会参画する仏教者)の指導者であるスラック師は、希望を信じて、ブッダ(仏陀)の教えに基づいて世界を救うためにあらゆる努力を続けています。一人ひとりのよき生き方の上に築かれる持続可能な経済、倫理によって導かれる政治とそこから生まれる平和な社会、草の根からの開発(かいほつのルビ)(サルボダヤ)…。これらはスラック師が、現在の世界の危機的な状況を根本的に転換していくために、差し出してくれている処方箋です。2-3p



以下、本文から
仏教徒である私には、比較優位性による競い合いが社会の究極の目的だなどとは思えません。私が関心を寄せるのは、社会的な組織が本来もっているはずの力――苦しんでいる人に手を差し伸べ。公正な方向へと社会を向かわせ、個々人の可能性の実現を助けるための力――です。43-44p


チェロキー族の医療師・チベット仏教の先生 ディアニー・イワフー
「・・・平和は私たちの中に、種子として、歌として、すでに生きています。はっきりと見て、はっきりと語ることによって、それを呼び出すだけでいいのです。美しいものを見て、その美しさを讃えなさい。知恵の小川は私たちの心を豊かに流れるでしょう」49p


〜〜〜
世界銀行にとっては構造調整が市場開放を意味するのに、地域住民にとっては文化の根絶を意味していた 51p

〜〜〜

〜〜〜
ガンディーのように物質主義への抵抗感が強すぎては、開発や発展の目標を達成することはできそうにないと主張する人々もいますが、彼らは、いかなるものもスケールが大きくなれば、その分人間性を疎外することになると、ということを忘れています。55p

「ガンディーの物質主義への抵抗感」については、ぼくは別の観点から違和感がある。ぼくもスラックさんが書いていることにも同意するのだけれども、物質主義にはそれなりに魅力があって、なんだかんだいって、そこにも惹かれてしまう自分がいるわけで、そういう部分を全否定できる人はいいんだけど、そういう部分を含めて人間を肯定することも必要なんじゃないかと思うわけだ、っていうか、ぼくが肯定してほしいのだけど。

だから、大切なのはそのあたりのバランス感覚で、どのあたりでバランスをとるかという話じゃないかと思う。すごく微妙な話なんだけど・・・。

ともあれ、スラックさんは、このすぐ後にE・F・シューマッハの以下の文章を引用する。
「簡潔さ(シンプリシティ)と非暴力が、仏教経済学の基調である。信じられないほど小さな手段によって、大きな満足をつくり出す−−仏教的生活を貫くこの徹底した合理性に、西洋の経済学者は驚嘆せざるを得ない」56p


これを受けて、スラックさんはシューマッハが
==
「生産」よりも「人間」にもっと大きな価値をおくべきことを提唱した最初の経済学者 57p 
(不必要と思われる読点、削除。こういうのちょっと多いと思う、この本。ま、ぼくの書いたものも、どうしてここに点が入るのかわからないものも多いけど)
==
だという。

さっき、書いたことと重なるのだが、簡潔さ・小ささを求める合理性というのは理解できないわけじゃないが、それを押し付けられるのも窮屈だと思うわけだ。社会運動とスピリチュアリティの微妙な関係もこのあたりにあるのだと思う。スピリチュアリティの話は誰からも干渉されたくないような部分の話ではある。しかし、それを欠いた社会運動にぼくが魅力を感じないのも事実だ。その両者をどうつなぐことができるのか、そのあたりをもっと考える必要があるのだと思う。

スラックさんはガンディーが主張する「村の自律」を紹介した後、
「それに応じて、国家レベルでの意思決定に深く関わることが要請されます66p」
と書くのだが、ラミスさんのガンディー論と微妙にずれている部分があると思う。ラミスさんはガンディーが村が国家だという部分を強調していた。スラックさんの書きかただと、「国家レベルの意思決定」に少し重きをおいているようにも読めるが、ラミスさんのそれは、ガンディーがそこを超えているところにラディカルさがあると主張していたのではないだろうか。そこではラミスさんの論に賛同する。


以下をサブシステンス視座と呼ぶことができるかもしれない。
誰もが基本的な衣食住や医療サービスを手にできること、それが出発点です。贅沢ではない基本的なニーズを、簡潔な方法で、安価に、外部への過度の依存もなく満たすことができなければなりません。58p

===


スラックさんの以下のバランス感覚は好きだな。社会運動と人間存在のあり方。
受益者であるはずの人々に対して説明責任をもたないような経済政策に、私たちは異議を申し立てるべきです。不公正な現状を維持する役割を果たす法律や司法システムに、私たちは挑戦すべきです。「大事なのは人々だ」というE・F・シューマッハの言葉のように、これまでとは違う考え方に基づく経済と政治への転換が求められています。そして、バラバラにされていた人間存在の多面性が統合され、頭脳と心がつんがるような新しい教育が必要です。こうした一連の転換を通して、より公正で平和な世界をつくり出すことができるのです。60p

===

真の教育・・・思索と活動、スピリチュアリティと政治、ユーモアと厳粛さが融合 75p


政治制度や経済制度をつくり直すこと自体が、人間の解放をもたらすわけではありません。個々人の内の変化なしになにごとも始まりません。社会の平和が成り立つのは、その社会の構成員が心穏やかであるときだけです。(略)真の安心や安全や治安は、私たちが自分自身をどう転換するかに、かかっているのです。

私はしかし、社会的な活動をやめて自分の内面の平和だけに取り組むことを提案しているわけではありません。悪事を引き起こすシステムを容認するとき、私たちはこの悪事に賛同しているのです。個人の解放と社会の解放は表裏一体です。個々人の転換に取り組むと同時に、抑圧的なシステムと対峙しなければなりません。そうであればこそ、現状を維持しようとする勢力からの抵抗や報復がやってきたときにも、精神的な力によって、危険を捉え、避けながら、敵であるはずのものを許すことさえできるのです。104p



65pの生物多様性条約に関する否定的な記述と肯定的な注。こういうアンバランスはどうなんだろう。

「消費主義へのオルタナティブ会議」80p


開発とは、近代化された植民地主義です。私たちはよく無意識に、「後進国(アンダーデヴェロップド)」「発展途上国(デヴェロッピング)」「先進国(デヴェロップド)」などの言葉を使いますが、これはかつての植民者たちによって押しつけられたものなのです。(カッコ内のカタカナは引用者による補足)108p



私たちには、グローバル化によって均質化された薄っぺらな”文化”に代わる、真のローカルな知恵が必要です。先住民族からそれを学ぶことができます。

地域の文化やコミュニティに重心を置くローカル化の運動が、世界中の多くの場所で起こっています。ぜひをそれを応援しましょう。112-3p


「資本主義による解放」という神話から、持続可能な未来の展望が開けることはありえません。未来というものは伝統的知恵と文化の上に築かれるのです。それは、ニューヨークやロンドンにではなく、シャムやラダックやケーララの草の根のコミュニティー運動の中にこそ見出されるでしょう。

世界の未来には、相互関係性というスピリチュアルな観点が必要です。その世界は、平和、非暴力、全生命のための公正という原則の上に・・・・
120-121p


自分たちの伝統こそが最高だとは決して思わないことです。すべての伝統や習慣から学び、それらを尊重すべきです。121p


思いやりを意味する「メッタ」というパーリ語は、「友」という言葉から派生したものです。仏教における洞察や慈悲は友情に基づいたものなのです。130p
うちの近所にメッタっていうタイ料理屋があるんだけど、ここから来てるのかな?


以下の部分は意味不明

===
仏教は、ブッダ的な心の平和を得た人々を通して、社会生活の中へともたらされます。この人たちは無為を実践している――つまり、「しないこと」をしているのです。言い換えれば、彼らの存在自身が愛で満たされているのです。森の中に籠って瞑想に徹するものだけでなく、世界のただ中で活動する賢者たちもいます。 (この後、さまざまな活動の事例が紹介される)
===

何度、読んでもよくわからないので、この本の原著 The Wisdom of Sustainability: Buddist Economics for the 21st Century を注文してしまった。でも、送料込みでちょうど1000円ちょっと。送ってきて、読んで、いま、気づいたんだけど、ぼくの英語力では歯が立つわけがなかった。活動することと「しないこと」の関係、どう考えたらいいんだろう。


ティク・ナット・ハンの書の写真がでている。

それには
You are not a
creation
You are a
manifestation
とある。134p

意味がよくわかんないのだけど、気になる。
直訳は「あなたは被造物ではありません。『現れ』なのです」かなぁ

フェイスブックで友人に聞いてもらった答え(Hさん、ありがとね)
manifestationっていう単語は私の使用語彙じゃないので、調べてみました。恐らく、この意味が一番しっくりくるかと…。

〔霊魂などの〕現れ、顕現

誰かが作ったものじゃなくて、魂が(自発的に)具現化されたものだ
というような感じなのでしょうか。

他に何か解釈は寄せられましたか?
11月9日 7:30


これへのぼくのコメント
返事を書くのが遅くなって、ごめんなさい。他の解釈は誰からもよせられませんでした。

で、a creation ではなく a manifestation、このあたりに、仏教とキリスト教の違いがあるのかなぁと感覚的に思ったりしました。根拠は薄いんですけど。



===
プログラムも、組織も、政治党派も、戦略もたくさんあって、あり余るほどです。でも問題なのは、苦しみや不正を減らそうとする私たちが、いまだに行動――特に政治行動――のパワーだけに全幅の信頼をおいていることです。活動家や知識人は、この世のすべての悪を、他人のせいにしたり、システムのせいにしがちです。そして、彼ら自身の内にも、そのような負の要素が蠢いていることを認識しようとしないのです。・・・136p
誰か社会問題に関心のない宗教者がこんな風にいっていたら、ぼくは鼻で笑っていると思う。でもスラックさんは同時に
私はしかし、社会的な活動をやめて自分の内面の平和だけに取り組むことを提案しているわけではありません。悪事を引き起こすシステムを容認するとき、私たちはこの悪事に賛同しているのです。個人の解放と社会の解放は表裏一体です。個々人の転換に取り組むと同時に、抑圧的なシステムと対峙しなければなりません。104p
とも書いているし、実際に実践している。そして、こんな風にも書く。
開発とは、近代化された植民地主義です。私たちはよく無意識に、「後進国(アンダーデヴェロップド)」「発展途上国(デヴェロッピング)」「先進国(デヴェロップド)」などの言葉を使いますが、これはかつての植民者たちによって押しつけられたものなのです。(カッコ内のカタカナは引用者による補足)108p
「資本主義による解放」という神話から、持続可能な未来の展望が開けることはありえません。未来というものは伝統的知恵と文化の上に築かれるのです。それは、ニューヨークやロンドンにではなく、シャムやラダックやケーララの草の根のコミュニティー運動の中にこそ見出されるでしょう。120-121p


そんな風に書くスラックさんがいうから、耳を傾けたくなる。

しかし、スピリチュアリティは外からの働きかけとあまり親和性をもたないように思う。では、どうすればいいのか、そこでぼくは立ち止まってしまう。

スラックさんは「社会変革とスピリチュアリティは切り離すことができません」136pという。ぼくもたぶんそうじゃないかと思う。しかし、どのように、どんな文法でスピリチュアリティを語ればいいのかわからないのだった。


===
ブッダ(仏陀)という言葉はもともと「目覚めている」という意味をもっています。私たちが簡素と謙虚の徳に目覚めて、貪欲・憎悪・無知によって生み出された苦しみに気づくとき、私たちの意識は生まれ変わっています。自分自身にも他人にも、心を込めて向き合うようになり、社会変革にも当然のこととして取り組むようになります。140p



中村尚司さんの解説から
仏教経済学と呼べば、たいてい「少欲知足」という答えが返ってくる。私のように軍国教育を受けた世代には、「欲しがりません、勝つまでは」というスローガンが懐かしい。でも、戦時中にもヤミ屋がいたことが示すように、質素な生活の実行は難しい。「少欲知足」はいかにも個人的な営為にふさわしく、公権力が強制できるものではない。他方、幸福概念の定義は、不分明である。

しかし、肝心なことは、市場経済に変わる経済システムが強く求められる時代が来たというスラックのメッセージである。それは、この日本のポスト・フクシマ時代の合言葉である。161p


「少欲知足」やブータンのGNHも無意味とはいえないが、私的な営為や感受性が占める比重が大きすぎる。ゴータマ・シッダールタの覚りの核心は、関係性が存在に先立つ「縁起」である。彼自身が「縁起の法は、人びとの知りがたく悟りがたいものである」と語っている。162p


仏教経済学は、個々人の努力によって達成されるものではなく、道を行き交う人びとが相互に支え合うネットワークの中にある。エンゲージド・ブディズムは、スラックとともに、平坦とはいえない道を歩きながら、市場経済に代わるネットワークを築いていくに違いない。

===

エンゲージド・ブディズム

 このスラックさんの思想と行動を支えるのが、エンゲージド・ブディズムといえるだろう。あとがきで、辻信一さんは、これには定訳がないといい、これまでの訳として「社会参加する仏教」「行動する仏教」「闘う仏教」「社会をつくる仏教」などを紹介しており、この本ではカタカナの英語表記だ。これが何かということを比較的簡潔に表現しているのが、ここで紹介されている阿満利麿さんの『社会をつくる仏教――エインゲイジド・ブッディズム』という本からのエッセンスの部分の引用。以下、それを要約したもの。
===
「苦」からの解放を実現するのが仏教であり、従来の仏教では「苦」の原因は個人の内面の問題とされてきたが、ベトナムの仏教徒がその原因は社会にあることに気づき、その変革に立ち向かうことになった。エンゲイジド・ブディズムという言葉は新しいが、その思想や実践は、仏教がめざしていた「利他」に他ならず、その意味で、日本の状況に即しながら仏教の理想を追っていくと、エンゲイジド・ブディズム」という広場に出ることになるだろう。
==

蛇足なんだけど、共訳の人のことが、このあとがきのなかではなにも書かれていないのが気になった。


中途半端だけど、とりあえずのメモ、ここまで

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書評(らしくない)『しあわせの開発学――エンゲージド・ブディズム入門』
季刊ピープルズ・プラン56号掲載 =============== スラック・シワラック著 『しあわせの開発学――エンゲージド・ブディズム入門』 発行:ゆっくり堂 二〇一一年七月 定価:一〇〇〇円+税 ...続きを見る
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2013/03/10 06:29

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめまして。

“You are a manifestation”についてひとこと言いたくなったのでコメントさせていただきます。

“I am a manifestation”は「無常観」なのだと思います。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

とか。

祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり

とか。あるいは、

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならん
有為の奥山 けふ越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず

とか。

あと、Wikiの「現象」のページも参考になります。

愚樵
2011/12/24 11:00
愚樵さん、どうもありがとうございました。
Wikiの「現象」のページ、読んだのですが、難しすぎてよくわかりませんでした。すみません。

ただ、なんとなく、意図して、何かやろうとするのではなく、流れの中で存在するっていうような感じなのでしょうか?間違っていたら、ごめんなさい。
tu-ta
2011/12/24 12:33
すみません。再度コメントを。

「現象」のページに対義語は「本質」と出ていましたが、こちらと併せて考えば理解しやすいかもしれません。

例えば竜巻という現象があります。これは誰もが現象だと知っています。竜巻の本質は空気ですよね。

たえず流れゆく河の流れの中に現れる泡も同じく現象。そして人間も同じだ、ということなんです。縁起や法(ダルマ)といった本質による〈現れ〉なんです。

ちなみに。こういった考え方から資本主義をみれば、その歪みの大元は貨幣という「現象」を「本質」だと思いなしたところにあると言えます。

http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-580.html

愚樵
2011/12/24 13:55

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