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zoom RSS 「エンパワメントの作業定義」に触発されて

<<   作成日時 : 2012/09/13 04:04   >>

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すごく久しぶりのブログ。
いろいろあったことや読んだ本のことを書きたいんだけど、書けなくなっている。歳のせいか(笑)。

以下、本題。(とはいうものの、ほとんど引用)

エンパワメントの作業定義 (A Working Definition of Empowerment)
ジュディ・チェンバレン (Judi Chamberlin)
http://www.sw.osakafu-u.ac.jp/~matsuda/A_Working_Definition_of_Empowerment-Japanese.pdf
というのがあるのをぼくは知らなかったのだけど、これを松田博幸さんが翻訳していて、障害学のMLで紹介してくれてた。
(これが書かれた背景などを知るためには、松田さんが以下
http://www.sw.osakafu-u.ac.jp/~matsuda/mentalhealthliteratures.htm
で紹介・翻訳しているものがいいはず)

で、上記の定義の「はじめに」には、米国でもエンパワメントに定義がなく、誤用される例が出されている。
「エンパワメント」は、(すくなくとも合州国の)精神保健サービスにおいて、非常によく用いられる用語になりました。ほとんどすべての種類の精神保健プログラムはクライエントを「エンパワー」することを主張しています。しかし、実際には、用語の操作的定義はほとんどありません。また、その用語を使っているプログラムが、使っていないプログラムと比べて、測定可能な何らかの違いをもっているかというと、まったくそんなことはありません。定義がないまま、言葉が、ありふれた政治的なレトリックになってしまっています。意味の幅があまりにも広すぎて、言葉が、固有の意味を完全に失ってしまう危険にさらされています。たとえば、合州国の保守的な政治家たちのなかには、社会保障給付のカットが受給者たちを「エンパワー」するのだ(そして、思うに、自給自足でやっていけるようになるということなのでしょう)と主張することで福祉「改革」を進めてきた人たちがいます! こういった使い方は、「エンパワメント」が大切な意味をもつ概念だと主張するのを難しくします。


というわけで、定義が試みられる。
ここで試みられた定義がただの定義ではなく「作業定義」 (A Working Definition of Empowerment)だということも重要かもしれない。("A Working"にはいろんな意味がありそうだと思いつつ、やっぱり英語 or 米語のことはよくわからん))

んで、ざっくりしか読んでいないのだけれども、興味深く触発されるものがあったので、酔いの勢いに任せて、以前書いた森田ゆりさんのエンパワメントの定義を紹介させてもらったので、ここにも記録。


松田 博幸 さま

こういう翻訳作業、英語に不自由なものにとても助かります。
ありがとうございます。

とりあえず、エンパワメントの作業定義のざっくり、読ませていただきました。

いろいろ参考になります。

重要で必要な議論だと思っているということを前提に、あえて違和感の部分を書きます。

ここで、エンパワメントとは何かという前提の議論が抜け落ちているように感じました。

というのは、ぼくは日本語で書かれた森田ゆりさんのエンパワメントの定義がとてもわかりやすく大好きだからです。


彼女は「エンパワメントと人権」という本の中で以下のように書いています。


==適当な抜粋及び要約==

エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。

なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。

エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。

人ではなくスピリチュアリティがそれを培ってくれることも多い。神様でも仏様でも大地でも宇宙の心でも、あるいは友人でも、セラピストでも、家族でも、わたしという存在をあるがままに受け入れ受容してくれる存在との対話と交流がなければ、わたしたち人間は自分の大切さを心から信じることはできないようだ。

エンパワメントとは「力をつけること」ではない。それは「人と人との関係のあり方だ。人と人との出会いのもち方なのである。おとなと子ども、女と男、女と女、わたしと障害者、あなたと老人、わたしとあなた、わたしとあなたが互いの内在する力にどう働きかけるかということなのだ。…お互いがそれぞれに持つ力をいかに発揮し得るかという関係性なのだ」

エンパワメントとは、「自分をあるがままに受容し、自分の生命力の源にふれることだ。裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の生命力を吸い上げることなのだ」。

===

以上
http://tu-ta.at.webry.info/200810/article_12.html
でまとめたものからの引用でした。


米国ではおそらく、このようなことは書くまでもない前提なのかもしれませんが、日本ではエンパワメントがあたかも、外から力をつけることであるかのように使われていることが多いので、気になりました。

しかし、ここでのエンパワメント概念に関する記述を読むと米国でもそのような誤解があるのでは、と感じたのですが・・。

雑駁に感じたことをさっきまで飲んでた酔いに任せて、なぐり書きさせていただきました。
失礼があったら、ごめんなさい。

MLに投げた文章、ここまで



その後、ここに掲載されている
リカバリーと健康のためのコミュニティ・ダイアログ(Community Dialogues
for Recovery and Wellness)
ダニエル・フィッシャー(Daniel Fisher)
医師、博士(M.D., Ph.D.)
訳:松田 博幸

を読んだ。これがぼくには上記の文章以上に興味深い。
http://www.sw.osakafu-u.ac.jp/~matsuda/Community_Dialogues-Japanese.pdf
以下、そこから部分引用
・・・
鋼鉄とコンクリートから成るこの冷たい世界が、私たちを、愛を育むたましい(spirit)から切り離しています(すべての人びとが、そのようなたましいが完全であることを必要としています)。そして、精神科医は、私たちが体験しているどんなストレスも化学的な不均衡によるものであり、それは診断され、薬で治療されるべきであると人びとに確信させることによって、そのような疎外を永続させています。しかし、対話は、私たちの違いに価値を置く、発展的なアプローチを提供してくれますし、そういったアプローチを通して私たちは互いを愛するようになるのです。・・・

・・・

精神疾患の症状として現れているのは、いのちが危ないという緊急通報(vital call)なのであり、行動して、自分たちのコミュニティを作り、エンパワーし、よみがえらせないといけないという要求なのです。もし私たちがそれらの症状の要求に気を留めない場合、あるいは、それらの症状を薬や入院で取り除かれるべき個人の病理のしるしだと考えて、症状を取り除こうとする場合、私たちは、私たちの社会のさらなる崩壊という危険を冒しているのです。苦痛からくる人びとの叫びを取り除くことは、家のなかで警告音を発する煙探知機を取り外すようなものです。煙探知機の甲高い音から一時的に解放されはしますが、家は焼け崩れてしまいます。

・・・

健康キャンペーンにおけるリカバリーのためのコミュニティ・ダイアログ:

ナショナル・エンパワメント・センターは、コミュニティ・ダイアログ・キャンペーンを呼びかけて、リカバリーと健康を精神保健システムや社会にもたらそうとしていますが、それは対話の原理を学ぶことを通して進められます。

・人全体を、その人がもつ違いとともに、尊重します。
・自分の考えは脇においておきます。
・ともにいて、深く聴きます。
・根っこにある考えや感情を声にします。
・こころとこころで。
・いまそのときにおいて、人間として対等性をわかちあいます。

対話は、すべてのレベルにおいて愛のある健康なコミュニティを築く、効果的な方法です。真の対話に参加することを学ぶということは、もっとも深いスピリチュアルなレベルにおいて理解し、ケアするという深い行為なのです。


すごく興味深かったのだけれども、下手に手を出すとやけどしそうな感じもあるなぁ。

とりわけ
精神疾患の症状として現れているのは、いのちが危ないという緊急通報(vital call)なのであり、行動して、自分たちのコミュニティを作り、エンパワーし、よみがえらせないといけないという要求なのです。もし私たちがそれらの症状の要求に気を留めない場合、あるいは、それらの症状を薬や入院で取り除かれるべき個人の病理のしるしだと考えて、症状を取り除こうとする場合、私たちは、私たちの社会のさらなる崩壊という危険を冒している

という部分。精神医学の根幹にかかわる部分じゃないかと思う。これを「社会モデル」と呼ぶこともできるだろう。しかし「精神病」の世界では、まだまだメディカルモデルや個人モデルが主流なんだと思う。

また、他方でこの「病気」の世界で極端に「医療」を否定してしまうと間違うこともありそう。最近読んだ「精神科医は今日も、やり放題」という本にはそういう危険がつまっていたと思う。医療モデル批判の方向を間違えるとこんな風になるという見本といえるかもしれない。

そのあたりのことは
https://twitter.com/duruta/status/239491947117547520
で@accelerationさんから教えてもらった本も読んでみたいと思う。





最後に
最初に紹介した投稿に松田さんからもコメントをもらったので以下に部分(といってもほとんど)転載
どなたについても、ブログでの紹介、当該ページへのリンク、OKです。
ありがとうございます。

>ここで、エンパワメントとは何かという前提の議論が抜け落ちているように
>感じました。

このたびのチェンバレンさんの論文のみについていうと、
森田さんがいわれている

>それは外に力を求めて、
>努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすで
>に豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。

といったことは、おそらくは、
それぞれの「要素」に通底している、ということになるのではと思いました。
それが独立した要素として取り出されていないというのは、その通りだと思います。
乱暴なたとえを使えば、
柱(15の「要素」)は示されているけど、かならずしも、15本の柱に共通する土台は明示されていない、
そういうことになるかとは思います。

でも、同時に、
森田さんがいっていることはそのような土台に含まれているよ、
ということにもなるのではと思います。

なぜそのようになったかというと、一つには、チェンバレンさんたちが、今後、「要素」をたたき台にしておこなわれるディスカッションのなかでそのようなことが掘り起こされ、深められる余地(スペース)を残したかったというのがあるのでは、とも思ったりします。本文のなかでも、ディスカッションの意義について述べられていますし。

ダニエル・フィッシャーさんは、リカバリーを論じるなかで、
エンパワメントがリカバリーの重要な構成要素だとした上で、
人の内面にある力が対話を通して高められることを強調しています。
森田さんがいわれていることは、そのあたりと近いように思います。
(チェンバレンさんの論文と同じところに載せているフィッシャーさんのものに、そのあたりのお話が出てきます。)
松田さんがMLで書いてくれたレスポンスここまで。


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