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zoom RSS 「フクシマの正義」(開沼博著)メモ

<<   作成日時 : 2012/10/18 22:20   >>

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いろいろ物議をかもしたりしている開沼さんが3・11後に書いたものを集めた本。

なかなか面白かった。開沼さんの問題意識が明確にでていると思う。ただ、Webなどでの発言との整合性が見えない部分は多少あるが、どうもあえて、プロヴォーキングに書いてるようだ。
そのプロヴォーキングな挑発に乗ってしまった感はある。

読み返す気力が萎えるほど、無駄に長いメモといえるかも。

以下、メモ

まず、第1部の最初の「ぶつかりあう正義」について


興味深かったのは沖縄の問題との対比。
こんな風に書く。
沖縄の問題を「他者」の問題として捉えているうちは「米軍基地がないほうがいいよね、沖縄の苦しみを取り除きたいよね」という一つの「善意」において合意できるかもしれない。しかし、問いの具体性が「県外移設なのか、国外移設なのか」と一歩進んだ時、「善意」は分裂する。そして、本来の目指すべき道筋は忘却され、現状は維持される。
 (中略)「善意同士のぶつかり合い」に走った分断線を上手につなぐ方法を私たちはまだ持ち合わせていない。私たちはその分断線を真正面から捉え、まだ見ぬその解決策を模索しなければならない。25p
この間、ラミスさんの提起を受けて考えてきた話がこんな風にでてくる。

http://tu-ta.at.webry.info/201202/article_1.html
とか
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=122
参照


ともあれ、これに続く部分で、開沼さんは善意の分断の背景にあるものとして
・・・「一つの解がない。にもかかわらず一つの解を求める志向」、あるいは「科学的合理性に基づいた複数の解が並立している状況への認識不足」だ 26p
と書く。

分断線を正面から捉え、その解決策を模索しなければならないという問題意識までは合意できるのだが、その分断を超えるために考えられなければならないその「背景」にあるものが「複数の解が並立している状況への認識不足」なのかどうか、疑問は残る。たとえば、県外移設をめぐる分断の背景にそれがあるとは思えない。

この科学的合理性とかいうものも、それをどう捉えるかという議論を抜きに使いにくい言葉だと思う。


そして、この「ぶつかりあう善意」の結語部分は以下のように書かれている。
 社会の「善意の分断」を再度つなぎ合わせるために今求められるのは、自らの考えが唯一・最上のものではないことを自覚し、社会に複数の「信心」が存在する状況を認め、その前提で議論を始めることだ。自らの考えに合わぬ者を、蔑み罵り責任をなすりつける「宗教紛争」の先には、「善意の分断」の中で現状の課題が忘却され、坦々と維持される未来が待つだけだ。29p
この前半の文章はそのとおりだと思う。しかし、後半の文章には重要な欠落があり、そこに開沼さんの弱点があるのではないかと思える。

確かに「善意の分断」には留意しなければならない。しかし、原発には危険がないという神話を無理やりに作り出し、自らの利益の追求に余念がなかったものの責任は問われなければならないと思う。そこを言わないで、「宗教紛争」とだけ非難する態度はどうかと思うのだ。



次の「日本はなぜこんなに変わらないのか」の中で興味深かったのは、以下の部分
・・・「悪」ありき、答えありきの描き方を避けながら研究を進めた。そして「なぜ福島が、そして日本社会が原発を受け入れて、維持してきてしまったのか」という問いへの答えが、理想を掲げる一方で「敵」作りばかりして事の本質を見失ってしまった、まさにその「つまらなさ」の構造の中にこそあるのではないかという思いに至った。38p

そういう面は否定できない側面もある。原発推進と反対の間で、ちゃんと対話らしい対話ができてこなかった。
しかし、対話を拒んでいたのは主に推進する側だったという事実もあるのではないか。もちろん、反原発側にも反省すべき点はあるだろうが。

同時に、細々ながら、そのような対話が試みられてきたのも事実だ。東北大学での2度にわたる討論会や、この間、原発国民投票が実施している討論会には見るべきものが多いと思う。そういう小さな努力を無視しているかのような記述は気になる。


また、開沼さんは原子力開発の背景にある潜在的核武装能力の保持への欲求という事実をほとんど無視しているように思える。その問題を提起したら、「善意のぶつありあい」という彼の立論が見えにくくなるからだろうか。

しかし、そのことを抜きに原子力開発の歴史は語れないはずだ。自身の立論にとって都合の悪い重大な事実を無視する記述はどうかと思う。

彼は彼の立場で、それを組み込んで、彼の議論を成立させるべきだと思う。少なくとも、この問題を避けずに、正面から扱うべきではないか。

とはいうものの、この【「つまらなさ」の構造の中にある】という指摘に反(あるいは脱)原発運動は向き合ったほうがいいとも思う。


また、開沼さんは柄谷の3・11前後の変化としての「人がデモに行くようになったこと」という言説を否定し、それはいままでもあったことだとし、「デモに行く」と言うとバカにするような風潮を」を蘇らせようというつもりはないとしながらも、この運動が一過性のものとして収束していかないようにするためには3・11によって社会がなお不変であることを見ることこそが求められている、という。107-108p

ぼくはここでは柄谷に同意する。この間、デモに来る人数が圧倒的に増えたのは間違いない。その量的な変化は運動の質も規定するはず。変わらない部分を見ることの大切さは理解できないわけではないが、変わった部分も同時に見なければならないのではないか。何が変わって、何が変わっていないのか、決して何も変わっていないわけではないはずだ。ただ、変化ばかりに目を奪われると、チェルノブイリ後の脱原発運動が実質的にはほとんど何も残さなかったのと同様になってしまう危険があることには留意が必要だろう。開沼さんはあえて、そのようにいっているのだろが、それが事実を見えにくくしている面があると思う。

さらに、開沼さんの挑発は続き、以下のように書かれている。
「沖縄に米軍があったから、福島に原発があったから、日本は経済成長に集中し、達成できたんだ。あなたたちはそれを享受してきたではないか。あなたらの中途半端な『社会運動』と『忘却』の反復のおかげでね」という他ならぬ事実を語るものに対して、どんな言葉を返せるのだろうか。108p
まずこれに対しては、ひとつのことを忘れずに地道に社会運動を続けてきた人のことが捨象されていることへの異議を出しておきたいと思う。

自分に関して言えば、中途半端な『社会運動』だったり、『忘却』してきたこともあるだろう。それでも何かしてきたつもりだ。何もしないほうがよかったという立場には立てない。そもそもここでは被害と加害の関係がまったく逆転して問題を立てられているように感じる。沖縄の米軍を積極的に維持し、押し付けてきたものは誰なのか、福島の原発は安全だと強弁し、その運転を無理やりに続けて、また、それを認めてきたのは誰なのか、という問いがまったく捨象されていて、それを止めることができなかった『社会運動』に問題の責任が転嫁されている。

もちろん、社会運動に問題がないなどというつもりはない。そこにはいろんな矛盾や課題があり、ときには、そういうことに目をつぶりながら、それでも、進めるしかない局面だってある。そんなことは中にいる人間のほうがよっぽど知っている。

そして問題は、開沼さんがあたかも代弁しているかのように装う問いを誰が発しているか、ということでもある。この問いは開沼さん自身の声ではないのか。外から、研究者として高みの見物を続けるものにいわれても、こんな問いは何の重みも持たない。

開沼さんがどの地点に立って、この問いを社会運動にぶつけるのか、ということこそが問われているのだと思う。

あと、開沼さんはこの後の部分で、脱原発を「官軍」とし、推進派を「賊軍」と位置づける(110p)のだが、この例えもどうだろう。今でもメインストリームは推進派の側じゃないかと思ってしまうんだけど、そのあたりの見方のずれが開沼さんの話をわかりにくくしているようにも思う。

また、111pには「社会運動をただやれば、それだけで社会は変わるんだ。それでみんなハッピーなんだ」という架空の言説が紹介されているのだけれでも、そんなことを思ってるのは、社会運動に参加していない開沼さんだけなんじゃないか、とも思う。

しかし、確かに社会運動は移ろいやすい。人々の意識に依拠しなければ社会運動は成り立たないからだ。そこで、どのように踏みとどまって何かを変えていくか、あるいはこれ以上悪くさせないかということが問われている。

開沼さんにはレベッカ・ソルニットの「暗闇のなかの希望」を勧めたいと思う。そこには以下のように書かれている。
希望は、単にもうひとつの世界が可能かもしれないということにすぎず、約束でもなければ、保証でもない。希望は行動を求め、希望がなければ、行動はできない。  16-17p

わたしたちがもっと行動していれば、世界は疑いなくもっと良くなっていたはずだけれど、わたしたちの行為が、ときに世界がもっと悪くなるのを防いだのである。・・・。

(長い省略)

 ・・・。両方とも正しいにせよ、後者は行動の根拠を与えてくれる。  120-121p


ただ、開沼さんには以下の部分もちゃんと読むべきと指摘されるかも。

ブロッホは、・・『希望の原理』において「偽りの希望は、人類最大の悪行のひとつであり、気力を奪うものであり、具体的に誠実な希望は、もっとも献身的な善行である」と断定し、・・・。偽りの希望を抱けば、剥奪されることにYESと言い、嘘がまかり通る世間を黙認することになりうる。・・・。根拠が薄弱な偽りの希望は、絶望からそれほど遠い存在でもない。どちらも麻痺させるからである。一方、絶望は解放の母にもなりうる。 30-31p


ともあれ、開沼さんが社会運動を強く意識していることは間違いなさそうだ。その意識が強すぎるところに問題があるかもしれないとも思いつつ、しかし、これは社会運動への愛の表現という風にとれるかもしれない。
そもそも、指導教官が上野千鶴子にカン・サンジュンに吉見俊哉なのだから、社会運動は無視できないか、とも思う(笑)。

彼はこんな風にその愛を表現する。
・・社会運動の対象が「流行のネタ」であるうちこそ盛り上がるが、流行が終わり消費しつくされた時、解決すべき課題がきれいに残ってしまうことに帰結する。これまでのうまくいかなかった「社会運動」がまさにこの構造の中にはまり込んでいったのだとすれば、そのパターンを繰り返していいのか。111p


そして、社会運動に対して以下のような「愛ある」アドバイスを行う。
今求められているのは「いかにして敵を味方に変えるのか」、そして「悲劇を喜びの物語へと変えていくのか」という問いの答えを地を這いながら模索することに他ならない。そこには安易な「希望」などない。抽象的な理想を掲げながら、自省されることなき「絶対的正義」性を身にまとったかのように振る舞い、でっちあげてでも「敵」を見つけ出して叩き続けることでその「絶対的正義」を確認しないと運動を維持し続けられない。あるいは・・・、もう一基ぐらい原発が爆発したり、福島で被爆被害がより早く、より多く・・・そのよううな前提が運動の根本に少しでもあるならば、それを是正する絶え間のない努力が求められる。
 さもなくば、・・・「新たな社会運動」の出口は、「新たな「流行のネタ」探しにしかなくなる。118p
最初の【今求められているのは「いかにして敵を味方に変えるのか」、そして「悲劇を喜びの物語へと変えていくのか」という問いの答えを地を這いながら模索することに他ならない。そこには安易な「希望」などない。】という部分については、同意できる部分は小さくない。

原発事故によって、避難を余儀なくされている人、あるいは避難したくでもできない人、さらにはものが売れずに生活が成り立たない人にどんな喜びの物語を提示できるかといえば、それはものすごく困難な話だろう。

しかし、一人ひとりが尊厳をもって生きていくうえで大切なことを模索する努力は必要であり、大切な課題であるはず。

ただ、そこから先の部分についてはどうなのだろう。確かにそんな運動はないわけでもなく、それを心配してるのだろうけれども、そういう人たちが影響力を持ちえるほど、多数いるとは思えない。

で、開沼さんは115pで「数年間にわたってインタビューを続けているという、いわゆる『過激派』」の人たちの思い込みの激しい話に影響されすぎているのではないかとも思う。
それにしても、何派の誰にインタビューしてるのだろう。これは気になる。このあたり、発表してくれると面白そうだなぁと興味本位の関心が満開になる。


第一部メモここまで


第二部メモ

150pで開沼さんは科学的合理性の逆説に触れる。
科学的合理性の積み重ねの上にあったはずの原子力が実は不合理にまみれていることが明らかになったと。
私たちが「科学的だと信じ込んできたもの」が実はそうではなかったという。

しかし、開沼さんも書いているように、それの「非科学性」つまり具体的な危険や原子力が抱える問題はずーっと指摘されてきたことだ。しかし、電力会社や政府の物量と金に任せた大量宣伝のなかでそのことは見えなくされてきた。

そういう構造を抜きにして、その「宗教性」だけを論じることはどうなのだろう?

その金に任せた大量の宣伝内容が事故で破綻し、事実として破綻したことと同時に、宣伝もおおっぴらにはできなくなって初めて、原子力の危険が人々に認知されることになったといえるのではないか。

そういうこれまでの言論の場の不公正なありようを抜きにして、あたかも反原子力カルトと推進カルトが対決しているという構図で物事をとらえるのはどうかと思う。

と、同時に確かにそういう側面があることも指摘する必要はあるかもしれないとも思う。しかし、それがメインの課題とは思えない。

先日、ぼくが参加した 第2回「原発Yes or No? 公開討論会」
http://kokumintohyo.com/archives/5162 で、終わった後に推進派の研究者もいっしょにお酒を飲んだりしたのだが、相手の立場は立場として尊重しながらそれぞれの話を聞くというようなことはすごく大切なことだと感じた。

同時に、これに関するトゥギャッター http://togetter.com/li/369713 を見ると、やはり反原発を主張したいばかりに熱くなり過ぎている人はいるようにも思う。


154p〜始まる「なぜ彼女はマスクを外したか」という文章はいままでの主張が明快な文章と比べると、何が言いたいのかわかりにくい文章になっていると感じる。
外部の人間が危険だと主張することに開沼さんは忌避感を表明していたと思うが、ここでは自分が「安全神話」の形成に加担しないようにという自戒もしている。

この文章の発表媒体は「調査情報」となっている。これがどんな媒体か知らないが、この文章の趣旨のわかりにくさはこの雑誌の性質が影響しているのかと思う。


165p〜の「放射線と花粉の日常」の結語は大切なことが書かれていると思うので書き写しておく。
 安易な希望や勝手なイメージは、ことが起こるその中心に積み重なる課題を解決に導くどころか、課題自体を見えづらくする。見るべきものを見ることもなく拙速に出した「答え」は、誤りの愚かな反復を生み出すだけなのかもしれない。撒き散らされた放射性物質とともに生きなければならない人々の日常と、それを花粉ほど容易には洗い流すことができそうもない現実を前に、私たちは注意深く「その場」を見ながら、考え続ける必要がある。173p

そして、ここで大事なことは一人ひとりの当事者の声、そして多くは声にすらならなかったりするその声に耳を傾けることだろう。間違ったことをいうかもしれない。しかし、その声に耳を傾けることからしか始まらないようにも思う。

ときに相反し、時に間違うかもしれない。そういう声と、どのようにつきあって、どのように変化につなげていくのかというのは容易な話ではないだろう。


第三部メモ

第三部は対談。最初は「原発避難」論−避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで−
の編者の 山下祐介さん

彼はこの本について、以下のように語る。抜粋、まとめ。文責(tu-ta)
単純に「戻れる・戻れない」っていう話じゃなくて、今は人間的つながりを、もう一度取り戻そうとしているとき。そういう動きが始まっている。個人個人を支えるのも大事だが、そういうまとまりこそをしっかり支えるべき。怖いのは世論が作られる中央でそういう気持ちがなくなっていくこと。こういう時こそ、助け合いながら心の回復を待ち、社会の回復を待ち、再生を見届けなければならないのに、「原発マネーにまみれて、賠償金だってもらっているんだろう」とかの議論が見えてきている。今こそ、みんなでじっくり考える機会を作っていかなければならない。

我々が関心を持って、このことに向き合っている限りは、被災社会も正常に動いていく。一番怖いのは無関心。そうならないように訴え続けていかなければならないし、『「原発避難」論』はそのための本。237-8p

また、山下さんは『「原発避難」論』の九つの章について、それらは連動していないと語り、雑多なものが詰め込まれている印象を持たれてしまうかもしれないが、それが現実なのだという。その現実を理解するための思考の軌跡だと。 241p

山下さんの、そのアプローチの方法には共感するのだが、わかりにくいのは今の現状を昭和16年の状況と似ているという部分 242p。 昭和16年には反対する声はまったく押さえ込まれていたはず。原発推進と脱原発が拮抗している状況が16年に似ているとすれば、それはどのような意味においてなのか、もう少し説明が必要だろう。少なくとも、ぼくには理解できない。

それから、山下さんは「仮の町」や「セカンドタウン」について、「ものすごく時間のかかる話で、合意形成の問題も非常にデリケートだ。子どもの世代にまでつながっていく故郷の再建のためには少し時間がかかってもみんなの意向を聞きながら、じっくり話し合わなければならない、という。245p本当にそのとおりだと思う。

あと、この対談で印象的なのは、山下さんは明快に政府のやり方を批判しているのに、開沼さんはそこの部分をスルーして別のことについてのみ反応しているように見えること。意図的なのか、偶然なのかわからないが、そのあたりに彼への違和感が高まる原因があるのだと思う。



次に高橋源一郎さんとの対談。

ここで印象に残ったのは、以下のやり取り
高橋 ・・・開沼さんは、チェルノブイリを超えるような史上最大の事故が起こってもなお、この強固なムラ体制に本質的なヒビは入らなかったと考えているのですね。

開沼 そうですね。だから大きな話につなげてしまえば、近代の策動が作り出してきたものがいかに強固だったと思うし、それはなぜかを考え続けられなければならない。そういった方向で理論的に構築していくことが今後の研究の課題です。263p
この「変わってない」という言説だが、次の荻上チキさんとの対談で、【「いや、これだけ変わったじゃないか」という議論を喚起したい部分と、本心からそう思う部分の両方の意味で言っています 293p】と告白している。

それから、面白かったのは喧嘩を売って上の世代とのコミュニケーションを図るという開沼さんの発言。265p

そういう意味では、ぼくのこういうレスポンスはすっかり彼の戦略に乗せられてるといえるかも。


そして、開沼さんはキーワードとして「ポスト成長」というのをあげる276p。どこかで脱成長じゃなくてポスト成長だって書いてたようなおぼろげな記憶。ここから先か?

ともあれ、彼は
「成長という前提自体を問い直す必要がある」といいながらも、「それには血のにじむような努力が必要だし、実際、ものすごく痛みも伴う」
という。277p

それはそうかもしれないと思いつつ、ほんとうにそうだろうかという思いも残る。経済成長の神話から自由になるということに伴う痛みとは、どんなものだろう。
確かに価値観のラディカルな変革ではある。

今の資本主義は、タイタニックが氷山に向かうように、破綻に向かっているにもかかわらず、中ではパーティーを続けているといったのはヘレナだったか、サティシュだったか忘れたが、確か「破綻したらみんなで道路に出て踊ればいい」と言ったのはサティシュだったと思う。

成長神話から抜け出ることは誰にとっての苦痛なのかということは考えるべきだと思う。


高橋さんとの対話の中で、開沼さんは避難するか、しないかという問題で以下のような主張をする。かなり適当な抜粋とまとめ。
「国や県が県民を外に逃がさないようにしている」という悪玉権力陰謀論、そういう側面もあるかもしれないが、自らその選択に飛び込んでいくという構造に目を向けるべき。具体的な対策を考えるとき陰謀論では駄目。281p
ここについてはそうだと思う。

もちろん、同時に国や県のそのような動きはちゃんと批判し、やめさせなければならないとは思うが。不安な人がちゃんと避難できるようにするために何が必要なのかということを、その自主的に残っているかのように思える構造から解きほぐしていくことが重要なのだろう。


開沼さんが原発神話の後に脱原発神話を持ってきても駄目だ。知らぬ間に信じ込まされていた価値観を刷新し、自分が信じる価値観を意識的に選びなおすべき、というのに対して、高橋さんは神話の暴走を食い止めるためには、みんなが他人の話を聞くことじゃないかと、微妙に話をずらすという大人の対応をしている。そこで面白かったのが、高橋さんの開沼さんや古市さんの本を読んで「ムカつくのがいいんですね」という発言287-8p。 ぼくはまったく正しい読み方をしていたことになる(笑)。

高橋さんはムカついて、引っ張り合うことでバランスが取れるんじゃないかといってるようだ。

そして、このインタビューの最後のほうで高橋さんが「敵の中に味方を見つける」ことの楽しさを説く。

これって、前に紹介した「いかにして敵を味方に変えるのか」118p という部分とかなり近い。もしかしたら、この高橋さんの話に開沼さんがインスパイアされたのかなと思ったと思ったのだけど、こっちのインタビューのほうが発表は後だった。

ここでまたまた、開沼さんは
政府や巨大資本や御用学者という「悪」を叩き続ければ「敵」の姿はいつしか見えなくなるし、その過程で生まれる「悲劇」は問題の所在をますます覆い隠す290-1p
というようなことをいうのだが、それをこんな風に二分してしまうのではなく、「悪」をたたく事も必要だし、敵を変えたり、敵の中に味方を探すことで、構造を変えていくということの両方が必要なのではないかと思う。



次に荻上チキさんとの対談。
296pで触れている「非日常」と「忘却」の関係(つまり中央の社会運動が福島の日常から遠く離れて、非日常を強調することが忘却につながるという議論)は説明不足だと思う、っていうかぼくにはよくわからない。

チキさんは開沼さんを【聞き手にとってノイズとなるような「取りこぼされた声」を可視化し続けていて、今は喧騒と戦い、またしばらくたったら忘却と戦う骨の折れる作業をしている】人だと評価する。

ある意味、社会運動が事件が起きてから5年後・10年後に、事態が変わっていなくても小さくなっているのは必然だと思う。それは避けがたい。それぞれの状況の中で、今できることを問い直し、何を残していけるかと考えることが必要だろう。また、5年後10年後に忘れない人が中央の社会運動にも残っているのも事実だろう。それはずーっとそうだった。そこをどれだけ厚くしていけるかということも問われているはずだ。


次の対談相手は民主党の衆議院議員の逢坂誠二。ぼくと同じ年なのだが、94年からニセコ町長を3期やっていたらしい。

彼は賛成・反対を明言していないらしい。そこで開沼さんと意見が合う。ここで、開沼さんは自分の立場を以下のように説明する。その説明が比較的わかりやすいので紹介。適当にまとめて紹介
原発を抱えた地元の次元で考えると、端的に言えば「推進か反対か」という問題は二の次。原発あるいは原発に変わる何かを持つことによって、どう地元を守っていくのか、あるいは自分たちの子や孫がここに住み続けられるのかが最大の関心事。そういう意味で中央の議論が推進か反対かになっていることとの大きなギャップ。このギャップを描き出したかった。

地元の人の目から見える現実を考える。そのことをしない限り原発に関する議論は終わらない。

つまり、二つの原子力ムラモデルで考えるべき。中央の原子力ムラにかかわる議論だけでなく、原発を(進んで)抱擁する地方を見なければ、問題は解決しない。
306-6p

この両方をちゃんと見ていかなければならないにもかかわらず、地元の声がまったく無視されているという批判には聞くべき点が多いと思う。こんな風に批判すれば、もう少しわかりやすいのに、片方がだめだ、というような言い方をしてしまうから、問題の所在が見えにくくなるのではないか。


本題から少しずれるが、地方分権にはネオリベ的なものと社民的なものの種類があるにもかかわらず、それが混同して語られているという逢坂さんの指摘はわかりやすかった。309-309p
〜〜〜


ところで、開沼さんが言ってることを簡単に言ってしまえば、原発を抱えて生きてきた田舎をどうしていくのか、そのことを抜きに何も考えられないのではないか、ということだと思う。

で、この逢坂さんのインタビューで不満なのは、なんだか他人事のように語っているように感じること。与党の議員として、何をどうしたいのか、もっと明確に語るべきではないかと感じた。


次に大城立裕さんとの対談。

この最後のほうで開沼さんは以下のように言う
「多くの人は原発事故が起きても「近代化は善である」と疑っていない。「成長する」とか「復興する」とかも善であると。・・・「もう十分じゃないのか」ということを私たちは発言すべき

開沼さん、ここまでの部分でポスト開発などを主張しているのを知っていたが、ここまでいうとは思っていなかった。しかし、この前提でほんとうに原発を抱えて生きてきた地元の人と寄り添うことができるのか、まさにそれを拒否して彼らは原発にしがみついてきたのではないか、そのギャップをどう考えるのか不明。もしかすると、それは彼が否定するところの中央と地方の議論以上に距離があるのではないか。


大野更紗さんとの対談では、その共通点に驚いた。
その話はそこまでで、別の話だが、
大野さんはこんなふうにいう。
悲劇的な存在でも無力な存在でもない、白黒はっきりしないグレーゾーンの具体的な日常の議論が不在なんです汚染のリスクのある日常の中で、彼らはどう暮らしていくのか? 避難した先でどう生活の糧を得るのか? そういった議論は「売れる」話題ではありません。でも、社会問題を根幹から捉えようとするなら、そのグレーゾーンの実態や本音の部分こそが大事。それは開沼さんが、震災後に一貫して問われているテーマでもありますね。335-336p


そして、この対談の最後近くで開沼さんは以下のようにいう。
原発賛成・反対という二項対立の果てに、結局、推進側が勝つというのが、まさに四、五十年の日本の原発の歴史です。それがまさに今、再生産されようとしている。だからこそ、新たな問題設定が必要だとも思っています。340p

ただ、この4〜50年の原発の歴史を冷静に見るなら、作りたくても電力側が断念せざるをえなかった計画も少なくない。
そういう意味で言うなら、これ以上の再稼動を認めないという動きと、その地域をどうしていくのかという両方の視点での運動が必要になっているといえるかもしれない。

次に古市さんとの対談があるがこれは飛ばして、やっとメモも最後に近づいてきた。

この本の最後に以下のように書いて開沼さんはこの本を閉じる。
・・・いわれなき抑圧を背負わされてきたさまざまな社会に生きる人々。おそらくそれらを扱う場合に共通する、この「具体的に手でつかむことのできない、日本の近代が現在に至るまで抱えてきた課題」にして、「形を変えながら繰り返し社会の脆弱な部分を利用し犠牲にもしてきたメカニズム」。これを言葉にし、向き合うことなしに、私たちの社会は、形を変えようとも、また相似的な絶望を生み出すことは避けられない。
 本書がその抗いに向けた一つの糸口になればと思う。

ここは好きなところだ。





長い長いメモここまで。
風邪を引いてる休んでいる間にメモ。

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