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zoom RSS 『芸術は社会を変えるか?』メモ その1(3章まで)

<<   作成日時 : 2012/12/08 11:52   >>

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FBで偶然知った人からの連関で知った本。

タイトルに釣られて、図書館で借りた。

ぐぐったら、山形浩生さんが酷評。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20111107/1320645601
そんなにけなさなくてもいいと思う。
ぼくにはいろいろ勉強にはなった。
ただ、ちょっとという部分はもちろんないわけじゃないけど。

2011年10月にでた本。
その本がでたのが3・11前なのか、後なのかが気になってしまう。

著者の吉澤弥生さんのことを知らなかったが、阪大の特任研究員と非常勤講師をやりながら、本文中(60p62p)にでてくる「NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト<recip>」(現代美術センターの指定管理)の代表理事を兼任とのこと。


「はじめに」によると、
1章「地域文化の担い手たち」では、大阪の<芸術運動>の初期にあたる時期を振り返る。

2章では大阪市の事業「新世界アーツパーク事業」と大阪府立現代美術センターの事例を通して、文化の公共性という点から文化政策の可能性と問題を考察

3章では大阪市の事業「ブレーカープロジェクト」の8年間の活動をたどるとともに、各地でおこなわれているまちなかのアートプロジェクトの現状を考察

後半では事例研究をもとに社会化する現代の芸術の諸相をみて、

4章「芸術をめぐる制度とオルタナティヴ」では制度とオルタナティヴの相互作用のなかから新しい表現、芸術活動が生起するプロセスを考察。

5章「創造の現場のコンフリクト」では、そうした創造の現場で生じるさまざまなせめぎ合いを、芸術とは何か、また労働やアクティヴィズムといった観点から考え

6章「文化生産の社会学」ではこうした芸術運動を文化と社会のダイナミズムの中でとらえることの重要性を確認。




1章
00年代初頭に大阪市が発行していたC/Pという雑誌の新しさ

日本のアートNPO
 
 2003年  535団体
 2007年  2013団体
 2010年  4041団体


76p(2章)では
アートNPOがシビアな業務をこなすためにスキルを強化しなければならないとしながら、同時に協働とは名ばかりで、「コストダウンのための単なる下請けになっていないかという懸念」と書かれている。控え目な書き方だが、現実にそうなっているところがいくつもあるのではないか。

MoMAに始まるホワイトキューブ
政治的な意図を体現
86p

美術館・ホワイトキューブができて、作品が「芸術のための芸術」となったと書かれている。「芸術と公共」というテーマがここで浮上する。

それをうけて、パブリックアート政策が生まれたというような記述がある。


そして、88pにかけてその変遷について若干触れられ、89pにはその変遷の背景として、以下のように記述される。
(その)背景には、政治や経済・社会状況だけでなく、人文社会科学における西洋中心主義を人種や民族、ジェンダー、障害や病といった軸で脱構築しようとする潮流がある。これらは当然、美術やミュージアムという制度そのものにも揺さぶりをかけ、グローバル化が進むなかで各地で西洋美術という「中心」を問い直す表現が生み出されていく。


147pから始まる
「芸術と地域社会」という節では、冒頭で有名なまちなかのアートプロジェクトのいくつかが紹介される。その上で、その「乱立ともいえる事態」への危惧にも触れる。そして、以下のように書く。
 そもそも、まちに出たアートは二つの使命を担っている。まず、芸術を芸術として保証してくれる美術館やギャラリーと違って、まちなかのアートは「なぜこれが芸術なのか」「芸術とは何か」を問い続ける必要がある。さらに、まちなかのアートはさまざまな人々が行き交う場に現れるがゆえに、「なぜこの場所、この人々か」という問いとも向き合わなければならない。 ー中略ー 各地でおこなわれているアートプロジェクトがこうした問いと真摯に取り組んでいないとすれば、地域に入り込んで多様な人々と関わる分だけ、そこに残すであろう爪痕は屋外彫刻の比ではない。それはアートをかたった詐欺に等しいとさえいえる。148p

〜〜〜〜

そして、興味深いのはこの直後に紹介されている1960年代後半に鶴見俊輔さんが名付けたという「限界芸術」というカテゴリーの紹介。
以下、鶴見さんからの引用
今日の用語法で、「芸術」とよばれている作品を「純粋芸術 pure art」とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術 popular art」と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活の境界線上にあたる作品を「限界芸術 marginal art」と呼ぶことにしてみよう
鶴見さんが描こうとしたのは生活の中の芸術の豊穣さだと著者は説明する。149p
注によると「限界芸術論」(ちくま学芸文庫)1999年 14p


150pでは川俣正による芸術の社会化への疑義が紹介されている。
現在行われている強迫観念的な「アートを社会化する、しなければならない」というスローガンのもと、数々のアートプロジェクトが善意的な使命感を持ち、社会政治運動のごとくイデオロギー化し始めているという状況がある。150p


著者は、この川俣の発言に中立的に(「肯定的に」といえなくもないような書き方で)、以下のようにコメントする。。

このように作家や主催者にも、地域でのアートプロジェクトの中で参加という言葉がはらむ全体主義的な要素を認識し、民主主義のなかに潜む暴力性を注意深く回避しようとする立場がある。

川俣がどんな文脈でこれをいっているのか知らないし、なぜ、「アートの社会化」にこんなにいらだっているのかわからない。

この川俣のいらだちをもう少し丁寧に読んでみたいと思う。注によると出典は「<保証なきマイノリティ>とセルフ・エデュケーション」「セルフ・エデュケーション時代」収録(2001年 72p)いつか手に入れば、読んでみようと思った。

ぼくの思いとしては、日本のアートシーン(少なくともメインストリームのそれ)は基本的に社会から無縁であることをよしとしてきたのではないだろうか。そんななかで、川俣の仕事はそれなりに社会を感じさせるようなものだったように記憶している。目黒区美術館での「文化としての炭坑展」でも、大きな一部屋全部を使った彼の作品があったように思う。

そんなことは川俣はぼくが書くまでもなく、100も承知で、だからこそ、川俣の作品群があったのだと思う。にもかかわらず、という話だ。

あと「社会政治運動のごとくイデオロギー化」という批判が、いただけないと思う。確かに多くの社会政治運動は貧しいイデオロギーにがちがちに縛られていて、社会運動・政治運動の外部にいるものにそんな風に見られるのはしかたない。しかし、社会運動も政治運動も、本来、豊かで多様な表現を伴うものであるはずだ。そして、それらは本来、狭量なイデオロギーに縛られるものではないはずなのにと思う。

でも、そんなことは外からは見えないだろうな、というのも理解できるんだが。

さらにこのコメントの「民主主義のなかに潜む暴力性」というのも気になるフレーズだ。わたしたちは民主主義に参加したくないという人々とどう向き合うべきなのだろう。確かに民主主義は、徹底するとすごく手間がかかる。参加者は何かを犠牲にすることも必要になる。それでも民主主義が必要だとぼくは思うのだが、そうは思わない人も少なくないかもしれない。そもそも、現在の日本の教育ではそのような民主主義のトレーニングを受ける機会も多くないように思う。「民主主義のなかに潜む暴力性」というのをあまり考えたこともなかったが、それなりに留意が必要な話かもしれないと思えてきた。しかし、同時に民主主義を好まない奴らの狙い目もそこにあるのだろう。13年以上も続いた慎太郎都政もそんな民主主義の嫌悪と無縁ではないように思う。


151pでは工藤安代という人を援用して、パブリックアートの問題が指摘されている。
「アートというツールを使い、社会的底辺層の不満を一時的に緩和させるという政府によるコスト安な社会福祉的対処策」になってしまう危険

アーティスト側に「社会的コンセンサスを得やすい社会善を無批判に肯定して活動する安易な計画」や悪質なケースとして「プロジェクトへの公的助成金を得るために社会福祉問題を扱う」活動、あるいは「社会的弱者であるコミュニティに同情し、単に感傷的に社会的不平等をアジテーションしていく活動」
〜〜〜
工藤安代「パブリックアート政策ーー芸術の公共性とアメリカの文化政策の変遷」(「文化活動のフロンティア」3)けいそう書房2008年

これらに対する著者のコメントも興味深かった。
たしかに芸術という表現活動は個人の潜在能力を掘り起こし、社会的少数者をエンパワメントする力があるとされるが、一方で誰かを傷つけたり混乱をもたらすものも存在する。こうした芸術における「政治的公正」をめぐる問題は、文化政策がはらむ、特定の価値と選別と多様な価値の共存との両立を図るという難題とともに、アートをある種の手段と位置づける政策の危険性をも示しているだろう。151P
アートは手段なのか目的なのか、という問いについては、その両方だと答えたいのだが、【芸術における「政治的公正」】という観点にちょっと虚を突かれた。

152p 要約
〜〜〜
 アートプロジェクト、うまくいかないものがあっても当然なのだが、景気のいい報告以外はほとんど外に出てこない。しかし、芸術は反権威的・反秩序的で社会に混乱をもたらすことも。地域でのアートプロジェクトも同様。そこでの摩擦や反発が隠蔽されたり、語るものによってはそれさえ美談にされてしまうとすれば、それこそアートの名をかたった搾取以外の何ものでもない。
 
まちなかのアートプロジェクトは、日常生活の中に「芸術」をみいだし、場所や地域という社会的文脈の中から「芸術」をつくりあげていく課程。そこで忘れてはならないのは、その芸術創造のプロセスは多様な価値の存在を示すだけでなく、従来の組織形態だけでは実現しなかったようなさまざまな世代・立場・考え方の人たちのつながりをつくるという、新しい公共性のかたちをも示していること。

 これは効率や採算を重視する市場経済だけでは成立しない。市民自らが選択できる開かれた参加の機会であり、まさにこれからの時代に必要な機能。公的文化事業として地域で実施されるアートプロジェクトは、地域固有の文脈に向き合うだけでなく、このような根本的な芸術文化の公共性にも意識的に取り組む必要がある 152-153p
〜〜〜〜

「アートの名をかたった搾取」という激しい言葉に目が行きがちになるが、その後の部分が著者が言いたいことの核心部分だと思う。「根本的な芸術文化の公共性」、それは何だろうとここまで読んできても、もうひとつ理解できていない。なかなか面白そうな話だとは思うのだが。

3章までのメモ、ここまで

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