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zoom RSS 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』メモ(12・24修正)

<<   作成日時 : 2012/12/23 09:23   >>

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今回も長いです。


近年、湯浅誠さんのことがすごく気になっている。
で、この本、図書館でリクエスト2週くらい待って、やっと来た。選挙前にリクエストしたんだけど・・・。

前にインタビューしたことがある知り合いが、彼に惚れちゃうそうでヤバイっていってたのを思い出した。
ともあれ、気になっているのは彼のいろんな語りや雑誌『世界』のふたつの論文。

社会運動のありかたについて、湯浅さんは積極的に論じているにもかかわらず、社会運動の側からこの湯浅社会運動論に対するレスポンスがあまりにも少なすぎるとぼくは感じている。

「世界」で発表された二つの論文
〜〜〜
「社会運動と政権」(岩波書店『世界』2010年6月号)、「社会運動の立ち位置について」(同、2012年3月号)
〜〜〜
に関してはいいたいことがいっぱいあったのだが、
2010年のものの雑駁な感想しか書けていない。
http://tu-ta.at.webry.info/201005/article_9.html
ネットで見ると、批判も少なくない。個々の政策などについての賛否はあるが、そのスタンスの取り方についての内在的な批判が少ないように感じている。


で、今日紹介するこの本については以下でインタビューに答えて、湯浅さんが語っている。校正がもうすぐ終わるくらいの段階でのインタビューみたいだ。
「ゲスト・湯浅誠氏「ヒーローを待っていても世界は変わらないの回」
http://www.youtube.com/watch?v=hr-1yxFeN8I
これを見ると、この本でいってることの半分くらいについては理解しやすくなるかも。

「社会を変える」ということ 駒崎弘樹×湯浅誠
http://synodos.livedoor.biz/archives/1997876.html
でも似たような話は展開されている。




以下、読書メモ

冒頭近くで、語られるテレビの討論番組での感想から興味深い。
討論番組なので、当然、反対意見が出てくる。湯浅さんはその人たちの意見に重みを感じ、自分の言いたいことを言ってるだけでは通じない。通じる言葉はどんな言葉だろう。そして、説得する言葉を編み出していかないといけない、と書く。

そして、自分たちのほうが少数派なのだから、その人たちを「わからず屋め」と切り捨てても何も変わらない、だからこそ、通じる言葉を見つけていくのが自分の仕事だと感じるようになってきた、と。11-12p

そのあたりのこと、今回の選挙に問われているのだろう。よく考えると、それに限らず、社会運動業界にはずーっと問われていたことなのかもしれない。っていうか、80年代くらいまでは、言葉が通じる世界はきっと、もっと広かったのだが、この2010年代には従来の社会運動の言葉が通じる世界がすごく狭くなってきているという風にいうことができるかもしれない。

続いて、民間の活動と行政の違いを説明
薄く広くか、濃く狭くか。
行政の場合は反対意見と調整しなければならない。
そのコストを誰が負担するのか、と問われる。15ー16p

さらに、湯浅は「政府のやる気を問題にするのは弱者の問題をやる気のせいにするのと同じだ」とまで書く。16p
確かに、行政にやる気を感じないことは多いのは事実で、そんな問題はあるのだが、問題の所在をそこにおいてしまうと、取れるものも取れなくなることはあるのかもしれない。

そして、政策レベルでの対応を求めるとき、やるべきことは明確だという。そこでいわれるのは以下の3点。
〜〜〜
1、例えば、1:9の世論を3:7とかに持って行くようにする。
2、仮に1割だとしても現実の調整過程に関与し、その1割分をとれるようにすること。
3、8〜9割の世論をバックに政府が望ましくないことをしようとする場合に調整過程に関与し、考えられる最悪を回避し、わずかでも自分たちの主張をすべりこませること。
〜〜〜
そして、最善を求めるのと同じ熱心さで最悪を回避する努力が求まられているという。20-21p
このあたりは従来の日本の社会運動が見逃してきたことかもしれないと思う。

ただ、政府の「やる気」、やっぱり気になるだろう。とりわけ、表向きは政府が「これはやらなければいけない」と表現してるものについては。それについて、「ちゃんとやる気出せよ」というのは、もっともっと言うべきなんじゃないか、とも思う。

26〜7pでは「悪人探し&ヒーロー探し」が、近年の日本の「民意」の動向を特徴づけている、と感じていると書く。

しかし、前回の自民党から民主党への政権交代ではヒーローはそんなにいなかったと思う。悪人は主要に自民党・麻生政権だったが。今回のヒーローは安倍や橋下かといえば、それも少し違うような気がする。投票行動からはそんな風なデータは読みとれないのではないだろうか。大マスコミが描く基本的な構図では民主党政権が悪者だったのは間違いないように思うけれども、やはり大きな問題は40%の棄権なんじゃないかと思う。どうして、4割の人が投票行動を拒否するのか、そのこところに左も右もちゃんとアプローチできていないからこそ、そうなるのだが、分析も十分とは思えない。

ヒーローが気に入らないとき、マスコミ批判に向かいがちだが、湯浅さんはそうは思わないと書く。「民意は違うはずなのマスコミのせいで」と思いたい気持ちは理解できるのだが、「それは、厳しい現実から目をそらす否認にすぎない」と断言する。28-29p

ぼくは橋下のような「ヒーロー」が生まれることに関して、マスコミの問題がまったくないとは思わないというか、かなり大きいとは思うものの、湯浅さんが書いているように、「多くの人たちが支持していて、だからヒーローになった」という部分をちゃんと直視する必要があると思う。

「マスコミが悪い」と少数派ができるかぎり大きな声を出したとしても何もかわらないからだ。

そして、湯浅さんが書いていることで大事だと思うのは、例えば「橋下を支持するなんてまったく理解できない」という気持ちになるのは、他の多数の人たちを大きく意識が離れてしまっているということの証左に他ならないからだ、という部分。

その距離感がつかめないと、それをどう埋めるか、どう働きかけるかという議論もできないというわけだ。29p



2章は「橋下現象の読み方」

この章の冒頭で語られるのは「民主主義は、面倒くさくてうんざりするもの」という節。
だから、決めてくれる人が欲しいという話になり、いま、人気があるのが橋下さんという話だ。しかし、湯浅さんは橋下市長個人ではなく、彼を生む土壌に注目しなければならないと書く。

なかなか思うように機能しない議会制民主主義や政党政治。湯浅さんはそこに問題があることに同意しつつも、そこを壊そうとするような橋下的な動きに対抗して、議会制民主主義や政党政治を擁護する側に立つ必要がある。それを壊そうとした政治でろくなものがなかったというのも歴史的な事実だといいながら。

そして、政治的選択は「というのは必ずしもベストのものを選ぶということではなく、悪の少ないものを選ぶということだと、丸山真男が引用される。64-65p

面倒くさくてうんざりして疲れる民主主義というシステムを私たちが引き受けきれなくなっている証としての「強いリーダーシップ」待望論。強いリーダーシップを発揮してくれるリーダーを待ち望む心理は、民主主義の空洞化・形骸化の結果。その心理には二つの問題がある、と書かれている
〜〜〜
1、直接にか間接にかは私たちの、そして社会の利益に反すること(ができてしまう)。気がついたら、ばっさり切られていたということに。
2、民主主義の空洞化が促進される
68-69p
〜〜〜


この議会制民主主義や政党政治を擁護する側に立つという湯浅さんの議論と対照的な感じがするのか参加型民主主義を持ち上げる小熊さんの朝日でのインタビュー

〈インタビュー〉小熊英二・慶応大教授に聞く脱原発
http://digital.asahi.com/articles/TKY201212210891.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201212210891
読めなければ、こっちも
https://www.facebook.com/notes/%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E9%9B%85%E8%8B%B1/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC%E5%B0%8F%E7%86%8A%E8%8B%B1%E4%BA%8C%E6%85%B6%E5%BF%9C%E5%A4%A7%E6%95%99%E6%8E%88%E3%81%AB%E8%81%9E%E3%81%8F%E8%84%B1%E5%8E%9F%E7%99%BA%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB/399994733414383

ここで、小熊さんは選挙以外の民主主義の仕組みについて語っている。
議会制民主主義でも大変なのに、参加型だともっと大変なんだが、・・・。

ただ、湯浅さんはこの本の後半部分で参加の大切さを書いている。
そのことについては後述。

ちなみに湯浅さんの選挙結果についてのインタビューも同じシリーズにある。

https://www.facebook.com/notes/%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E9%9B%85%E8%8B%B1/%E3%82%A4%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%B8%E5%85%88%E8%A1%8C%E3%83%9E%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%92%E9%81%B8%E6%8A%9E%E6%B9%AF%E6%B5%85%E8%AA%A0%E3%81%95%E3%82%93/398089730271550




74pで湯浅さんは「橋下徹さんという得難いヒーローを得て、いよいよ議会政治と政党政治そのものに手をつけようとしている」と分析する。そして、直後に「これは大仰な誇大妄想なのでしょうか。・・・正直、私にもよくわかりません」と問うことも忘れずに。74-75p

今回の総選挙では、橋下市長は議会政治と政党政治の枠の中で振る舞ったと思う。
そして、市長としての施策でも、何か言い出しはするけれども法律の枠には逆らえず、押さえられているようにも思える。
そこがこの本で紹介されている、いまの政治システムでは何もできない、新しいシステムが必要だと橋下市長が言っていることとも通じるし、湯浅さんはそこに危機感を抱いたのだろう。選挙後、その危機感はどうなったのか、というところも聞いてみたい。

湯浅さんは、とりあえず、ここへの対応が必要だと考えて、できることをやる。空騒ぎだったですめば、それでいい、という風に書いて、2章を閉じている。


第3章は
〜〜〜
私たちができること
やるべきこと
〜〜〜

というタイトル。

まず、最初の節には「自分たちで考える民主主義へ」という表題があるが、ここで書かれているのは橋下さんや彼を支持する人たちなどの意見が異なる人に対しても、意見交換や調整を頭から拒否すべきではない、ということ。「そういう人たちとも調整して、よりよい社会をつくっていくという粘り強さをもつ人たちが必要だ」という。81p

そして、次の
〜〜〜
「青い鳥」は見つからない
〜〜〜
という節では、まず、個別政策や政策パッケージを越えたところに問題のステージが移行しつつあると感じている、という。82p

それへの対応として、「青い鳥」探しではダメ、というわけだ。それでは病状が悪化するだけ。

じゃあ、どうするという話として、次の「時間と空間が必要だ」という節のタイトルになる。
「それは、結局、民主主義のあり方を考えることになります」という84p。

「そういうことを考えることができる時間をどれだけ確保できるかという、きわめて即物的なこと」の重要性をいう湯浅さんの主張は面白い。
85p

考える時間と議論できる空間、そう、そこからスタートという提起はすごく興味深いし、できそうな気にさせてくれる。

ここは、さきに紹介した12月22日の小熊英二さんのインタビューにつながる話だ。その通りに、88pでは「時間と空間の問題とは参加の問題です」と言い切る。

で、そんな参加の話やユニバーサルデザインの話、あるいは自分の東大合格の話と個人としての努力の話などのあとに、参加のバリアを下げることこそが、民主主義の活性化や社会の活性化のために必要であり、それこそが「私たちの仕事」がと書く。107p

さらに、参加のバリアを下げるというような努力で、社会が本当に変わるのか、という批判を想定し、それに以下のように答える。
その人はきっと、世の中のどこかに「もっとデカイこと」があって、それに手をつけられなければ目に見える形で世の中を動かすことなどできない、と思っているのでしょう。「どうせやるならデカイこと」、多くの人たちが持つ発想です。しかし私は、だ・か・ら・ダ・メ・な・ん・だ・と思っています。上ばかり見ていたら、まともに歩くことはできません。むしろつまずいて転んでしまうでしょう。
(中略 ここで学校の親からの父兄不満の例))
「デカイこと」を求めていても、目の前のことに向き合えなければ、結局は足元をすくわれます。
 私はそこに、民主主義の問題につながる、日本社会の基本的な問題が横たわっているように感じます。
119-120p

とはいうものの、湯浅さんはそこからストレートにこの「『デカイこと』を求めていても、目の前のことに向き合えなければ、結局は足元をすくわれ」るというところに「民主主義につながる日本社会の基本的な問題」が横たわっているという部分の説明を語ることをしない。
最後まで書いてないようにも読めるんだけど、ぼくが見逃してるのかもしれない。
「民主主義の問題につながる、日本社会の基本的な問題」について、もう少し語ってほしいと思う。

仕事をつくるためのアイディアを普及蓄積することなども小さい問題ではなく、「もっとデカイことを」と考える人たちは、自分が型にはまった狭い視野でしか物事を考えていないのではないか、と省みてみる必要があるように思います。132p
などと書かれている。社会を変えるといいながら、身の回りの小さいと思われるようなことに関与しないことの問題については同意できるのだけれども、ほんとうにそれだけでいいのか、という思いは残る。それが何かわからないので、困っているのだが。

ヴェーバーがいう「転轍機」を動くということ、そのための条件はいったい何だろうとずっと考えているのだけれども、そんな「デカイこと」を考えることは「型にはまった狭い視野でしか物事を考えていない」ということになるのだろうか。

人と人が関係を結び直すことができるコミュニティが必要であり、それを1から作っていく、そのためのノウハウの蓄積が日本社会には十分にないことを認めよう、というのが言いたいことだ、と湯浅さんは書く。152p

日本にそれがないのはその通りだと思う。外国のことは知らないけれども。そして、そのノウハウを蓄積し、コミュニティを形成するいろんな方法を模索することはとても大事なことだと思う。

しかし、湯浅さんには「型にはまった狭い視野でしか物事を考えていない」と批判されてしまうかもしれないが、そんな風に少しずつ何かを変えていくというような方法を社会を変えることとつなげるためには、何か違うしかけが必要なのではないかと思う。



そして、以下のようにこの本は閉じられる。
 より多くの人たちが相手との接点を見出すことに注力する社会では・・・。

(少し長い略)

・・「誰か決めてくれよ。ただし自分の思い通りに」という人を見たら、ヒーローを求める気持ちの奥にある焦りや苛立ちにこそ寄り添い、それに向き合って一緒に解決していくことこそ、自分へのチャレンジだと感じるようになります。「誰の責任だ」と目を血走らせるより、課題を自分のものとして引き受け、自分にできることを考えるようになります。・・・
「決められる」とか「決められない」とかではなく、「自分たちで決める」のが常識になります。
 そのとき、議会政治と政党政治の危機は回避され、切り込み隊長としてのヒーローを待ち望んだ歴史は、過去のものとなります。
 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界はよくならない。
 ヒーローは私たち。・・・
 私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
 その積み重ねだけが、社会を豊かにします。 155ー156p


ちょっときれいごと過ぎるような気がしないでもない。
正体がわからないものへの怒りがあり、言葉にならない叫びがある。

「誰の責任だ」と声をあらげたいときも少なくないし、ときに大きな声を出すことが必要なこともあるかもしれない。

もちろん、できることを積み重ねていくことが社会を豊かにする、という部分はその通りだと思う。
それを続けていくしかない。

その上で、危惧すべきは議会政治や政党政治の危機の回避なのだろうか。

湯浅さんの主張を読んでいて、わからないのはそこの部分でもある。
彼がここで言っていることは参加型民主主義の徹底という風に読める。そのことと、議会政治や政党政治の危機を回避せよという主張の結び目がもうひとつ見えてこない。

参加型民主主義が根付きさえすれば、議会政治や政党政治がどれだけ必要なのか、とも思う。もちろん、すぐにはなくせない大切なものだろうが、既成政党のだめさかげんを見る限りでは、そのことに注力するよりも、身の回りの参加型民主主義を確実にしていくことのほうが大事だと思うし、湯浅さんもそんなことを書いていると思う。だから、ここについては、もっとねいねいにその結び目を説明して欲しいと思った。もちろん、自分で考える必要がある話なのだが。



あと、サイドラインでうなずいたことなど
「ソーシャル・ワーク」という話
「人と人との関係の結びなおし」をするのがソーシャルワークです。それは・・・個人的であると同時に社会的で政治的な技法でもあります。

(略)

 しかし、日本は高度経済成長の中で急速に貧困を脱したとされ、日本社会も早くそれを過去のものとして片づけたがった。その中で、ソーシャルワークは高齢福祉や障害者福祉、あるいは医療相談、生活保護のケースワーク業務などに回収され、社会性と政治性を失っていきました。146-147p

おもわず、ひざを打ちたくなった。そう、障害者「福祉」とか呼ばれる現場でも「個別支援計画」とかいうのが幅をきかせて、社会や政治はますます問われなくなっているようにも感じる。「個別支援計画」作りに追われる日常の中で見失いがちなものを、ここで思い出させてもらったような気がする。


150pにはナショナリズムの話が少し出てくる。ここで、湯浅さんは国家主義と区別する健全なナショナリズムがありえるという風に書いているようにも読めるのだけど、かなり微妙な話だと思う。

また、この本の最後には2
012年3月7日水曜日
【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)
http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html
にも掲載されている

前にも読んでいたのだが、この医療費のロジックは気になる。
ここは全体を読んでほしいのだが、とりわけこの部分
混合診療の全面解禁については、アメリカの民間保険会社などが長らく主張しており、日本の財界もそれに呼応しています。国会議員の中にも、それを主張する人は少なくありません。よって「その連中が悪い」と言われることがありますが、だとしたら「そうならないように、医療費の負担と給付を増やそう」と主張しないと、筋が通りません。混合診療全面解禁は反対だが、医療費負担も反対というのでは、現実は私費負担割合が増えていく方向に進まざるを得ません。両方に反対していれば病気になる人が減る、というのでないかぎり、実際にかかる経費は変わらないからです。

なかなか難しい話だと思うのだけれども、少しの風邪で大量の薬が処方されたり、ほんとうに必要かどうか怪しいコレステロールを下げる薬がものすごく大量に出回っている現状のことと医療費の問題をあわせて考える必要があるんじゃないだろうか。ここだけ、切り離して、負担増が必要というのは、なかなか納得できない。


ともあれ、とても刺激的でいろいろ考えさせられる本だった。



ところで、この本の冒頭の問いに戻って、この本で編み出されている言葉の数々は多数派の人たちに届くものになっているだろうか。この「書籍」という媒体自体が多数派には届かない媒体なのではないかと思うので、そんなことを問うてもしょうがないかもしれないが、・・・。たぶん、きっと湯浅さんはそのことを腐心してこれを書いたのだと思う。そう考えると、それは本当に簡単な話ではないなぁということを実感する。



追記

太田昌国さんは
社会の中の多数派と少数派をめぐる断章――選挙結果を見て
http://www.jca.apc.org/gendai_blog/wordpress/?p=308
で、以下のように書く。
社会を変えたいと思ったのは若いころのことだが、それを実現するために多数派を形成する場に自分をおこうと考えたことは、ほとんどない。現存する体制を変革したいと思う運動体・組織体の中にも、自覚的にか無自覚的にか、強権・暴力・専制をふるい、少数者や力弱きものに対して抑圧者として立ち現れる多数派や、それを上から取り仕切って自らが揮う権力の恐ろしさを疑うことすら知らない指導部がいる。それとの一体化は避けたうえでなお、社会変革運動への関わり方を模索しよう。私は、そう考えた。

これはこれで、いさぎいいとも思う。
しかし、制度を変えなければいけないと思える場面は多い。この太田さんの立ち居地を制度と具体的に変えるための手立てとの関係をどう考えたら、いいだろう。そんなことを考えるとき、この湯浅さんのスタンスのとりかたはひとつの参考になるようにも思う。

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