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zoom RSS 『社会を変えるには』小熊英二著 メモ (続き)

<<   作成日時 : 2013/03/26 02:23   >>

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http://tu-ta.at.webry.info/201303/article_4.html の続き

無駄に長いです。
とりあえず、ここまで書いて、疲れた。自分のブログ以外に掲載することがあれば書き直すだろうと思う。

〜〜〜〜〜〜〜

6章『異なるあり方への思索』
「この章では、代議制の自由民主主義が行き詰まってきたことをふまえた、思想的な模索を紹介します」という文章で始まる。そして「ここで紹介するのは、代議制の自由民主主義を、なんとか活性化させるために、どんなことができるかという思想が中心」
とのこと。335p

社会を変えようと思ったときに「代議制の自由民主主義を・・・活性化させる」という視点以外の視点も当然あるはず。それをどう考えるか。では、それ以外の視点とは何か。古くは社会主義革命とかだったのだろう。

で、うんざりするような話なんだが、安倍晋三とかいう人もやはり社会を変えようとしている。戦後国家のレジームチェンジを目指すという。それがめざす姿は自民党の憲法草案にでている。中国と戦争をかまえることのできる大きな軍事力を持った社会であり、そこでは、人権は天賦のものではなく、制限されてもしょうがない。また、当然にも、日本人以外の人権は制限される社会だろう。さらに安倍晋三と仲のいい麻生さんの話などを総合すると、医療費の削減のためには「(彼らにとって)役に立たない命」は軽視されてもいいような社会だ。ま、「社会を変える」ということを考えるときに、そんな方向に社会を変えようとしている人たちが、国会では最大の勢力を誇っていることを自覚しておくことは必要かもしれない。

現状で社会を変えようと考えるときに、あり得ない武装闘争での政権奪取や暴力革命を考えるより、「代議制の自由民主主義を・・・活性化させる」という方向で考えることはまっとうなのだろう。ただ、その先にあるものも意識しておきたいとは思う。「代議制の自由民主主義」は一定必要だとしても、そこを超える何かが欲しい。でもいま、それが何かはわからない。

この章の最初に書かれている、人は理性的に動くとは限らないという話、社会運動はどう捉えたらいいのだろう。この「理性的に動くとは限らない」だけでは不十分な気がする。例えば、ヴェーバーの【――人間の行動を直接に支配するのは、理念ではなくて(物質的ならびに観念的な)利害である。しかし、「理念」によって創り出された〈世界像〉は、非常にしばしば転轍機として、利害の力学が行動を推し進めて行くレールを決定したのであった。……】という記述をこの文脈に当てはめると、どうなるか。

ちょっと横道

これをメモするために、このヴェーバーの言葉をグーグルで探した。すると、こんなのが出てきた。『マックス・ヴェーバー物語―二十世紀を見抜いた男―』http://www.shinchosha.co.jp/books/html/603608.html ここに書いてあるのは、引用なのかなぁ。とりわけ以下の部分が面白い。
そうだとすれば、われわれに必要なのは、ひょっとすると地球を破滅に導きかねない現在の軌道を変えられる新たな〈転轍機〉の創出であろう。 以下は、これまで伝えてきたマックス・ヴェーバーの壮大で強靭な思考に触発された筆者のささやかな「価値判断」である。〈転轍機〉が必要なのは間違いないにしても、全世界を同時にひとつの軌道に乗せようとするような、強引でかつ巨大な〈転轍機〉は、可能ではないし、有効でもない。そのことは、過去の経験ですでに明らかになったはずだ。 いかなる一元論にも、決して絶対的な権力を与えてはならない。 これが過去の人類の全歴史を合わせたよりも、比較にならないほど多数の死者を出して得られた二十世紀の痛切な教訓である。一元論は、すべてを敵と味方に分ける二分法と表裏一体になっていて、自分の側を「善」とすれば、相手側は許すべからざる「悪」であって、それを絶滅しないかぎり、理想の世界は実現されない、という目が吊り上がった「正義」の狂気を生む。 したがって〈転轍機〉は、かならず複数でなければならず、二十一世紀は、世界中の各地、また国中の各地域に、それぞれの環境の特質を活かし、住民に平和と幸福をより多くもたらす中小の多様な〈転轍機〉が数知れず編み出されて、たがいにその有効性を競い合う時代になるのが望ましい。 とうぜんそれは、試行錯誤の連続となるだろう。

とりあえず、いまの支配的な方向を変えなければしょうがないのは間違いない。ぼくはどんな条件で転轍機が動くのだろうという方向で考えてきたのだけれども、こんな風にも言えるのか、というのは目からウロコだった。「ローカルの方向へ」とか「サブシステンスの方向へ」あるいは「脱開発の方向へ」ということは可能だけれども、そう、それは単数ではないと言えるのかもしれない。転轍機というと単数の別のコースに向かわせるイメージがあったが、別のコースであれば、それは単数でなくてもかまわない。アナザーワールドは「もうひとつの」ではなく「こうじゃない」と訳すべきと書いた小沢健二の話にもつながるかもしれない。


そう、問題はどんなときに人が動くのか、という話だった。とりあえず、理性的に動くわけではないということだけでも、それは大事な情報かもしれない。

349pからの『個体論でなく関係論』というのも、気になった。構築主義なのだと思う。つまり、個体論とは「私とあなた」を私はこういう存在であり、あなたはこのうような存在だと固定的にとらえるもので、関係論ではその関係が存在を規定していると考える。351pの図によると、主体があり客体があるのが個体論で、それを関係性において把握するのが関係論だと言い換えることもできるだろう。

372pからは小熊=ギデンズの『再帰的近代化』の説明があるのだが、これがわかりにくい。こんな風に書かれている。要約して記載
近代化には「単純な近代化」と「再帰的近代化」(リフレクシブ・モダナイゼーション)がある。再帰的近代化というのは、すべてが再帰的になる、つまり作り作られる度合いが高まり、安定性をなくしていく近代化のかたち。ポスト工業化社会になっている現代は、もう単純な近代化の時代ではない。「単純な近代化」というのは、個体論的な近代化が成り立っていた時代の近代化のこと。主体があり、客体を把握でき、計算して操作できる。表の合計が多い人を代表にすればいい。そういう考え方で政策ができた時代。なぜ、いまそれが成り立たないかといえば、「単純な近代化」の前提である「個体」が成り立たなくなってきたから。つまり、「村はひとつの個体なので、その民意は選ばれた代議士が代弁できる」とか「労働者階級にはこれこれの政策を実現すれば満足させることができる」とか、同様に、失業者には、母子家庭には、高齢者には、とうような前提がなりたたくななっているから。


この説明も上記の『個体論でなく関係論』と表裏一体のものとして、とらえることができるかもしれない。


そのようなとらえかたから、当然の帰結として『「伝統」も作られる』という話になる。382p〜


とはいうものの、やはり、この再帰的近代化というのが、ここだけでは理解しにくい。「ちゃんとギデンズを読めよ」という話でもあるのだろうが、やはり、ぼくはここで小熊さんが説明に失敗しているのだと思う。だって、ぼくにはわからないのだから(笑)。


そう、あまりにもわかりにくいので、検索してみた。もっとわかりやすい説明があった。http://www5b.biglobe.ne.jp/~hidejyu/Refrexive.htm 
ベックやギデンズが現代社会の特徴を把握するために用いた概念。ベックによれば、以前の近代化は自然と伝統という目的・対象(Objekt)を近代化していく「単純な近代化」であった。それは身分的な特権や宗教的な世界像を「脱魔術化」していく近代化である。しかし、現在、この近代化はその目的・対象を吸収し尽くして喪失し、自己を近代化していく段階に入った。これが「再帰的近代化」である。現代社会の変容と課題を理解するためには非常に有効な概念。
しかし、それでもわからない。この前半部分は理解できる。現在、単純な近代化は「その目的・対象を吸収し尽くして喪失した」と言える部分はあるかもしれない。これも評価がわかれる部分だろう。イリッチが40年前に世界には近代化されていない広大な領域があり、そこが近代化の失敗を同様にたどる必要はないのではないかと提起したように、ものすごいアンバランスな状態はありつつも、単純な近代化が完全には終わっていない地域もまだあるだろう。ま、そこまではまだいい。その先で、対象がないから「自己を近代化していく」というのがよくわからない。「再魔術化」と言ったのは山之内さんだっただろうか、これならまだわかる。


再帰性 reflexivity(英) (ギデンズ、社会学) についてはhttp://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20061107 にも説明がある。
『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』 p.45-6 傍注より
 アンソニー・ギデンズは「諸個人がみずからの行為に関する情報を、その行為の根拠について検討・評価し直すための材料として活用すること」を「再帰性」と呼び、これの諸個人への浸透を近代社会の特徴とする。 たとえば、「再帰性」が浸透するにつれて、各地の伝統は「これまで伝承されてきたから」という理由だけではその継承が是認されなくなり、ある伝統が尊重される場合でも「なぜその伝統を守るのか」とその根拠がつねに問題視されるようになる。
「みずからの行為に関する情報を、その行為の根拠を検証し直す材料にすること」。 それがループ化すると、「自分はこれでいいんだろうか」という循環的な問い詰めが強迫化し、収拾がつかなくなる。「自分の状態についての問題意識が高まれば高まるほど、勉強して病理に詳しくなればなるほど状態が悪くなってゆく。 フロイトのモデルの逆」(斎藤環、「ICCシンポ」)。 既存のひきこもり支援は、「オタクになれ」という斎藤環氏まで含めて、再帰性を減衰・忘却させる方向を目指している。たとえば自転車に乗るときには、操作方法を意識してしまってはうまく運転できない。 自転車に乗るというのは、あれほど細い車輪でバランスを取り、よく考えるとものすごく高度なことをしているのだが、それは「意識しないから」できている。できない人は、操作方法をいちいち意識するので、かえってできなくなる。――同じ事情が、社会生活や人間関係にも言える。


この説明はわかりやすいのだが、じゃあ、それを近代化にあてはめて、再帰的近代化といえば、どうなるか、それがわからない。

Reflexiveを英辞郎で見るとた(わけのわからない「再帰的〜」をはずして引用


【名】再帰動詞、再帰代名詞【形】再帰の、反射的な
reflexive eye movement 反射性眼球運動、眼球の反射運動
reflexive law 反射律
reflexive object 再帰目的語
reflexive opposition 反射的な反対[抵抗]
reflexive opposition to 〜に対する反射的な反対[抵抗]
reflexive relation 反射関係
reflexive response 反射的反応

reflexively【副】反射的に、ピクッと
reflexively cover one's ears 〔大きな音に対して〕思わず耳を塞ぐ
reflexively resist 反射的に抵抗[反撃・反抗]する
contract reflexively 〔筋肉などが〕反射的に収縮する
respond reflexively to 〜に対して反射的に反応する

But the problem with being clever and original in software design is that it gets to be a habit -- you start reflexively making things cute and complicated when you should be keeping them robust and simple.でもソフトの設計で、小利口で独創的になることの問題点は、それが習慣になってしまうことだ。 -- 堅牢でシンプルにしておかなきゃダメなのに、反射的にそれを媚びた複雑なものにしてしまいがちになる。◆【出典】日英対訳文・対応付けデータ(独立行政法人情報通信研究機構) 全文表示IRS (Individual Review System) involves oral training with one instructor, enabling students to reproduce all the words and phrases introduced in the previous lesson at the same speed as native Japanese speakers in order to get students using them reflexively in relevant situations.生徒が学習した語彙やフレーズを、ネイティブの日本人と同じスピードで、実際の場面の中で反射的に、より自然に使えるようにするマンツーマン指導の口頭トレーニング、これがIRS(個人復習システム)だ。◆【出典】Hiragana Times, 2003年11月号◆【出版社】株式会社ヤック企画
〜〜〜〜


で、この小熊さんの本には再帰性について、以下のような記述もある。
 再帰性の増大は、誰にも不安定をもたらしますが、恵まれない人びとへの打撃のほうが大きくなります。かつて貧しい人びとは、共同体や家族の相互扶助で、経済的貧しさをカバー(略)。あるいは、自分がつちかってきた仕事や技術や生き方への誇りで、心理的貧しさを補ったりしていました。 しかし、再帰性が増大し、選択可能性と視線にさらされると、それらが揺らいでいきます。相互扶助も誇りも失って、無限の選択可能性のなかに放りだされ、情報収集能力と貨幣なしにはやっていけない状態に追こまれていきます。386p


どうも、この「再帰」っていう訳語が悪いんじゃないかと思えてしまうのだが、ま、ここで書かれてることはなんとなくわかるような気がする。で、再帰性については、もう、これ以上の理解は難しそうなので、この先に進む。


ともあれ、この先の小熊さんによるギデンズの従来の右派と左派の限界に関する記述の紹介が少しだけ面白かったのだが、やっぱりしっくりこないなぁ。
 ギデンズの定義だと、左派というのは、主体の理性を信じて、客体の操作可能性を信じています。計画経済や福祉政策など、政府が適切な政策をやれば、適切に社会を設計できるという考え方です。 それにたいし右派は、客体の絶対性と、主体の限界を信じています。伝統に帰れ。伝統はゆるぎない。あるいは市場にまかせろ。人間の理性はあてにならない。だから伝統の前に、市場の判定の前に、謙虚に従うべきだという考え方です。 もっとも日本では、保守政党が「所得倍増計画」や乱開発をあyったり、革新政党が自然保護を唱えたりしたので、必ずしもこの定義があてはまりません。386-7p

欧米のことはよくわからないのだが、いまは自然保護についは左派も主張しているのではないか。

あと、「左派が客体の操作可能性を信じている」というのも時代遅れな感じがする。ギデンズがこれをいう前にはそうだったのかどうか。

そもそも左派ってなんなんだろうって話にもなるんだけど。

394pから始まる「原理主義」という節で面白いのは「相手はばかだ、というのも対話拒否の一種です」という話。また、例の言葉が出てくるのだが、「再帰性が増大すればするほど、「ばかが多くなった」という人が増えてきます」とのこと。


そして、396pから始まる次節の「対話と公開性」という話になるのだが、とりあえずの着地点はここにしかないのかなぁとも思う。


ギデンズはこれを対話民主制と呼ぶ。それは代議制民主主義をやめろということではなく、代議制民主主義にできるだけ公開と対話を導入し人びとに参加してもらうこと。これ、参加型民主主義とか直接民主主義の導入ともいえるかもしれない。オートノミーといような呼び方もあるだろう。教育も必要だろうし、参加のシステムを作ることも必要だろう。それが重要だということがいわれてはいるが、どれだけの行政や政治家が本当にそれを望んでいるかといえば、かなりあやしい感じもしないわけでもない。


小熊さんは、次の「エンパワメント」という節では、その対話民主制のシステムがうまくいかないことが多いという。399pそして、エンパワメントについて小熊さんは説明するのだが、このエンパワメントの説明は不十分だと思う。エンパワメントとは教育などで力をつけてあげることではない。本来、そのひとが持っている力に気づいてもらうことだ。http://tu-ta.at.webry.info/200810/article_12.html 参照のこと

ともあれ、参加型・対話型の民主主義への転換が必要だということはその通りだと思う。

405-406pではフレキシキュリティという言葉が説明される。フレキシブルな産業構造に社会保障をつけること、という意味らしい。簡単にいえば、企業には産業を転換するために解雇しやすい形を提供するが、人々には解雇されても困らない社会保障を提供すること、といえるかもしれない。これも、なかなか微妙な問題でもある。日本でもこんな題目で解雇しやすい環境が作られようとしているようだが、セキュリティのほうは忘れ去られたままだ。

「やらないよりまし」という節では、ギデンズやベックのここまでに紹介された政策が各国で実施されているのは、「他にすぐれたコンセプトがないからです」423pといい、表題の「やらないよりまし」という話になる。ここで行き詰っていると言われているのが、社会主義革命、福祉国家、市場万能主義、伝統回帰。しかし、これって、マーガレット・サッチャーが言ってたTINAと似てないか。

また、昨今の社会保障政策における選挙を超えた「参加と包摂」をあらわすような政策、つまり、実質のある分権、タウンミーティング、職業訓練や相談所、社会運動やNPO,について、それはやらざるをえないものだと小熊さんは書く(426p)のだが、この間の自民党の政策は、現状維持というよりも逆行している感じさえあるんだが、どうなのだろう。

この6章の終わりで小熊さんはこの時代について、日本型工業化社会が限界にきて、「ふつうの先進国」になる時代がやってきた」という。そして、この章の結語では、この時代に「ポピュリズムに流れる人が多いか、それとも市民参加や社会運動に向き合う人が多いかは、これからの選択にかかっています」という風に問題を立てる。


現状では、主流は、ポピュリズムに人々が走るような教育がなされ、マスコミの報道もかなりそっちの方向に向かっているように思えるのだが、どうなのだろう。また、同時にポピュリズムと市民参加や社会運動を分けることができるのか、という思いもある。ポピュリズムが動員する参加や社会運動だってあるんじゃないだろうか。



7章のタイトルは本のタイトルと同じで「社会を変えるには」
この最初の方で、【現代において「社会を変える」とは】という問いが提出される。議会で多数派をとることが社会を変えることではないとした上で、現代の誰しもが共有している感覚として、3つを提起する。
1、「誰もが『自由』になってきた」
2、「誰も自分のいうことを聞かなくなってきた」
3、「自分はないがしろにされている」
この感覚は首相も高級官僚も非正規労働者も共有されているのだから。ここを変えれば社会は変わったことになる、というのが小熊さんの主張(434p)なのだが、果たしてほんとうにそうか。

まず、その二つの前提が気になる。
1、議会で多数を取ることではないということについて、確かに議会で多数派をとることはすべてではなく、そのことの意味は相対的に低下していると思うのだが、だからといって、無視できるものでもない。という意味で、この切り捨て方は気になる。
2、この3つの感覚を本当に誰もが共有しているといえるのか、という問題。

まず一つ目の「誰もが『自由』になってきた」という話だが、その時間軸で考えるか、何の自由について考えるか、ということを抜きにこれだけ言われてもなぁ?と思う。現在の第二次安倍政権、自民党憲法草案という話でいえば、それは個人にとってのさまざまな自由を制限する方向に向いているといえるだろう。この局面で「『自由』になっているという感覚」を多くの人が変えて、不自由になっていると気づくことを指しているとすれば、それは面白い変化だと思うのだが、この本が書かれたのは安倍政権の成立前。さらにこの「『自由』になってきた」という感覚が肯定的に重要な場合もある。例えば、参加の機会やさまざまな機会に自由に参加して自分の思っていることを言っていいし、デモにも行っていいし、NPOや社会運動に参加するのも自由になってきた、という感覚はとても大切で、ここを変えることは、社会を変えるということの逆に向かう話だということでもある。


二つ目の「誰も自分のいうことを聞かなくなってきた」という感覚を変えるというのもわからない。これも「なってきた」という時間軸をどうとるか、という問題でもあり、あと「聞いてもらえない」という感覚を前提にして、もっと聞かせるように、もっと参加し、発言しよう、という風につながる回路だってあるはず。


三つ目の「ないがしろにされている」という感覚も同様で、その感覚を前提にしながら、ないがしろにされないためにどうしようという行動のモチベーションにもなりえるのではないか。「社会が変わった」というのは、この3つの感覚が変わったということではなく、これらの感覚を前提にしながら、そういう現状はあるが、それでも参加すれば、少しはいい方向に変化するという感覚を持てるかどうか、ではないだろうか。そういう感覚は上記3つの感覚が変わらなくても、ありえるのだと思う。


そして次の【現代日本の「格差」意識】という節では、現代日本語の「格差」というのは、その怨嗟の対象が大金持ちよりも、小さな既得権者に向かいがち、ということなどを考えると、単に収入や財産の差のことだけでなく、「自分はないがしろにされている」という感覚の、日本社会の構造に即した表現だという(437-8p)。それはあるかも、と思った。

別の話になるが、この少し前には「在特会」が俎上に上がり、「ないがしろにされている」という感覚との関係で説明される。そして排外主義を掲げるポピュリズムの台頭が世界中で起きているというのが、排外主義の街頭行動と社会運動を分かつものは何か、という問いは立てられていない。

さらに次の節は【現代日本社会で「社会を変える」とは】という問いなのだが、ここでは思いつく限りでは、答えはひとつしかない、と小熊さんは書く。(この自信と小熊さんが1年休むことになったというその弱さがコインの裏表みたいなものじゃないかと一瞬思った)。


で、そのひとつのこととは
「自分はないがしろにされている」という感覚を足場に、動きをおこす。そこから対話と参加をうながし、社会構想を変え、「われわれ」を作る動きにつなげていくこと
と書く。そのテーマとして原発が格好のテーマだという。440p 確かに、これ、面白いかもしれない。ただ、動きをおこすための足場はもっといろいろあってもいいように思う。「われわれ」がどんな形で形成できるかわからない。きっとそれは単数ではないだろう。ただ、他者の存在を尊重する対話と参加のなかからしか、新しい社会構想は生まれないだろう。そして、複数の「われわれ」がつながる回路はきっとあるはずだ。遠大で遠回りかもしれないが、そこに希望を見出すしかないようにも思える。

そして、小熊さんは2011年からの脱原発デモで多くの人が望んでいたのは、以下の3つではないかと書く。441-2p


1、自分たちの安全を守る気もない政府が、自分たちをないがしろにし、既得権を得ている内輪だけで。すべてを決めるのは許せない
2、自分で考え、自分で声をあげられる社会を作りたい。自分の声がきちんと受け止められ、それによって変わっていく。そんな社会を作りたいということ。
3、無力感と屈辱を、ものを買い、電気を使ってまぎらわせていくような、そんな沈滞した生活はもうごめんだということ。その電気が、一部の人を肥え太らせ、多くの人の人生を狂わせていくような、そんなやり方で作られている社会は、もういやだということ。

以上3つを上げて、それは人間がいつの時代も抱いている、普遍的な思いだ、という。

1については間違いないだろう。2と3については、どれだけの人が、そんな望みに自覚的だったかというと、かなりあやしいと思う。この3つを同じように並列に並べるのはどうか。圧倒的な1の思いが人を動かしたのであって、2や3は後付けのような気がする。そして、連続して、そういう行動に参加する中で深められていくような思いなのではないかと。

次の節は『「いい幹事」より「鍋を囲む」』445pというもの。ただ、いい幹事がいないと鍋もなかなかうまく食えないような気もする。そこでの「いい幹事」はみんなの参加感を高めて、みんなの思いをそれぞれのメンバーがじゃましないように動ける幹事だ。そう、ファシリテータ型の幹事が必要とされているように思う。


450pからは社会運動をどうやればいいのかノウハウのための諸理論の紹介。この具体的なものを生み出そうとする視点は好きだ。

「資源動員論」「政治的機会構造論」書かれていることはあたりまえのことなのだが、政治的機会構造で運動の成否が決まるという理論だ、とまでいわれてしまうと、それは違うと思う。小熊さんはその評価を具体的には書いていないが。450-1p

次の『争点関心サイクル』という節(451-2p)では、争点に対する行動の盛り上がりのサイクルの話で、問題解決のためのコストが高すぎると、人々の関心が減退していく、だから原発の問題では、それをなくすためには「産業文明をやめないとだめだ」とか「資本主義が変わらないとだめだ」という主張は逆効果で、やらないほうがいいという。
 逆に、(この理論からいうと)原発がなくても意外に困らない、とか、実現可能な代替案、が運動の持続性を導くとも書かれる。しかし、現在のシステムのだめさを象徴しているのが原発問題だというのは小熊さんも書いている話だ。そのことをちゃんと語るべきではないかという思いは強いなぁ。


次の節は『情報の二段の流れと「イノベーター」』453-4p


まず、最初の二段の流れだが、情報は最初に知識や関心の高い人に伝わり、そこから一般の人に伝わる、というもの。だから、最初にどこに呼びかけるかというターゲットの選定とか、ビラの配り方もその観点から、いい方法を探せという。


次の「イノベーター理論」これはマーケティングの理論だが、消費者のうち革新者(イノベーター)は2.5%、次に動く初期採用者が13.5%、社会全体のトレンドになってから早めに動く初期追随者が34%(以下略)。最初の16%が動くと爆発的な普及がこるという。それを応用すると、先端のイノベーターだけに呼びかけてもだめだけれども、最後に動くような人を想定してわかりやすくて反感を買わない」訴え方はあまり効果がないという。


『情報の二段の流れと「イノベーター」』に関して、そういう工夫が必要なこともあるかもしれないと思うが、だからといって、その完成度の高さのために時間をかけると、それも効果を薄れさせたりするだろう。そのビラが誰向けなのかとかいうことを考えないのはやはり問題なのだろうが、そんな理論にとらわれちゃうのもどうかと思う。ただ、ビラに関しては、もう少し費用対効果を考えてもいいかも。


そして、続けて小熊さんは「関心はあるけれども知識がない、知識はあるけれども行動するのはためらう」という層へのアピールが有効で、全部をねらうより効果的だということになります、と書くのだが、そういうターゲティングをどう行えばいいのか、そういう意味ではSNSなどを使って、関心がありそうなところに届けるメッセージというのは効果的かもしれない。


フレーミング(454-456p)「問題の認識」のしかた(フレーム=枠組み)を変えること。


例えば、辺野古の問題で、安保問題だけではなく、ジュゴンの生息の問題から訴えるとか、ダム建設について開発か自然保護かというフレームから、決めるのは住民投票でというような形で。そして、小熊さんは、ここで重要なのは、違う枠組みを提示して世界観を変える、そのことによって形成を逆転させる、はっとさせる、それ以前とは違う認識にさせることだと説明する。ドイツの緑の党が。君たちは右なのか左なのかと問われて、「前だ」と答えた例が出されている。つまり、同じ土俵で勝ち負けを争うのではなく、違う土俵を作るのだ、とも書かれている。


そう、こんな発想の転換が効果的なことはあるだろう。しかし、辺野古問題の軸に安保問題があるのは間違いないはず。そこを抜きにしてジュゴンというのもどうかと思う。



構築主義と主体形成 456-7p主体はあらかじめあるのではなく、運動の中で形成されていくという視点、これは大事だと思う。


モラルエコノミー 458ー9p 人間は困ったから立ち上がるというわけではなく、モラルエコノミーを侵されたと感じたときに立ち上がる。(この場合のエコノミーは経済よりも広い意味)そのモラルエコノミーが発動するのはどういうときか、が問題なのだが、小熊さんはその秩序は時代や社会によって異なると書いているが、それを規定するものは何か、どのようにそれを把握するかということは書いてない。問題を提起するときにモラルエコノミーを意識すればいいのだろうが、それが何かをつかむのは非常に困難だ。



プロプリエーション 「流用」と訳される。運動に聖書の言葉を使うとか、文部省の唱歌を持ち出すとか。権力者のヘゲモニーを利用しつつ、逆転させる、「本歌取り」とか「カバーバージョン」という意訳もできるかも、と書かれている。それがどうした、という感じもあるが、上手に使えば、それが有効なときはあるだろう。



戦後の社会運動の実例として、いくつかあげられる中で、興味深かったのは「水俣病訴訟」の節のなかでの記述。苦界浄土やユージンスミスの写真を紹介。そして、はじめに人を動かす「原体験」の話。これが解明されないという話なのだが。そこにどうアプローチするか、スピリチュアリティの領域に踏み込んで考えることが必要だと思う。花崎皋平さんなどの先行研究もあるはず。



『こうすると失敗する』(484p〜)という節では、個体論的な運動はダメだと強調する。個体論的な発想が、運動に弊害を起こさないようにする注意点として、・運動を「組織」と考えないこと。(「組織を握る」とか「組織を守る」という発想から離れる)・「統一」という発想も、組織を個体とみなした発想。(○○労組と??党、△△同盟のトップで会合を開いて統一戦線を組んでその組織人員で動員を予想する、とか、意見が違う組織のトップをまとめるために方針を無難なものにする、とか、「末端組合員」で従わないものは追放するとか。そうすると、楽しくないので、ますます人が来なくなり、社会からもあれは特別な人々だと思われる悪循環。こうした例が過去には多くあった。・人間も「個体」とみなすべきではない。つまり、レッテルを貼って、その人を変わらないものと見るべきではない。

というなことを、この節で小熊さんは書き、「個体論的ではない運動」という次の節で、運動を組織として考えるのではなく、動いている状態としてだ、という。

しかし、この「個体論」ぼくには少しわかりにくかった。運動は動体でであり、固定的なものとして見るな、ということなのだろうが、もう少しわかりやすい説明の仕方があるのではないか、「個体論」とかいう言葉を使わないで説明したほうがわかりやすいのではないだろうか。


でも、この「個体論的ではない運動」という節には、いくつか興味深い記述がある。


まず、集まる人の人数について多ければいいというものではない、と小熊さんは書く。「数が多ければえらい、というのは近代社会の特徴的な考え方ですが、それだけでは決まりません。数が集まらないと正しさが信じられない、報道されないと自信が持てない、というのは不幸なことです」487p


これは某「首都圏反*連」の若い人たちにもちゃんと噛み締めて読んで欲しい部分だ。そういえば、古くから反原発をやっているこの団体の人で反原連のメンバー団体の人が総会で人数発表の問題のことをとりあげたと言っていた。この話について、「デモとは何か」の五野井さんから興味深い話を聞いたのだが、とりあえず内緒にしておこう。


「政治家や官僚と話をすることも重要」という提起、これは最近考えていたことでもあった。小熊さんはこんな風に書く。
・・・「あなたはほんとうにそういうことがやりたくて政治家になったのですか」と問えばいいでしょう。たいていの人は、悪いことと自覚しながらそれができるほど、強くはありません。490p
そう、最近、考えていたのは、地元の与党側の議員。自民党や公明党の議員と直接話をして、何をどうしたらいいと考えているのか聞いてみるというのはどうかということ。そのうち、これはやりたいと思っている。幸いにぼくの選挙区の平将明という自民党議員はときどき面白い話もしている。当然、いろいろブラックなところもあるみたいだが。ともあれ、常識的な話では、民主主義や人々の参加をあからさまに否定する議員はいないはずだ。個人的に話を聞きにいくこともありだが、彼らと胸を割って話をするというその仕組みをどう作るかというのが課題になるかも。


「批判は好きだが対話や活動は苦手だ」という人も活動できる方法はあるということを紹介するとき、さらっと「そういう人は社会運動に向いていない以前に、社会生活にも向いていないきもしますが」と書いてる(492p)のが面白かった。一瞬、デモに出てくるようになる前のこの本の著者のイメージともかぶる(笑)。


この7章の最後の節は「楽しくあること、楽しそうであること」これは大事だと実感。


「あとがき」では自分を呼んで講演会を企画するよりも読書会をという(512p)。これもそうだろうなぁと思う。一人ひとりが参加して、意見を言えるような場をたくさんつくることの大切さはもっと強調されるべきだろう。




膨大なメモ、ここまで。

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