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zoom RSS 『アーチストは境界線上で踊る』(斎藤環著)メモ

<<   作成日時 : 2013/04/04 07:32   >>

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返す時期になってしまったので、読みきれなかった本

たぶん、以下が特徴的な部分。
序論から
・・・「ヒストリー症状」とリアリティ・システムの関係こそは、表現における「内容」と「フレーム」の関係性にほぼ等しい。

(略)

 ヒステリー者はリアリティ・システムに対して、徹底的に受動的である。究極の受動性は、しばしば反転し、システムへの反発をもたらすだろう。しかし、その反発は、むしろシステムの作動を隠蔽し、作動をいっそう補強するように作用する。そう、あたかもそれが「悪い場所」であるかのように。

 もちろん、そのような場所で生まれた表現には価値がない、といいたいわけではない。むしろ「ヒステリー者の崇高」こそが、時代の要請であるかにみえる場面には枚挙に暇がないほどだ。しかし、私は批評的立場に身をおくときには、そうした表現と距離を取りつづけるだろう。

 リアリティ・システムの所在をつきとめながら、それに反駁するのみならず、システムそのものを出しぬき、あるいは書き換えようともくろむこと、そのうえで「リアルとは何か」を問いつづけること。

 私が評価してきた作家は、ほぼ例外なく、そのような強固な意志と欲望を秘めているように思われる。また、そのような意志と欲望においてこそ、私たちはみずからの根拠を求めてやまない「ヒステリー者の声」の響きから解放される。

 そう、ヒステリー者に抗することは、みずからの、ありとあらゆる意味での無根拠さに耐えぬくことをも意味するだろう。しかし、根拠からの解放こそが真の多様性をもたらすとするならば、暗闇の跳躍をくり返すかれらの営みに、あらためて敬意を表さないわけにはいかない。 10p

【リアリティ・システムの所在をつきとめながら、それに反駁するのみならず、システムそのものを出しぬき、あるいは書き換えようともくろむこと、そのうえで「リアルとは何か」を問いつづけること】というのは、わかるような気がする。それは現代アートが社会的なテーマと無縁ではいられない、純粋な芸術などと言っている場合じゃないいう風に読み替えることができるかもしれない。この視点は好きだし、現代アートについて、こんな風にけっこうすっきりと整理することができるのかと思った。

そして、斎藤環さんは、みずからの(存在の)根拠を求めてやまない「ヒステリー者の声」の響きからの解放を求める。このような声と毎日、向き合うのが仕事なのだから、しょうがないじゃないか、と思ったりもする(笑)。

さらに、根拠を求めないアーチストの「暗闇の跳躍」を賞賛する。しかし、ここに書かれているように「根拠からの解放こそが真の多様性をもたらす」というのはどうだろう。根拠を求めすぎると病気になるということは確かにあると思うのだが、そこから解放されるというのはどういうことなのか。【「リアルとは何か」を問いつづけること】と【根拠を求める】ことのあいだには親和性があると思うのだが。





草間彌生へのインタビューも興味深い。彼女が病気とどんな風につきあってきたかが垣間見える。

そして、斎藤環さんは」以下のように書く。
 ・・・草間彌生の創造性は、彼女の病と無縁ではないかもしれない。周知のとおり、彼女の創造行為が自己治療の試みであったことはたしかだろう。今回のインタビューにおいても彼女は、精神分析を受ける経験が表現を抑圧してしまったという、興味深い経験について語ってくれた。その意味でフロイト派は敵であったという彼女の言葉に対して、精神分析的な言辞を弄する精神科医のひとりである私は、返す言葉をもたない。

 彼女のこれまでの生涯が、果てしない病との戦いの過程であったとしても、はたして治療はどれほど彼女の支えたりえたのだろうか。いまも病院に住むという彼女の話に耳を傾けつつ、私は精神科医であるほかはないみずからの出自を、ふと呪いそうになったことをここで告白しておこう。(略)
 
 閑話休題、病との関係性において営まれる創造行為はそのすべてではないにしても、いわゆるアウトサイダー・アートに親和性が高い。 (略) しかし、ここで述べておかなければならない。草間彌生はアウトサイダーではない。その営みがどれほど病と接近してみえるとはいえ、彼女の創造物は正規の美術史に所属している。・・・
32p

引用した序論を別の言葉に置き換えた記述とも言えるかもしれない、ここに斎藤環さんの問題意識を感じるっていうか、まぁ、精神科医の性かもしれないけれども。




やなぎみわについての文章の結語で斎藤環さんは以下のように書く。
・・・
 だから私たちは、やなぎ作品を「物語」として読んではならない。彼女の作品を凝視し、彼女の遍歴をたどることは、わたしたちが自明とみなしてきた物語たちを反転するための、最大のチャンスにほかならないからだ。だから私たちは、やなぎが半ば無自覚的に「フェミニズム」的身振りを反復するときに、そこに真っ先に「政治」を読みとってはいけない。むしろ私たちは気づくべきなのだ。「フェミニズム」こそが、あらゆるアスペクト盲を回避するために企図される、それ自体は不在の認識回路でありえた可能性を。85p

まず、「アスペクト盲」ってなんだよと思う。困ったときのグーグル。で、でてくる。
http://watashikokoro.blog99.fc2.com/?tag=%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%88%E7%9B%B2
ウィトゲンシュタインの言うアスペクト盲は、「何かを何かとして見る」ことはできなくとも、たんに「何かを見る」ことはできるのである。アスペクト盲は「あの雲はなんだか猫に見える」とは言わない。そしてまた私が「この黒板消しをスリッパとして見てごらん」と促しても、何をしてよいのか分からない。(中略)猫を見て「猫が見える」と言うことはできるし、「そこのタクアンをとって」と頼めばとってくれる。なんらかの見方のもとにものごとを見ることがまったくできないというのではなく、それをそのような見方で見ていることの自覚がまったくないのである。それゆえあえて言うならば、アスペクト盲とはわれわれ自身のごくふつうのあり方にほかならない。(pp.201-202)

アスペクト盲には、自分の知覚と言語使用を揺るがす他者が決定的に欠けているのである。確かにそこにはクワス的可能性が排除され、均質化した共同体たる「われわれ」があり、実践における共同体の一致がある。だが、よどみを欠いた一枚岩の言語ゲームという非現実的な幻想は、他者性なき他者を現出させるにすぎない。同じ見方、同じ意味、同じ規範のもとに盲目的に生きる者たちは、かえってその規範の姿を見失うだろう。(中略)
 それゆえ、アスペクト盲の地平を「規範の独我論」と呼ぶこともできるだろう。独我論が徹底されることによって自我を消失させたように、規範の独我論もまた、徹底されることによって規範を消失させてしまうのである。(p.206)

ま、なんとなくわかったように気になれる。
しかし、わかんない言葉を使わずに書いてほしいな斎藤環さん、おかげで知識は増えたけど。

その言葉がわかったにしても、やっぱり難解だろう【むしろ私たちは気づくべきなのだ。「フェミニズム」こそが、あらゆるアスペクト盲を回避するために企図される、それ自体は不在の認識回路でありえた可能性を】って。

「それ自体は不在の認識回路」ってなんだろう。で、その可能性はすでに潰えたといいたいのかなぁ。



会田誠の評価はこんな風に始まる。
 会田誠は、つねに過剰だ。問題はそれがなんの過剰であるのか、わかるようでよくわからないことだ。92p
〜〜〜
・・・会田が好んで少女の絵を描くのは象徴的だ。会田自身がいみじくも述べるとおり、彼にとっての少女とは、そのまま幻想そのものである。もちろん少女の身体を切り刻み、すりつぶし、調理さえしてみせる彼の身振りに思春期における姉との不幸な関係を重ねてみることも不可能ではないだろう。(引用者注:このエピソードはインタビューで会田が語っている) しかし、その重なりは、姉への恐怖が少女全般への恐怖をもたらし、さらに少女のフィクション化につながるという間接的な接続ではないだろうか。96-7p

この間の森美術館の彼の作品の展示をめぐる問題も、ここから読み取れるものがあるだろうか。





斎藤環さんによるヤノベについての結語部分
ヤノベが「子供都市計画」に込めたたくらみは、みずからが幼少期に「万博の廃墟」で見た光景の、ある種の反復ではなかったか。ねじれた「廃墟の時間」に絶望することなく生き延びるための技術を、子供たちに指し示すこと。思春期の心を魅了しがちなマリネッティ風の「未来」幻想に拮抗すべく、「トらやん」というワクチンを投与すること。その意味でこの都市計画は、「創造的廃墟」と呼ばれるべきかもしれない。161p



岡崎についての冒頭部分
 岡崎乾二郎を「読む」ことは難しい。岡崎地震が明晰きわまりない理論化であるため? それもあるが、かならずしもそればかりではない。岡崎の批評は、そして作品は、「作品という現象」が、どれほど無根拠に成立しうるものかをひたすら示しつづけるために制作されているように思われてならないからだ。329-330p


斎藤環という名前とモダンアートの結びつきを知らなくて、意外だったので図書館で借りて読んだのだが、全部は読めなかった。冒頭の「返す時期になってしまったので、読みきれなかった」というのは一面の事実ではあるが、ぼくが読めなかったのはそれだけじゃないかもしれない。

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