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zoom RSS 「犠牲のシステム 福島・沖縄」メモ

<<   作成日時 : 2013/05/13 04:26   >>

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「はじめに」で著者の高橋哲哉さんは原子力発電と日米安保体制をそれぞれ「犠牲のシステム」と捉え、ひいては戦後日本国家そのものを「犠牲のシステム」としてとらえ返す視座が必要なのではないか、と書く。

 犠牲のシステムは決して、日本だけの話ではないように思う。コロンブスのアメリカ「発見」からの521年は「犠牲のシステム」の上に成立しているといえるだろう。あるいは奴隷や土地を持たない農民(小作)の存在を前提としていた封建時代もまた、そんな風に呼びうるかもしれない。
問題はそれが現代にに存在するということだ。

 しかし、現代でいえば、パレスチナの犠牲の上に成立するイスラエル、というだけではなく、「南」の貧しさの上に成立する「北」の国々の経済的「豊かさ」もまた、そのシステムの上に成立しているといえるだろうし、男性による支配も、あるいは障害者と定義される人と、そうは定義されない人の関係もそうだろうし、労働者に対する資本の側の抑圧もあるし。セクシャルマイノリティに対する抑圧や、少数民族に対する・・・、そう考えると、ほとんどの差別や抑圧は「犠牲のシステム」といえるのではないか。それを福島と沖縄に限るのはなぜか、まず、そんな疑問をもった。しかし、それぞれの名前をかぶせることで見えてくることもある。「差別」と呼ぶか「犠牲のシステム」と呼ぶかで見えてくるものはかわってくるだろう。

 ところで、あえて「犠牲のシステム」と呼ぶことで何がみえてくるだろう。メモの最後にこの問いへの答えを考えてみよう。


 第1章はほとんどは311の1ヶ月後に福島に入った体験をふまえて「朝日ジャーナル」に書かれた「原発という犠牲のシステム」という文章。その前に福島出身ということからくる思いが書かれている。

この中で高橋さんは犠牲のシステムとは何かを定義する。
27ー28pの説明を文章毎に分け番号をつけてて掲載
〜〜〜〜
1、或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活を犠牲にして生み出され、維持される。

2、犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。

3、この犠牲は通常、隠されているか、共同体にとっての「尊い犠牲」として美化され、正当化されている。

4、そして、隠蔽や正当化が困難になり、犠牲の不当性が告発されても、犠牲にする者(たち)は自らの責任を否認し、責任から逃亡する。

5、この国の犠牲のシステムは、「無責任の体系」(丸山眞男)を含んで成立するのだ。
〜〜〜〜

この直後に311以降、「無責任の体系」の空虚な本質はいかんなく発揮しつつある、と書かれている。そして、上記の犠牲のシステムの定義はこの本のなかで何度か繰り返して引用されている。

 さらに、あとがきを読むと、この「犠牲のシステム」として、沖縄に福島を加えることへの躊躇が残っていると高橋さんは書きつつも、「書いた以上は弁解できない。各位の忌憚なきご批判をぜひお願いしたい」と付け加えている。

 そもそも、犠牲のシステムという風に問題を立てることがどのように有効なのか、あるいはそうではないのか、そして、有効だとすれなこの定義はどうか、というところから考える必要があるのだろう。

 この新書という限られたスペースの中は、この定義はほとんど所与のものとして記載され、定義についての説明はされていないように感じた。さらに、なぜ、そのように問題を立てるのかということについても読みとるのはぼくには容易ではなかった、っていうかいまだによくかわっていないようにも感じる。

 できれば、明快にこのように問題を立てることで見えてくることな何かということを書いてほしかったし、もう少し単純な定義もできるのではないかと思うのだが、どうなのだろう。

 定義についていえば、どうしてこの5項目が必要なのだろう。たとえば、「犠牲者が構造的に存在するようなシステム」というような定義で十分ではないだろうか。

 時間があれば、高橋さんにはそのあたりのことも聞いてみたいが、5月5日は無理かもしれない。(偶然、いっしょにご飯を食べる機会があって、少し聞いたけど、ここは聞き漏らしたなぁ)

そして、印象に残ったのが2009年に佐藤栄佐久前福島県知事が書いた「知事抹殺」からの引用。
責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本型社会の中で、お互いの顔を見合わせながら、レミングのように破局に向かって全力で走りきる決意でも固めたように思える。つい60年ほど前、大義も勝ち目もない戦争に突き進んでいったように。 32p
高橋さんはここに311が"予描”されているように思う、と書く。

追記
ちなみにレミングが集団自殺するというのは事実ではないらしい。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/Page14.html によると
「集団自殺」というのが適当かどうかは疑わしいが、大発生した個体が集団で移動し、大量の個体が死亡するというのは事実
 とのこと


第2章は、「犠牲のシステムとしての原発、再論」として、このシステムを「少し詳しく考察」40pしたもの。

その冒頭で
原発は日本国家の犠牲のシステムとして「ヤスクニ」と通底するような犠牲のシステムだと書かれている。

そして、4つの観点からその犠牲が描かれている。

犠牲のシステムとしての原発

第一の犠牲は苛酷事故
第二の犠牲は被爆労働者
第三の犠牲はウラン採掘
第四の犠牲は放射性廃棄物

第一の犠牲は苛酷事故
避難と故郷を喪失してしまうかもしれないという犠牲。
被曝の不安。
放射線量が高いにもかかわらず避難指示が出されなかった地域の問題。

避難指示を出すと莫大な社会的コストがかかるので出されなかった、というのが高橋さんの見立てだ。その避難指示の範囲を決めるに当たって、誰がどのように決断したのかということももっと検証される必要があるのだろう。その無責任のシステムを克服していくためにも。

さらに地元の産業への打撃。さらには「風評被害」。福島から来たというだけで「放射能が移る」と公園でいわれたり、実際にホテルに泊めてもらえなかったり、農産物は測定して、311前と同じレベルの放射線量であるにもかかわらず買ってもらえなかったりする。

しかし、農産物の問題は単純ではない。実際に全量を検査するのは無理であり、同じ福島県でもまったく安全な地域もあれば、やはり比較的に線量が高いが抜き取り検査で国の基準(かなり甘いのではないかと思える)以下なので流通が許される場合もある。そして、福島県産というだけで価格が下がるので産地の偽装も起こる可能性が否定できない。

放射線量がほぼ311以前と同じような地域での問題は食べ物からの内部被曝だといわれているからこそ、この問題はより重大な問題となる。

どこまでが風評被害でどこからが風評被害でないかというのは本当に微妙な問題だ。そういう状況があるから、高橋さんは風評被害に鍵括弧をつけて表記しているのだろう。

そして、現実に原発事故があったので、価格が下がったり、売れなかったりするわけで、「風評被害」だから補償されないというのも問題への対応も検討されなければならないだろう。

また、57ー58pで紹介されているように原発は「低人口地帯」に作られなければならないという立地審査基準は、事故後にちょっと考えたら、非常に差別的なものだということが明白になった。

第二の犠牲は被爆労働者

危険な被曝を覚悟して収束作業にかかわらざるを得ない労働者が存在し、その人たちが賞賛されることを、高橋さんは「戦前・戦中の靖国のシステムと同質の犠牲の論理が現れているように思う」と書く。戦争で倒れた日本軍兵士を「英霊」とたたえることで「遺族を心理的に慰撫するだけでなく、国民を戦争に動員し、戦死者を出し続ける国家指導者の責任への問いかけを封じる役割を果たした」という論理だ。

被曝労働者について、確かにそういう側面もあるかもしれないとは思う。しかし、現実はそうなっていないのではないか。ほとんどの労働者が何重もの下請け構造の中でとても安く、教育もほとんどないまま働かされ、彼らが尊敬されるなどということは現実にはほとんどない。誰かがやらなければならない危険な収束作業に関わっている彼らがせめて、尊敬されるべきではないかとさえ思う。もちろん、下請けでのマージンを抜くようなことは認められないはずだ。

その実体はこの本でも紹介されているのだが。

しかし、まさに、ここで収束作業を通して、責任をとるべき人々が存在するはずだ。それは、これまで安全だといい、これからも原発をもっと作るべきだと主張している人々だ。彼らこそが率先して事故の収束のための具体的な作業にあたるべきだろう。それができないのであれば、原発の再稼働が必要などという議論はありえない、と言えるかもしれない。 
 そういう議論の立て方があるのではないかと、この本を読んでいて思った。

高橋さんの表現を借りれば「電力会社や原発関連企業の幹部、中央政府の政治家・官僚、原子力委員会や原子力安全委員会に名を連ねてきた学者・専門家、要するに事故の収束に最大の責任を負う人々」(62p)こそが、具体的に不可避の被曝を含む収束作業にあたるべきではないか。そのようなリスクの指摘を退けて推進してきたのだから。さらに、その中でもこれからも原発を維持して、推進すべきという立場の人たちが、その作業に当たるべきだろう。その責任の重さと具体的な収束作業に入る順番は比例させるべきではないだろうか。

また、原発労働者の被曝限度について書かれている。
5年で100ミリという基準が2.5倍も緩和されている。(当初は5倍緩和する話もあったということも)。そして、この基準より低い被曝で労災認定基準が厳しすぎるためにその数はたった10名なのだが、そのうち9名は100ミリ以下の被曝で発病している。
それに関して、「政府によって見捨てられた」と高橋さんは書く。しかし、本当に100ミリという基準で収束作業が可能だったのかどうか、わからないし、この収束作業に志願のシステムがいいのか、責任のある者からあたらせるのがいいのか、わからない。
志願のシステムを導入すれば、著者が心配するように収束作業にあたる人が「英霊」のように扱われることになるだろう。

ただ、ここでの高橋さんの記述で、よくわからないことがある。誰かが収束作業に従事しなければ、事故は収束しない、そこで責任のある人々がいる、というところまでは理解できるのだが、どのような仕組みでそれが可能になるだろうか。

従来の基準でも労災認定がでているなかで、基準をさらに厳しくして、多くの労働者を投入して収束作業が可能でなのであれば、まず、いますぐにそうすべきだろう。

確かに「原子力ムラ」の住人から、優先的に収束作業にあたるようにすれば、最大限の努力でその作業にあたる人間の被曝量を減らす努力がなされるかもしれない。問題はそれがどのように可能なのかだ。


第三の犠牲はウラン採掘

ここでは先住民がそれにあたっているという話がさらっとでてきて、戦時中に福島県でも旧制中学の生徒がその作業にあたっていたということだけがあっさり書かれている。


第四の犠牲は放射性廃棄物

ここでは、モンゴルへの廃棄計画が消えたことが記載されているが、本当に消えたといえるかどうかは不明だ。




ともあれ、これら4つの点からも犠牲のシステムが存在を確認し、311以降は「脱原発」社会をめざすべきだという。
そして、「原発震災」で今回の事故を予言していた石橋克彦氏の戦前日本が「軍国主義」国家であったちすれば、戦後の日本は「原発主義」国家だという説を援用する。莫大な国費を導入し、軍国主義国家が不敗神話をつくり上げたように、原発主義国家は安全神話をつくりあげ、一切の異論を排除して大本営発表で国民を欺き続け破綻したという点でよく似ていると。

そして、著者の言葉では軍国主義とはヤスクニという犠牲のシステムであり、原発主義とは原発という犠牲のシステムであるという。72p

そこから3・11は第二の敗戦であるとする。そして、国体護持のために捨て石にされたのが沖縄であり、第二の敗戦で捨て石にされ用としているのが福島ではないかと。

さらに戦争で国体護持のために捨て石にされ、さらに戦後は日米安保という犠牲のシステムの中で犠牲にされたのが沖縄であり、原発の地方への押しつけと、沖縄への基地の押しつけのやり口がよく似ているとする。

そして、そこには違いがあるのだが、両者は植民地主義という言葉で説明できるとする。73-74p


87pからの節では、今回の事故の責任を負う集団を責任に応じて腑分けする。

その責任は第一義的には「原子力ムラ」にあるとする。
それを「政治家・官僚」、「学者・専門家」に関して記述している。とりわけ専門家に関して、児玉龍彦氏を援用している部分が興味深かった。彼は「内部被曝の真実」のなかで、以下のように書いている。
今までの原子力学会や原子力政策のすべての失敗は、専門家が専門家の矜持を捨てたことにあります。国民に本当のことを言う前に政治家になってしまった。経済人になってしまった。92p


また、著者は山下俊一氏の発言に関して、専門家のあいだでも意見が分かれており、専門的見地から判断はできないとしながらも、彼がずっと100ミリまで大丈夫と言ってきたのに、政府が20ミリと言った途端に、「国民として政府の決めたことに従う義務があるから、それに従います」と発言したことを非難する。95-96p

114pからの節では内村鑑三の天誅論が俎上にあげられる。
高橋さんはそこに「罪があったからこそ罰せられるという構造になっている」129pという。そして、次のページでは犠牲にされたイエスにも言及する。イエスは人類の罪を背負って、犠牲になったとするのだが、人類の罪を背負うとか、彼に罪があったという話になるのかどうか、そこがわからない。

さらに高橋さんは内村の「非戦主義者の戦死」130pを紹介する。高橋さんはどうしてこの人たちだけが負わなければならないのか、と書くのだが、だとすれば、どうしてイエスだけが負わなければならないのかという議論にもなるのではないだろうか。

それに続く138pからの永井隆の長崎の浦上天主堂の被曝の議論についても同様の疑問が残る。

ただ、それらの議論が原爆を使用したもの、あるいは原爆を使用させる状況を防げたのに防がなかったものの責任を封じてしまう役割を果たしかねない143pという点については、理解できないわけではない。とはいうものの、それは別の話として議論することも可能なのではないかとも思える。

そして、149pの震災にこじつける必要はないという議論は同意できる。それだけ言っていればいいようにも思う。





そして、第2部の沖縄の話に入る。

まず、四章は「植民地」としての沖縄

普天間の移設問題から歴史問題を経て、寺崎メモの話になる。
ここから高橋さんは天皇の責任の明確を語る。

また、野村浩也さんの「無意識の植民地主義」でのヤマトへの厳しい問いかけが引用される。

「沖縄だーい好き」「だったら基地ぐらいもって帰れるだろう」というような。

重要な視点だと思うのだが、基地をヤマト側に持ってくるという話について、本当にその問題の立て方でいいのか、なかなか納得できないということは、前にラミスさんとのやりとりで書いた。それが実際に沖縄の負担を減らす方策になるのであれば、(国内)県外移転は本気で考えられなければならないだろう。

しかし、「沖縄からヤマトへの基地機能の移転=沖縄の負担軽減」という式が成立する前提が存在するはず。その前提は何か、そしてそれは成立するのか。

基地機能のヤマトへの移転が、本来は日米安保も自衛隊もなくすという方向のなかでの、過渡的で一時的な負担として、ということであれば納得できなくはないような気がするが、その道筋はどのように可能になるのか、なかなか見えてはこない。沖縄の負担も減らず、ただヤマトの米軍基地が増えて、機能が強化され、沖縄とヤマトの差が縮まったということになったとしたら、それでもそれは望むべきことなのだろうか。

当面、安保はなくならないのだから、犠牲の固定化を壊すためにヤマトへの移転が必要だという議論についてはまたにして、次に続けよう。

そして五章は「沖縄に照射される福島」

植民地主義に苦しめられる「植民地」としての沖縄と福島という風に高橋さんは問題をたてるのだが、その違いもまた指摘する。(196ー7p)

自治体が望んで誘致した原発と米軍と日本政府に押しつけられただけの沖縄。

このように無視できない違いがあるのだが、そこには類似した植民地支配関係があり、そのように見ることで浮かび上がってくるものがあるという。198p

1、そこには構造的な差別があり(198p)
2、交付金、補助金による利益誘導があり(199-204p)
   ここでは田舎を切り捨てててきた、近代化の運動そのものを問い直すことが求められている。巨大で困難な課題ではあるが。
3、それを隠蔽するための神話が必要とされてきた。(205-216p)
   抑止力論という神話と安全神話
   そして、民主主義という神話という提起がなされる。

 ここでも野村浩也さんが援用される。高橋さんは野村さんが「無意識の植民地主義」で「多数決原理が採用されている以上、沖縄人の意志が踏みにじられるのは最初からあきらかなのだ」「民主主義と植民地主義はけっして矛盾しない」「植民地主義はその内部に民主主義を含んでいる。現代の植民地主義は民主主義的植民地主義なのだ」と書いている部分を肯定的に援用するのだが、果たして、このような地元を無視した多数の横暴を「民主主義」と呼んでいいのだろうか。

 多数決原理と多数派の横暴とは別物でなければならないのではないかと思う。多数決原理を多数の横暴を許す武器としてではなく、少数者の生きる権利を保障するものとして定義し直すことが必要なのではないか、あるいはすでの多数決原理をそのようなものとして捉えている人はいるのではないかと思うのだが、どうなのだろう。

 そして、何よりも「私たちのことを私たち抜きで決めるな」という原則が大切にされなければならないと思う。植民地と民主主義をいっしょにして、ゴミ箱に捨てる前に、本当の民主主義を奪え返すロジックが必要なのではないだろうか。

 さらに高橋さんは久間元防衛大臣の「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る」というロジックを批判する。(211p)これがどんな文脈で出された発言かわからないので、これへのコメントは躊躇したい気もするし、嫌いな奴だし、彼の「原爆投下はしょうがなかった」という発言も許せないのだが、90人か10人かという選択は可能性としてはありえるかも、と一瞬思った。でも、そこに遅し穴がある。実際にはちゃんと費用さえかければ、10人も救えることが多いのではないか。その可能性を捨てて、犠牲のシステムに安住するようなところが許せないのだ。犠牲を生まないシステムをどう作るかが問われている。

 そして、この本の最後の節は「犠牲なき社会は可能か」という問いになる。この節のなかで高橋さんは植民地主義的差別が肯定できないのだから、基地も原発もすべての県で平等に負担すべきだということになる、と書いているので、待てよ、と思うが、そのすぐ先で、誰も引き受ける覚悟がないのだから、国策を変えるしかないく、「そういう政治的選択は可能だし、それをめざしていく必要があると私は思う」と、この本は終わる。

 これは正直、少し物足りなかった。それが間違っているというわけではない。しかし、ヤマトの運動が国策を変えるべきだといいながら、結果として現状が固定化されている状況に沖縄はもう許せないと言っているからだ。犠牲のシステムを越えていくために、もちろん国策を変えなければならないし、それが不可能だとは思わない。しかし、それはすぐにではない。この状況のなかで、ヤマト側の運動が何を主張するかが問われているのだ。ぼくにも結論はない。しかし、このままではいけないと思う。沖縄に関して言えば、負担を減らすために何ができるのかが本当に具体的に問われている。ここまでしか言えないぼくも、物足りなさは高橋さんと変わらないだろうなぁとも思う。

それにしても、この間、二度ほど話をさせてもらって(ちょっとだけだけど)、高橋さんは真摯な人だなぁと思う。もう少し「ガハハ」とか笑ってもいいのになぁとも思うんだが、そのあたりは個性なんだろうな、と思った。購入したコ・サミヨンとの対談本もこれから読んでみようと思っている。


あえて「犠牲のシステム」と呼ぶことで何がみえてくるだろう。メモの最後にこの問いへの答えを少しだけ考えてみた。

そのように考えると、そこに「犠牲にしている人たち」と「犠牲にされている人たち」の存在が可視化されるというような効果はあるかもしれない。差別とか植民地主義とかいうよりも。
いまのところ、それくらいしか思い浮かばないなぁ。



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