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zoom RSS 「さらさらさん」大野更紗著 メモ

<<   作成日時 : 2013/05/26 13:45   >>

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まず目に付くのは、小口に見える印刷。右からずらすのと、左からずらすので絵柄が変わる。 印刷屋として、これは気になる。

DTPはプログラムを作ったのだろうか、それとも手で張り込んでいったのだろうか。 製本も気を使っただろうなぁ。 折りも丁合いもずれが許されない。

DTP,製本それぞれに、腕の見せ所ではあるんだが、呪いたくなるようなオーダーだなぁ、と印刷屋としては、まずそれが気になったのだ。でも、工場の責任者、DTP部門、生産管理部門、製本部門、それぞれの責任者に見せずにはいられなかった。

編集者のアイデアなのか、大野さんのアイデアなのか、それともデザイナー?・・・?

中身は、この間、大野さんが書いたものの、寄せ集め。

以下、気になったこと。

糸井さんとの対談で、大野さんは以下のように言う
・・・。社会が動き、数多くの不条理が発生しているときに、価値概念をまず最初に導入してくることはいちばんまずいなぁと思っています。
 そのとき起きたことや発言に対して、「正義か悪か」「良いか悪いか」、みたいな話に終始する。それでみんな論争し、紛争するわけです。具体的にどう対処するか、の手前で思考が止まってしまう。・・・41-42p
 ここ難しいなぁと思う。やはり不条理な事態に遭遇したら、まず「これって、おかしいだろ」って感じるんじゃないのかなぁ。それって、やはり価値概念だと思う。問題はその次のステップをどうするかってことで、「価値概念を最初に導入すること」ではないように思う。
 大野さんが書いているように、その話に終始しててもしょうがないんだけど、まず、「おかしいだろ、これ」って感じて、その理由も考える。で、どうしたら、いいのか、どうしたら、その不条理が少しでも小さくできるのかっていう順番で考えていくんじゃないかなぁ。そこまで、行き着かないで、「良いか悪いか」に終始しがちって話は理解できるし、そこが問題だと思うんだが、とりあえずの価値判断って誰でもしちゃうんじゃないかと思うし、それが悪いことだとは思わないなぁ。

で、大野さんはこの次に寅さんの話をもってきて、『あの「なし崩し」の解決の作法には憧れます』という。確かにそれは庶民の知恵ではあると思うし、ぼくもけっこうなし崩しは嫌いじゃないんだけど、それでも筋を通さなくちゃいけないこともあって、要はそのバランスをどこでとるかって話だと思うな。

で、大野さんも宮本太郎さんとの対談、とかでは「筋を通す」話をしてると思う。ま、そうしないと「実も取れない」っていう話でもあるんだけど。

ただ、あっち側とこっち側の力関係は厳然と存在しているわけで、実を取るために筋を曲げることはあるだろう。そんなときに大事なことは、自分がそんな風に「実を取るために筋を曲げてる」ってことをちゃんと自覚することだと思う。そこを忘れると、「なし崩し」はほんとうにグズグズになっていってしまう危険があるのだと思う。


で、糸井さんは大野さんの「困ってる人」を評価して、以下のようにいう。
「叫ぶのではなく、仕組みのことで困ったね、という話にしようよ、さて、どうしましょうか」という、あたり前のことを実現してしまった。
ここでも、「でもね」って思うんだが、まず、大野さん「困ってるよ」って叫んでる部分も少なくなくて、それはそれとして、すごく大事なことだと思う。
まず、困ってることを困ってると叫ぶ、そこから始まるんじゃないかなぁ。
で、「権力を取らずに世界を変える」っていう本で、そんなことが書いてあったと思って、ブログで探す。あるんだよね、これが。

以下にちょっと長いけど引用

http://tu-ta.at.webry.info/200705/article_17.html

始まりは叫び。私たちは叫ぶ

 書いたり、読んだりするとき、その始まりが言葉ではなく、叫びだってことは忘れられがちだ。

 省察の出発点は「反対」「否定」「闘争」。思想は激情から生まれるのであって、理性とか、存在の神秘について椅子にもたれかかって理性的に判断するとかいうような、伝統的な「考える人」のイメージから生まれるわけじゃない。

 私たちは否定から、そして、不協和音からはじめよう。不協和音はいろんなあらわれかたをする。あいまいな内容のないつぶやき。フラストレーションの涙、激怒の叫び、・・・。

 不協和音は経験からきている。その経験にこそ価値がある。時にそれは工場での搾取だったり、家庭内での抑圧だったり、事務所内でのストレスだったり、飢えや貧困だったり、国家による暴力や差別だったり、そういうの直接的な経験。あるいは時には、テレビや新聞を通したあまり直接的ではない経験で、それらが激しい感情をひきおこす。

 ・・・

 たぶん、怒りを生むそれらのことは、個々別々の現象ではないと感じる。それぞれ関係しあってる。

the world is askew
世界は歪んでいる。

何かすごく恐ろしい経験にであったとき、その怖れに対して無力になって、言うんだ。「ありえない。これが本当だなんてありえない。でも、本当だってことは知ってる。本当でない世界の本当だってことを。」

本当の世界は何に似てる?あいまいなイメージはあるよね。こんな風になってほしい。世界は公正で、人は人としてお互いにつながる、人じゃない物事としてつながるんじゃなくて。そして、その世界では自分の「生」を生きる。でも、いまある世界に何か根本的な悪があるってことを感じるために、本当の世界は何かっていうような絵は必要ないよね。世界が悪いって感じることは、必ずしもそこにユートピアのの絵を置くことじゃない。また「王子様がいつか来てくれる」っていうようなロマンチックな話でもない。どいうことかっていうと、いまはひどい状況だけど、ある日、本当の世界とか、約束の地だとか、ハッピーエンドがやってくるってことを必ずしも意味しないってことだ。現状のひどいと感じてる世界が廃棄されて、ハッピーエンドになるっていう約束は必要ない。
 これがぼくたちの出発点:ぼくたちがひどいって感じる世界の拒否。ぼくたちが否定されてるって感じてる世界を否定すること。これがぼくたちがこだわりつづけないくちゃいけないことだ。



そして、続きもある。

http://tu-ta.at.webry.info/200705/article_18.html


「こだわること」、実際、ぼくたちの「こうじゃないという思い」が抑圧されたり、叫びを押しこめられたりすることは多い。怒りは経験からくるんだけど、その表現は真綿で絞め殺されがちだ。それはまったくもって理性的であるかのような議論にぶちあたる。ぼくたちの叫びはいろんなやりかたで、たらいまわしにされる。見つめられ、どうして叫んでるのか聞かれる。歳のせい?社会的な背景のせい?ぼくたちがこんなにネガティブだっていう心理学的な不適合だから?それともよく寝付けないから?じゃなかったら、生理で機嫌が悪いから?ぼくたちは世界の複雑さを理解してないの?根本的な変革が実際にはとても難しいってことを理解してないの?叫ぶことは科学的じゃないってことがわかってないの?

 それで、社会や社会的政治的理論を勉強しろっていわれる(ぼくたちもそれが必要だって感じる)。そこで不思議なことがおこるわけだ。勉強すればするほど、「こうじゃない」っていう思いは消えていったり、見当違いだったかなって思えたりしてくる。アカデミックな「ものいい」の中では「叫ぶこと」の余地はない。それ以上に:アカデミックな勉強で言語や思考の方法が身に付くんだけれども、それで叫べなくなったりする。叫び、もしそれがちゃんと出せるのなら、説明できるなにかとして表れるけれども、分節化できるなにかとして、表れるわけじゃない。叫び、社会についての問いかけの主体だったのに、分析の対象にされてしまう。「ぼくたち」が叫んでいる「それ」はどうしてだろう。いや、むしろ私たちはいまや社会科学者として、「彼ら」が叫ぶ「それ」はどうして、と問うようになる。どのようにわたしたちは社会的な反逆や不満を説明できるのか?叫び、それはそのコンテキストの中で分解されてしまうことで、システマティックに不適当なものとみなされることになる。だって、叫ぶなんてこどもっぽいことだから。だって、近代的な主体概念とは適合しないから、だってそれは、不健康なダイエットだから、だってそれは家族っていう構造を弱めちゃうから。そういう説明はすべて、戦略的に研究によってサポートされることで、バックアップされるわけだ。叫びは全面的に否定されるわけじゃないけど、それが正当だってことは奪い取られてしまう。


ここの部分、そのまんま大野さん(ここは糸井さんか)への反論になるかなぁ。
ちなみに、このブログにも書いたけど、ぼくが勝手に訳した文章だから、原典に対する正確さはま〜ったく保証しません。「超思い込み訳」





この本に戻ろう。
48pで大野さんは(モチベーションとしての)「人への健全な好奇心」を語り、糸井さんに大いに受ける。確かに好奇心はぼくのエンジンでもある。しかし、ぼくの好奇心は健全なものばかりじゃないところが問題だなぁ。


このすぐあとで、大野さんが「最初に突破しちゃったら。それにあわせるしかない」って話をして、糸井さんが『「事実婚」ってやつですね』と答える。
ぼくもそれは嫌いじゃないっていうか、・・・なんだが、それに対して、世の中はそんなにやさしくない面も多いぞ、っていいたい気分もあるなぁ。


54pでは糸井さんは学生運動の時代のことに少し触れている。他でもこのことについて、書いてるかどうかぼくは知らないけど、少なくともぼくは知らなかった。糸井さんが作ったアジビラ見てみたいな。

そういえば、ぼくも昔、ビラとか何回か書いたけど、何も残ってない。


71pで糸井さんは「人は誰でもおしゃべりが好き」って書く。そうかなぁと思う。


古市くんとの対談で、
89pにはラポールと質的調査の話がでてきて、古市くんが慶応で博士論文を書いた友人に言及する。これはKくんのことみたいだ。
ところで、インタビューをするためには最低の信頼関係が必要だと思うのだが、それはラポールとは呼ばないのだろうか、と思った。

91pではグローバリゼーションや資本主義を批判していた指導教官が一度も就職したことがないとして、次のページで『批判はするべきだと思うんですけど、最後は結局「打倒国家」みたいなことを言えば済む』って大野さんが書いてたと思うのだけど、村井さんはもう少し丁寧な話も書いてたし、話してたと思うぞ。あっ、これ、村井さんの話じゃないのかなぁ?

また、この92pではこの本に収録されてる宮本さんとの対談の印象評価がある。宮本さんのリアリティと大野さんのリアリティ、どちらもリアリティを根拠に話しているけれども、すれ違うところが面白いとぼくは感じたんだけど、・・・。


93-4pにかけては、少しだけ開沼さんの評価がでてくる。ふたりともとても肯定的に評価していて、批判する人を批判しているのだが、二人は例えば松井さんの
『反「反原発」論!?─「リアリティ」の内実について』
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=138
を読んだのかなぁと思う。
そのあたりにも、もう少しつっこんだ評価が聞きたいところ。

ちなみに、「松井さんの書評を掲載するにあたって」
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/blog1/index.php?content_id=20
といような文章もあるので、よろしく。

ちなみに開沼さんの「フクシマ論」の書評は340p〜からも独立の書評として掲載されている。持ち上げるだけ持ち上げている感じだが、もう少し突っ込みどころについても触れて欲しいと思う。


で、113pにある古市くんの発言、自分でも『「今時の若者」的ですよね(笑)』と評価していて、興味深かったのが以下。こういうのあんまり好きじゃないけど。
(posseの川村さんに)「がんばってください」とか「協力できることがあれば言ってください」ぐらいしか言えない。大野さんに対しても、「どうか、この社会で生き抜いてください」という以上のことは言えない。こうやってお互いを批判するんじゃなくて、それぞれの領域でそれぞれができることをやっていることを尊重し合う、というのはある意味「今時の若者」的ですよね(笑)。

お互いに批判するっていうのを忌避してしまうこういうありかた、古市くんは冗談めかしていっているけれども、そういう傾向は確かにあると思う。いつも書くのだけれども、批判は批判として大切なはずなのに、なかなかそれがされない。

というのは、相手の立場や考え方を尊重しながら批判するという作風ができていないからだと思う。批判しつつ、相手へのリスペクトを忘れないということが大事のであって、批判しないというのは違うと思うが、ま、それも強制できなけど。

posseの問題はいくつかWeb上でも書かれていたりするが、実際のところ、どうなのか、ぼくは知らない。



174pでの中島さんとの対談のページだが、そこで中島さんは笑いは重要だけれども、それを相対化することもとても大切だという。「笑い」が「嗤い」になってしまっているのではないかと。この観点もけっこう大事な話だなぁ。


書評『あなた自身の社会』134p。スウェーデンの中学生の社会科の教科書とのこと。これはちょっと読んでみたくなった。


現代思想2013年1月号に掲載された「うちゅうじんるいがく」。大野さんは「座標軸を失った自分自身を表現するのにしっくりくるので時々使う」として、このコラムの結語で『「うちゅうじん」の当面の仕事は、普遍主義的サービスを構想し現実化してゆくことであろう。・・・増税も含めた社会的コンセンサスを得るということが「うちゅうじん」の目下最大の宿題である』と書く。
この政治不信のいきついた社会の中で、本当に厳しいプロジェクトだと思う。


あと、「おわりに」の前に掲載されているのが、映画「季節、めぐり それぞれの居場所」の公式パンフレットに掲載された文章。ここに、最近こだわっている「コンパッション」の話がでてくる。フレデリック・ワイズマンが自らの映像作品について述べた話として。
わたしは映画を通して、コンパッション(compassion =受苦をともにすること、深い思いやり)を表現しようとしている。しかしそれと、誰かの側に立つことは違う。
"Well, I try show compassion, but there's a difference between being compassionate and taking side"


 コンパッションとともにコンヴィヴィアルであることも大事だと思う。


それにしても、大野さん、糸井さんとの対談でかっこ良さの基準は「必死さ」と書いてる。ぼくみたいにふざけてる奴は嫌われるんだろうなぁと思う。


だけど、なるべく嫌われないように一つだけ言い訳すると、これでも必死に必死さを隠してるんですよ。あんまり他人は信用してくれないんですが・・・。

で、大野さん本人はもう少し休んだりしたらいいんじゃないかなぁと思ってしまうんだけどなぁ・・・必死さの足りないオヤジとして。


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『3.11を心に刻んで』メモ
川本隆史さんが原爆原発講座 http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open/index.php?content_id=12 で、この本のこうの史代さんの文章を引用していたので、前後が読んでみたくて、借りて読んだ。赤坂さんの「ナウシカの予言」http://tu-ta.at.webry.info/201111/article_3.html もこの本に収録されている。28-29p ...続きを見る
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2013/07/30 04:36

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