今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 『漂白される社会』開沼博著 メモ

<<   作成日時 : 2013/06/13 05:41   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

彼の「フクシマ」めぐるアプローチに実は、もううんざりしているのだが、なぜかその仕事から目が離せない。
ま、これは中核派を扱ったと思われる第9章への記述にひかれて、読み始めたのだが・・・。


読書メーターに書いたものから。
〜〜〜
開沼さんの最近の福島に関するコメント、ちょっと違うと感じるところが多いのだけれども、(例えばここからのリンク http://www.peoples-plan.org/jp/modules/blog1/index.php?content_id=20 )。このあたりが彼の出発点なのかと思った。

序章で網野さんの「無縁」の肯定的評価を紹介する。そして、網野さんが「無縁」の世界が減少し、縁切り寺などの「残余」が見られるだけになったとしたうえで、その後の歴史ではどうなったのかと問う。15p

開沼さんの問題意識は、その「無縁」の世界はもっと減少していくのだがそれでも形を変えながら細々と強かに存在してきたのではないか、というもの。この本が扱うのは、その「無縁」の原理が、現代社会において貫かれた存在。16-18p
〜〜〜〜


そういえば、網野「無縁論」については http://tu-ta.at.webry.info/200911/article_4.html で前書きの読書メモだけ書いて、終わっていた。ここで、開沼さんが『無縁・公界・楽』から引用している部分は大事だと思うので、孫引きしておこう。
・・・文学・芸能・美術、宗教等々、人の魂をゆるがす文化は、みな、この「無縁」の場に生れ、「無縁」の人々によって担われているといってもよかろう。…原始のかなたから生きつづけてきた「無縁」の原理、その世界の生命力は、まさしく「雑草」のように強靭であり、また「幼な子の魂」の如く、永遠である。「有主」の激しい大波に洗われ、瀕死の状況にたちいたったと思われても、それはまた青々とした芽ぶきをみせるのである。日本の人民生活に真に根ざした「無縁」の思想は、失うべきものは「有主」の鉄鎖しかもたない、現代の「無縁」の人々によって、そこから必ず創造されるであろう。(増補版、250p)

これを引用する前に開沼さんは【網野は極端と言っていいほどに「無縁」を評する】と書いている。13p

序章の終わり近くで、以下のようにも書かれる。
「周縁的な存在」を「無縁」で位置づけるだけで問いの設定を終えてしまっては"過不足”も生れるだろう。そこで最後に、社会学的に備えるべき観点を提示し、序章を閉じよう。
として、「フラット」という概念を紹介する。「フラット・カルチャー」という本に書かれているその定義を引用した上で、それにそって、「周縁的な存在」の現代性を捉える際に、以下の3点に注目する必要があるだろうと書く。
1、これまでに存在してきた価値ヒエラルヒーの崩壊。
2、独立的(と言ってしまえば聞こえは良いが)=閉鎖的(内向的で外からは不可視的)な集団群のあり様。
3、その背景にある歴史的な連続性からの断絶。


そして、「ここから旅が始まる」として、その後の記述を要約する。18-20p

その要約を終え、序章の最後には以下のように書く。
終点を迎え、・・・車窓の先に広がる風景から目を外した時、そこにある社会は、確実に以前と違ってみえるようにあるだろう。それは認知の不協和がもたらす違和感でもあり、社会のあらゆる存在のリアリティを掴み始めた満足感でもあるに違いない。
う〜ん、すごい自信だ。ちょっと過剰じゃないかなぁ。



1章は「売春島」に関する記述。
その紹介の最後のほうで開沼さんは芦浜原発の反対運動を紹介し、それと「売春」でなりわいをたてるこの島を比較する。
 他人の嫌がる「毒」を食らい続けて生きながらえるか、それを拒否して死に絶えるのか――。

(この単純化は強引かもしれないが、と書きつつも)

【その「毒」を拒否した先に生きながらえる手段を作り出そうとする者は、どれだけいるのだろうか】

と否定的に書く。しかし、こここそ、開沼さんが現地を取材して見なければならないところだったのではないかと思うのだ。確かにそれは見つけにくいかもしれないし、なぐさめの、まやかしの希望につながってしまうかもしれない。しかし、それでも、一筋の光を探したいし、探して欲しいと思うのは、リアリティの欠如につながるとでも思っているのかなぁ、と感じた。

この章の結語で開沼さんは以下のように書く。
 大きな歴史には残らないような人々、一時的に誰かが取り上げても風化し忘却されてしまうような生活のあり方。陰影にまぎれ去る小さき者たち。

 本書が捉えるのはそのような対象であり、その先にこそ、現代社会のあり様を見通す道筋が見えるはずだ
ここもすごい自信だなぁと思った。



4章は「グレー」な生活保護受給者に関する記述。
そこに群がる貧困ビジネス。生活保護を減らそうとする法律が審議されている現在、非常に微妙な問題でもある。
ここに着目して、規制を強めれば、犠牲者が出ることは明らかだ。

現在、生活保護に関する二つの法律が審議されている。簡単に言えば、ひとつは扶養義務を強化し、窓口で受給しにくくするような法律、もう一つは生活保護の手前のセーフティネットを強化しようとするもの。

反貧困の社会運動からは、この両方がセットだから、両方とも廃案にという主張が声高に語られているのだが、ほんとうにそれでいいのかなぁという疑念がどうしても消えない。

確かに正論である部分も少なくないと思うのだけれども。


で、読みたかった新左翼を扱う9章
Aとは中核派のことだろう。
そして、クリーンなNPOのという273p〜記述はPで始まる雑誌を出しているグループだと思う。
Webなどの情報でしか知らないので、こっちの革マル派となんとか派の複雑そうな党派関係についてはパス。

ともかくそのAなどに関して、そこに惹かれる者があるのも理解できると開沼さんは書くのだが(276p)、長く社会運動にかかわってきた人間からすれば、その社会運動の利益よりも党派の利益を優先し、内ゲバに関しても何の反省もしていない姿は醜悪にしか見えないのだが、・・・。


281pの写真のキャプションは間違いだろう。本文にも岩山鉄塔は撤去されたとあるのだが・・・、よくわからない。これ、横堀の鉄塔のようにも見えるが、ぼくの勘違いかもしれない。



いろいろ飛ばして、終章「漂白される社会」

終章で開沼さんは「自由」で「平和」に見える日本社会が「ひとつの方向」に向かっているようだという。その方向とは何かというのが、この終章のテーマとなる。385p

まずはそれを理解する準備が必要だという。ある意味での、これまでの章のわかりやすさが消え、ここではすごくわかりにくいまわりくどい手法が使われる。そんな方向があるのであれば、まず、それを提示してそこからその根拠を示せばいいのに、と思う。その答えはなかなか出てこない。どうして、こんな風にわかりにくい書き方をするのだろと思う。何かアカデミズムはこうしなければいけないというルールでもあるのかと思ってしまう。

そのテーマは387pで提示されるのだが、どうもこの方向というのがくっきりと浮かび上がってこない印象が残る。
 で、その方向だが、彼は自分が『「フクシマ」論』(本の表紙に「震災を経ても社会は何も変わっていない」という主旨が書かれている)や『フクシマの正義』で提示した問題構成が崩れていないどころか、新たな社会の現実をより活発に再生産し続けているとした上で以下のように書く。
「知性的」とされること、そこに追随する人々の語り・眼差しが、何も問題を解決しないどころか、むしろ問題の根本を見失わせ、「なんとなく上から語りたい人」の溜飲を下げることに奉仕するのみで終わる。

 この社会現象は、メディア上の出来事のみにとどまるものではない。むしろ、メディアという社会の一部分を超えて、広く起こりつつある、(当然、限界はあるけれども)ある程度の一般化が可能な社会現象と言える。それこそが本書が見てきた「一つの方向」に他ならない。387p


 ここまでのメモでも何回か書いてきたが、この自信はどこからくるのだろうと思ってしまえる記述だなぁと思う。それでは開沼さん自身の言説は、何か問題の解決に寄与しているだろうか。このまなざしこそを自らに向けて欲しいと思う。

開沼さんがいまも引き続き事故が収束せず、放射性物質を放出し続けている原発事故がもたらした福島の状況を知らないわけはないだろう。そこにはさまざまに深刻な分裂がもたらされている。そして、それをなんとか解きほぐそうと努力している人たちがいる。

ぼくには一連の開沼さんの記述から、そこで何が必要とされているのか、という視点が見えない。開沼さん本人が「社会は何も変わっていない」と信仰するのは自由だ。フクシマ論ではそれが書きたかったらしい。ぼくにはそれが十分にそのように語れているとは思えなかったけれども。

しかし、他ならぬ上からの語りを否定する開沼さん自身が「上から語って」るように思える。

で、この終章、ぼくにはものすごく読みにくい。でも、もう少しがまんしてメモを続けよう。そう、「なんだよこれ」と投げ出したくなるのだが、なんとなくつきあい続けなければ、と思わせる文章でもあるのが不思議なんだが。

本に戻ろう。その方向を提示した後で、開沼さんはいまの社会について、「快との接続可能性が高度化した社会」であるとともに「不快との共存が許容されなくなった社会」でもあるという。388p

そして、この本で描かれたさまざまな事象は「あってはならぬもの」であり、「共存が許されなくなった、不快に思われるもの」だとし、それがなくなれば、快適で便利で安全な生活が送れるように思えるかもしれないし、実際に社会はそうなってきているようにも思える、とした上で「しかし、ほんとうに”それだけ”なのかと問う。389p

当然にも”それだけではない”という答えになるのだろうが、この問いへの答えもまた、なんだかまどろっこしく明確には提示されていないように感じる。

そして、10ページも過ぎたところで、現代社会とはこんな社会だ、という語りになる。
 不安と不信に基づいた無意識的な不快の中で、そこから逃れることを目指す力がアディクショナルに「自由」と「平和」を求め、「自由」で「平和」な社会が用意され……という循環が社会を構築していく。現代社会とはそんな社会であるらしい。399p


そして、480pからまとめに入るとして、「現代社会とは漂白される社会だ」という。
猥雑で偏りをもつ周縁が隔離・固定され、不可視化されることをそう呼ぶのだという。さまざまな意味での「色」が落とされていく。

そして、冒頭の「無縁」の話に戻り、そうだとしたら、文化や生命力も衰えつつある社会ではないか、という話になる。401p

この「漂白される社会」にどのように抗えるのか、あるいはそれが「快適な社会」だとすれば、抗うべきなのか、その答えは新たな「旅」のなかでしか見出せない。この本をそのガイドとして旅にでてほしいという。
そして、自分もその旅を続けたいし、そのガイドも続けたいといのが、この本の結語となる。402-3p

この先に約50p分の注がまとめてある。
413pには網野さんの「無縁・苦界・楽」を軸にした議論が批判に晒された原因についての笠原宏至の説明が紹介されていて、これが簡潔でわかりやすかった。
「『進歩』と『成長』を『文明』の同義語として盲目的(ママ)に信じ込んでいた点では、同じ土俵に立っていた社会と学会に、その土俵そのものの危うさを実感させた」が故だと指摘(413p)


また、433pでは4章の「グレー」な生保の注として、小さく生保の切り詰めへの批判が記載されている。

436pではギャンブルと貧困の話が出てくる。極端に金をもってる人間だけでなく、むしろ極めて貧しい人との結びつきについて触れられているのだが、金持ちはギャンブルにはまっても問題になることが少ないが、貧乏人がはまれば問題が起きるってだけの話じゃないかと思った。

444-6pにかけては社会運動に関する長い注がある。読むべきところはあまりないと思ったが、従来の枠組みを乗り除いて、社会運動論を再構成したいという意欲が書かれている。また、こんな風に悪態をつきながら読むことになるのかなぁと思った。

〜〜〜〜〜
長い読書メモここまで。早く図書館に返さなければいけない。次の人が待ってる。今朝までに返せばいいはず。





テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
『漂白される社会』開沼博著 メモ 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる