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zoom RSS 『学ぶ、向きあう、生きる』(楠原彰著)メモ

<<   作成日時 : 2013/07/01 08:00   >>

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どこかで偶然知って、ツイッターで読んでみようかな、みたいなことをつぶやいたら、いい本だから絶対オススメ、みたいなリプライがあって、読んだこの本。

本当にいろいろ考えさせられた。

まずは一般的な紹介から
http://www.tarojiro.co.jp/product/4979/  から
自分の悲しみや無力さを中心に地球が回っているという「精神の天動説」ではなく、自分自身が世界とともに動いていて、動く世界のなかに存在しているのだという「精神の地動説」に気づくために──。
アジアを歩き、東北の森に間伐に出かけ、マイノリティ(被差別少数者)をはじめとするさまざまな他者たちと教室で出会う。大学に多くの「現場」をつくりだして学生たちを揺さぶり、学びを解きほぐしてきた著者の最終講義。
これだけじゃわからないと思う、この本のこと



目次

プロローグ 「精神の地動説」のほうへ

第1章 わたしの物語、他者の物語、〈みんな〉の物語

1 わたし自身の物語――少年期から青年期の〈危機〉をめぐって
少年時代の〈危機〉――非行
前期青年期の〈危機〉――家の拒絶と自己惑溺
システムの侵蝕力と「生き方の原理」のはざまで
2 「わたし」と他者の物語をわかちあう??大きな「みんなの物語」にあらがって
利光徹との出会い
「わたしの物語」が受容されるということ
「他者の物語」と出会い、変わっていった学生たち

第2章 見えない隣人としてのマイノリティ

1 教室のなかのマイノリティ??見えない隣人と出会う
見えない隣人たち
総合講座「差別とアイデンティティ」
教室のなかのマイノリティ1――セクシュアル・マイノリティ
教室のなかのマイノリティ2――リストカッター
教室のなかのマイノリティ3――在日韓国・朝鮮人
私の隣人――ある難民家族
2 当事者であることを選ぶということ――カミングアウトをめぐる往復書簡
K先生へ
W君へ

3 人間の〈差別〉を考える10のテーマ――若者たちの挑発を受けて
〈1〉私たちの社会は差別・排除によって成り立っている
〈2〉私たち人間はまた、共存・共生を求めてたたかいつづけてきたのも事実である
〈3〉偏見の相互受容から出発する
〈4〉私たちの社会はかぎりなくマイノリティを生みだし、排除したり隔離したりする
〈5〉なかなか見えない、感じられない構造的差別について
〈6〉差別は複合的である
〈7〉差別や偏見はどこから生まれるのか――差別の内と外
〈8〉差別/被差別関係から自由になるということ――それは、まだるっこい日常の出会いのなかで
〈9〉差別とアイデンティティ
〈10〉市民社会がつくりだす新たな排除と差別

第3章 「関係の貧困」「孤絶の文化」から〈現場〉体験へ

1 日本の子ども・若者の自己評価の低さについて??「関係の貧困」と「孤絶の文化」
人生は危機に満ちている??危機を乗り越えるための文化装置
破壊と孤立の文化のなかで
日本の子ども・若者は、いま――〈資料〉の紹介・読み解きとともに
「心的外傷」からの回復
2 学びへの誘いとしての〈現場〉体験??わたしの大学での実践から
読書会の時代(1970年代前半)――学生一人ひとりの経験は固有でみな異なっていた
ワークショップの時代(1980年代)――学生たちとともに身体を他者・世界に向かって開こうと試みる
スタディツアーの時代(1990年代)――アジアの〈現場〉を歩きながら考える
インドツアーの継続と岩手の森での間伐体験(2000年代)――歩きだす若者たちとともに
いま、大学は何をすべきか――学びの動機づけを回復するために

エピローグ 3・11後を生きる



カバーの折り返し部分に書かれているのは以下

学ぶこと、働くこと、心身を癒すことと、
食べること、楽しむこと、祈ること・・・・・・などを
自分(たち)の手に取り戻すこと。

この巨大なシステム社会に
まったく依存しないで生きることは、
容易なことではない。
しかし、片足はシステム社会に、
もう一方の足は比較的に
自由と選択の余地のある等身大の
ネットワーク社会におくことは
できるのではないだろうか。


ほぼ同じ内容が248pにもある。
書かれている順番などは多少違うが。



現代の危機の根源をなす「巨大システム社会」の倫理なき暴走の、少なくとも一端には、全共闘運動にかかわった若者たちが、その運動が提起しようとした課題に「一人の個人として」向きあい続けることができなかったところにあるのではないかと楠原さんは書く。33p

世界各地で68年の闘争はったわけだが、日本だけが特別なのだろうか。



46pでは、以下のように書かれている。
 今日の僕たちの社会はこうした一人ひとりの「わたしの物語」が大切にされている社会だろうか。とりわけ屈折した「わたしの物語」をかかえざるをえなかった子どもや若者たちの物語に、真摯に耳を傾けようとする大人がどれほどいるだろうか。いま大人や社会システムが子どもや若者に吐きかかる言葉は、「自己責任」や「自助努力」である。

 (中略)・・・まず何よりも「わたしの物語」に耳を傾けてくれて、「わたしの物語」をそのまま受けとめてくれる他者と出会わないと、負の物語をポジティヴな物語に反転するきっかけをつかむことができないのだ。


そして、それはいじめる側にもいじめられる側にもこうした人がいるとした上で、以下のように続く。

"グローバルな時代の競争社会に生き抜くための学力を・・・"といった国家や巨大システムの教育の物語を、あたかも「みんなの教育の物語」であるかのように思い込ませながら、一人ひとりの子どもや若者の固有の「わたしの物語」を無化し押し潰し、彼ら/彼女らの生きることと学ぶエネルギーと希望を奪い取って久しいのが僕たちの社会ではないか。  47p



どうしたら、あるいは、どのように、一人ひとりの「わたしの物語」にアクセスできるのだろう。一人ひとりに向き合うゆったりとした時間が必要なのかもしれない。たぶん、すぐに話し出すことなんてできないだろう。もしかしたらそれは教室では かなり難しいかもしれない。でも、一人ひとりが安心して、誰にも否定されずに自分の物語を語れるようなクラスができれば、それはすごく素敵なことだろう。




48pで楠原さんは
「若者たちに接していて一番悲しいというか、もったいないなあと思うことは、自分のなかにある豊かな力(可能性)に気づかない…気づく回路を奪われていること」
だという。

幻想でしかない「みんなの物語」の渦に巻き込まれて、そこから生まれてくるのは「わたしの無力感」。そして、そういった感情がネット上の、そしていまやネットから外にも出てきた排外主義につながるのではないかと楠原さんは示唆する。

そして、ともかくその自分の中にある豊かな力に気づくために、「他者や世界や自然の物語」に出会い、向き合って初めて「わたし」に感じられ、見えてくるという。
そのための場を作るということが楠原さんがやってきたことだと言えるかもしれない。それは東北の里山での間伐だったり、横浜・寿町での識字教室だったりするのだろう。

横浜の識字教室をやってきた大沢敏郎さんの【名著(『生きなおす、ことば――書くことのちから』2003年)を、どうか読んでいただきた】51p と書いている。

さらに【日本の学校教育は一人ひとりの「わたしの物語」を消し去ことに懸命だ】51pという。

この1章の2では「利光徹」という1957年生まれの重度のCP者である他者(マイノリティ)が教室に登場したことによる教室・学生・彼自身の変化が軸になっている。彼に出会って変容した何人もの若者がいるという。そして、そういう他者を日常的に包摂できない大学が何かを喪失している、と書く。

この現実に対して、小さな穴かもしれないが、法政大学の多摩キャンパスの食堂に障害者の就労支援を行う「NPOやまぼうし」が入って、地域に開放したことは面白い試みだと思うし、期待したいと思う。


総合講座「差別とアイデンティティ」の紹介、64p〜
協力してくれた同僚の柴田保之さん。彼の研究の成果(著書)について楠原さんは「衝撃的な作品」と形容している。89p
「みんな言葉を持っていたーー障害の重い人たちの心の世界」

2章の3「人間の〈差別〉を考える10のテーマ」は目次だけで興味深い。
3 人間の〈差別〉を考える10のテーマ――若者たちの挑発を受けて
〈1〉私たちの社会は差別・排除によって成り立っている
〈2〉私たち人間はまた、共存・共生を求めてたたかいつづけてきたのも事実である
〈3〉偏見の相互受容から出発する
〈4〉私たちの社会はかぎりなくマイノリティを生みだし、排除したり隔離したりする
〈5〉なかなか見えない、感じられない構造的差別について
〈6〉差別は複合的である
〈7〉差別や偏見はどこから生まれるのか――差別の内と外
〈8〉差別/被差別関係から自由になるということ――それは、まだるっこい日常の出会いのなかで
〈9〉差別とアイデンティティ
〈10〉市民社会がつくりだす新たな排除と差別


とりわけ3つめの〈偏見の相互受容〉というのが興味深かった。自分も含めて、それぞれが偏見を抱えているという視点、そして、楠原さんはそれに「不寛容に対して、寛容であることは可能か」という問いを接続し、以下のように書く。
 寛容とは互の偏見を含めて、互いの存在(to be)をまず受け入れあうということであろう。他者の攻撃的偏見や無知をまず受け入れることも、自分自身が正しいと信じている意見も偏見ではないかと疑ってみることも、つらい、相当の覚悟がいることである。共生的関係の実現とは、そうしたシンドイ行為・思想によってかろうじて支えられるものなのだろう。115p


それはほんとうにシンドイ行為だと思うが、それでも、そういうことが必要なのかなぁとも思う。たとえば、この本で144pから記載されている在特会。新大久保や鶴橋で差別を振りまく彼や彼女に対する寛容とはなんだろうと思う。彼らに対する安田浩一さん(この本でも引用されている『ネットと愛国』の著者)の視線は寛容な視線だと思う。と同時に差別を振りまく彼らに対して、"No"ということも必要なのだろう。「許せない」「許してはならない」と感じるものとの向き合うことはほんとうに難しい。



118pでは、学校の教育などを通して、
「差別はしてはならないもの」と教えられるが、日常的に差別を生みだしている社会の仕組みの存在を教えられることはめったにない」
と書かれている。この簡潔な話はとても大切な視点だと感じた。そして、差別されている人たちと直接会ったり、あたりまえに交わったりすることが制度的に阻まれている場合が多いという指摘。「養護学校義務化」というのは、その一つだろう。日本に移住してこようとする(あるいはしてきた人)をめぐるさまざまな制度もそうかもしれない。

そんな中で突然、マイノリティと出会って、硬直する身体があり、頭では差別はダメと思っていても体はそのように動かないと指摘される。


〈7〉差別や偏見はどこから生まれるのか――差別の内と外
この冒頭で、
「差別は初めから人間の心のなかに生まれるのではなく、一人ひとりの心のなかに外側から生みつけられるのである」(123p)
と書かれている。よく言われている話かもしれないけれども、これはちゃんと心に留めておく必要があるだろう。


125pでは川元祥一氏の『部落差別の謎を解く――キヨメとケガレ』が援用され、部落差別について、説明される。それは楠原さんが説明しているように「士農工商穢多非人」という身分制度からだけ説明されていたことと比較すれば、新鮮な解釈だろうが、黒川みどりさんの解釈はそこからさらに先に行っていると感じている。うまく、言語化できないのだけれど。

そして、この節の最後に以下のように書かれている。ココ大事なとこだと思います。
 差別を学ぶということは、観念的に「心を変える」「理解しあう」といったような表層的なことではなく、差別の錯綜した根源を認識すると同時に、日常的に差別と向きあい、さまざまな方法で差別とたたかうという、きわめて実践的な行為である。127p

大事なトコではあるけど、この読書メモを連れに読まれるのはつらいかも。
「家で何してる?食事は週に何回作る?」というような、つっこみがすぐにも飛んできそうだ。こんな読書メモ、書いてる場合じゃないかも。

しかし、【観念的に「心を変える」「理解しあう」】というのは表層的なことだろうか?

いつも言われるんだ「口でいうことと、体がやること」ほんとなのはどっち?って。


 マジョリティとマイノリティを隔てている私たちの社会の構造(壁)に、共生に向かう風穴を開けることのできる鍵は、そうしたまだるっこい日々の交わりの過程にしかひそんでいない・・・。私たち一人ひとりの「人間化」とは、かくもまだるっこい日常の営み(相互の人間化)のなかにしか存在しない。128p
もう、これはその通りだとしか思えない。100%共感できるけど、なかなか実践できてないところだなぁ。


 苦痛にあえぐ重い障がいをもった隣人や失意の友人……と、一人で日常的に向きあおうとしたら、両方とも潰れてしまい、苦痛が苦痛を生むということにもなりかねない。さまざまな他者との苦痛の「共有」「分担」(苦痛の社会化・政治化)を目指す実践がどうしても必要となる。

 (略)。行政やNGO/NPOなどの本当の役割とはそこにあるのかもしれない。129p


山之内靖さんが書いている「受苦」とはこの【さまざまな他者との苦痛の「共有」「分担」(苦痛の社会化・政治化)を目指す実践】のことだろうかと思った。山之内さんの本を読んだとき、「受苦」について理解できていなかったと思うので、根拠はないのだけど。

それを社会化・政治化しなければならないという部分に強く共感。

確かにNGO/NPOの役割はそこが大きいと思う。しかし、それだけじゃないだろうし、行政はもっとそうだろう。

ともあれ、上記の文章に続いて、「しかし、差別や排除や偏見はなくならない」と突き放したような文章がでてくる。歴史の移り変わりの中で、別の差別・差別関係がつくりだされる、と断言している、として以下のように書かれる。
だから、「差別のない社会を!」というのはしょせん不可能でありえない命題であって、「差別としっかりと向きあって、堂々とたたかえる社会を!」ということのほうが理にかなっている。130p
これは、実際そうなのだと思う。いわば、『永続反差別闘争論』か。
そして、このことを指摘してくれたのは、この授業の2年目の受講生だったという。

【〈9〉差別とアイデンティティ】の冒頭ではアイデンティティとは、他者とともに生きていくための尊厳と意味を与えてくれる【誰か・何かに対する帰属意識】だと書かれているが、同時にアマルティア・センの排他的なアイデンティティは人を殺すという話やチョン・ヨンヘさんのアイデンティティの政治権力への批判的な見解も紹介されている。131-3p

とはいうものの、、
やはり「わたしの物語」を複数のアイデンティティで語ることのできる人はこの社会では特権的な存在ではないか(134p)
と、この〈9〉の説明を閉じている。

というわけで、この項ではアイデンティティの『政治』(あるいはアイデンティティ形成をめぐる力学)の両面性を指摘しているだけど、それを両立させるのはアイデンティティの複数性だと指摘しながら、その困難も指摘し、結局、そこでアイデンティティとどうつきあっていけばいいのか、何も書かれていないようにも思える。

複数のアイデンティティを獲得できるということは本当に特権的なことなのかどうか、というのは疑う必要があるのではないか。特権的な存在でなくても、日常的に人は複数のアイデンティティを使い分けているのではないだろうか。あるときは会社員、あるときは親のこども、またあるときは性別で、と、このようにアイデンティティは間違いなく複数の要素で成り立っている。単一の要素に収斂するなどということはありえないだろう。

ただし、その複数のアイデンティティの要素が抑圧的なものとして、一体化することはあるかもしれない。例えば、日本(北の先進工業国)に日本人として生まれ、男で、正社員で、健常者で、夫で、父で、家父長で、稼ぎ頭である、という風に。

しかし、この複数だけれども一体的なアイデンティティの要素に亀裂が入ることはありそうな気がする。その亀裂に耐えられないものがレイシズムに走るというようなこともまた、ありそうだ。

という風に「アイデンティティの複数性」を考えると、複数の要素を持つ、アイデンティティのベクトルが一つの方向を向いているのかどうか、という風に考えられるのではないか。

また、そこに複数の引き裂かれるような方向性があるということを自覚するのは、そんなに難しく特権的なことなのだろうか、という思いもよぎる。

そういう意味で、ここで紹介されているチョン・ヨンヘさんの「"記憶の政治"の敗者、つまり、言語化されなかったものの身体化された疼き続ける記憶」への選択的自己同一化というのは興味深い。


引き裂かれたものにならざるを得ない、複数のアイデンティティの要素を、まとめあげようとせず、引き裂かれたものとして、そのまま受け入れる単純さ、みたいなものが大切なんじゃないか、



そして、すごく興味深かったのが、
【〈10〉市民社会がつくりだす新たな排除と差別】
で引用されていた赤坂憲雄さんの、1980年代以降のイジメの背景に、クラスに障害者が少なくなったことではないかという話だ。

赤坂さんの文章、孫引き
 おそらく現在の学校という空間は、この差異の喪失状況を典型的なまでにしめしている。そこにはもはや、絶対的な、誰の目にもあきらかといった差異は存在しない。可視的な差異を背負った子供たちは、特殊学級や養護学校(引用者注:現在の特別支援教室や特別支援校)にあらかじめ振り分けられ、排除されてゆく。養護学校義務化(1979年)が、かぎりなく学校という場の均質化を推しすすめたことは疑いない。

 微細な差異をおびて浮遊する、分身のようによく似た子供たちの群れ、小学校のクラス集団が、仲間というより極度に緊張した孤独な群衆にみえてくる、という現場を歩いたいく人かの取材記者の判で押したふうな感想も、同一の現象をさしている。差異の消滅とは秩序の危機である。(初出『朝日ジャーナル』1986年6月6日号、現在は大幅に加筆訂正され、ちくま学芸文庫版の『排除の現象学』1995年に収録)135-6p


79義務化以前の普通クラスにどれだけ障害をもったクラスメイトがいたかと思い出せば、高校の同級生には確かにいたのだが、…それ以降のクラスにどんな変化があったのか、ぼくは知らない。

とはいうものの、ぼくは311で初めて知った赤坂さんがこのような指摘をしていたという事実に驚く。


137pではLDやADHDが「発見」されたことによって新たな排除や差別が生まれたという批判を紹介した上で、以下のように書かれている。
 こうした背景には、近代民衆の社会運動による人権思想の発展・普及と、後期資本主義国家システムによる民衆能力の効率的管理・搾取という二つの異質な力関係が見えないところでうごめいているのを、私たちは見落としてはならない。


アスペルガーという診断で、生きていくのが楽になったという話は聞くが、LDやADHDはどうなのだろう。

親にとってはLDっていう診断は気持ちを落ち着かせるものがあるかもしれない。

ADHDについても、これは障害だからということで、本人を許容できるよになるという側面はある。まわりから、そんな風に理解されることは、本人にとって、生きやすくなることとつながる部分はあるだろう。

しかし、それが同時に「後期資本主義国家システムによる民衆能力の効率的管理」という側面にもつながる。

場合によっては、彼らだけに必要な専門的な合理的配慮が必要な場面もあるかもしれない。しかし、それは普通級のなかでできない話ではないはずだ。



154pでは現代の「関係の貧困」や「関係の危機」が尋常なものではなく、子どもや若者を苦しめていると楠原さんは指摘する。そして、彼らの人間的・社会的成熟を支えるはずのセーフティネット(家族・職場・地域・福祉社会などの相互扶助網)が機能していないという。

さらに日本の若者の自尊感情がひ弱なことなどがさまざまな例で示されている。そこには160pには、いまは亡き河地和子さんの名前と『自信力』も紹介されている。


172pでは「イジメ」に関する仲裁者と傍観者の出現比率の話が紹介される。イギリスとオランダでは中学校1〜2年を境に「傍観者の出現比率」が減少し、「仲裁者の出現比率」が上がっている。詳しくは森田洋司著の『いじめとは何か――教室の問題、社会の問題』と、そこから援用しつつ、「市民性の教育」の大切さを解く。その中身は社会的排除とたたかい、他者との人間的市民的結びつきを強めようとするものとのこと。

以下、引用
シチズンシップの教育とは、一人ひとりが尊厳と力をもった社会的・市民的存在であって、そうした一人ひとりの社会的役割が保障される市民社会の、その担い手の育成を目指すものであるという。172p

もしかして、いまぼくが少しだけ協力している某定時制高校のプロジェクトの狙いはここから来ているのか、と思った。


「いまどきの学生は勉強しない」とか「学力が低すぎ」とか、よく聞く話だ。楠原さんはそれに対して、そういう学生を生み出す社会や教育制度を作り出してきた大人の責任を問うべきだという意味のことを言っているのだと思う。207p

学生の〈現場〉体験が学ぶモチベーションを高めるのだが、それを大学側がちゃんと受け止められない。とした上で、こんなふうにも書いている。
 学生たちの学びたいという欲求は、彼ら/彼女らの社会的・市民的成熟と重なりあいながら深まっていくのである。
 学生たちは性来の自分の生き方とかかわって、〈現場〉での生々しい学びを大学での学びにつなげようと必死になっている。・・・223p


ここから、楠原さんは書いていないけれども、もう一つ必要なことがいえると思う。それは働いて社会でさまざまな経験をした人間が学ぶ場所の少なさだ。もしかしたら、モチベーションが低い時に無理に大学に行く必要はないのかもしれない。ただ、学びたいと思った時に学べるようなシステムが、いまの日本にはない。

234pからは「今日、日本の大学に欠落している学生たちの学びのための重要な刺激要因(incentive factors)」が11項目挙げられている。
そこには主権者・ピープルとしての学生が尊重されなければならないこと、とか、多様性の保障とか、現場とつながることなどが挙げられている。


この提案が終わり、本はエピローグとなる。
タイトルは『3・11後を生きる』
そこで、緒方正人さんの長い引用をしたあとに、こんな風に書かれている。
緒方ほどに巨大システムから降りる力も勇気もない、自然や死者たちから自分が〈受容されている〉という信念(信仰)もない私たちは、どうすればいいのだろ。本書で私が考えてきたのはそのことだった。248p


ここから、このメモの冒頭で紹介した、本のカバーの折り返し部分の文章につながる。

順番は入れ替わって、以下のような形で
この巨大なシステム社会にまったく依存しないで生きることは、容易なことではない。

しかし、片足はシステム社会に、もう一方の足は比較的に自由と選択の余地のある等身大のネットワーク社会におくことはできるのではないだろうか。

学ぶこと、働くこと、心身を癒すことと、食べること、楽しむこと、祈ること・・・・・・などを自分(たち)の手に取り戻すこと。

一人ひとりがそんな風に生き方を転換していくことで
巨大システムの倫理なき暴走にブレーキをかけることができるのではないか
と楠原さんは書く。

ブレーキをかけ、その方向を転換させる方法はたくさんあるのだと思う。とりあえず、それを頭で考えるだけでなく、やってみることが大事なのだと思う。できるだけ自分の頭で考えて。カルト宗教やいまだに内ゲバを反省していないカルトのような社会運動の組織に足元をさらわれないように注意しながら。


この本の末尾のメッセージは気持ちいい。いろいろうまくいかない若者たち、楠原さんは自分が「いまだって、そこから卒業できているわけではない」とした上で、いちばん最後に以下のように呼びかける。
 それでもヘコタレズに生きていこうよ! という意志をこめて、本書を見えない/見ようとしてこなかった隣人や世界と向き合って生きようとしている、「未然の可能性」(フレイレ)を秘めた若者たちと大人たちに贈りたい。250p

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